どうしてそうなった 1
吉田と王子と廊下で別れ、新学期に心を躍らせながら元気に挨拶をして教室へと入る。すると近くにいたクラスメート達は皆、返事をしてくれて嬉しくなった。
「あ、テレーゼおはよう!」
「おはよう、レーネ。新学期もよろしく」
「うん! こちらこそよろしくね」
そのまま皆に挨拶をしながら、自席へと向かう。そして既に着席していた隣の席のテレーゼに声を掛ければ、今日も女神のような美しさの彼女はふわりと微笑んでくれた。
やがてテレーゼは、兄から取り返してから握りしめたままだった、私の手のひらの中の単語帳へと視線を向けた。
「登校中も勉強していたの? レーネは努力家ね」
「次の……ええと、そのまた次のランク試験では、なんとかCランクになりたいなって思ってるんだ」
「私で良ければ協力するわ。頑張ってね」
「ありがとう! テレーゼ大好き!」
間違いなく、今の私はDランクの中でも下の方だろう。今回は運良くギリギリ引っかかっただけで、ここからCランクに上がるのはかなり大変に違いない。
とにかく次回のランク試験はDランクをキープしつつ、基礎を固めたいと思っている。
「あとは恋愛も頑張るつもりだから! 恋をします!」
そう宣言すると、テレーゼはくすりと笑った。
「そう言えば、来月の音楽祭をきっかけに恋人ができる人も多いと聞いたわ」
「そうなんだ。やはりイベントマジック……!」
悲しいことに体育祭、宿泊研修という大きなイベントでも浮いた話がほぼなかったのだ。今度こそはと意気込む。
「音楽祭、楽しみだなあ」
またもや練習漬けの地獄の日々が始まることなど知る由もない私は、呑気な顔をして再び単語帳を開いたのだった。
◇◇◇
そして昼休みはテレーゼやクラスメイトの女の子達と、お喋りに花を咲かせながら学食で昼食をとった。やはりユッテちゃんも、音楽祭で恋をしようと目論んでいるらしい。
「頑張ろう、レーネちゃん!」
「うん! 頑張ろうね」
夏休みも楽しかったけれど、久々の学園生活もやっぱり楽しいなと思いながら、教室へと足を踏み入れた時だった。
「それでね、吉田が──っぷ!」
突如、顔面に向かって何かが飛んできたことで、私はそのまま尻餅をついてしまう。
咳き込みながら何が起きたのかと辺りを見回せば、どうやら丸められた謎の布が当たったらしい。顔を上げるのと同時に、申し訳なさそうな顔をしたヴィリーが駆け寄ってくる。
その手には掃除用具の箒があり、一瞬で察した。
「ちょっと男子! 何やってんの!」
「いやあ、悪いなレーネ。クロッケーの話で盛り上がっちゃって、教室にあるものでやってみてたんだよな」
「初等部の昼休みかな?」
クロッケーというのは、ゴルフ的な貴族の遊びだ。父がよく付き合いで行っているという話は、聞いたことがあった。
それにしても、新学期早々いい加減にして欲しい。さすがに怒っているとヴィリーの後ろにいる男子生徒達も、気まずそうな表情を浮かべ、こちらを見ていた。
「俺、決めたんだよ。世界を獲るって」
「ていうか、この汚い布なに?」
「あ、それはその辺にあった雑巾」
「ねえちょっと口の中にも入ったんだけど」
本当にあり得ないと腹を立てた私は箒を奪い取り、ヴィリーをばしばしと叩く。魔法薬学の授業のみでは飽き足らず、どれだけ私を汚せば気が済むのだろうか。
私だからよかったもののテレーゼだった場合、万死に値する。そう思ったけれど、彼女は普通に避けられそうだ。
「痛い痛い! 悪かったって、もうしないから!」
「当たり前でしょ! ……はあ、うがいしてくる」
とにかく気持ち悪くなった私は、急ぎ足で廊下にある水飲み場へと向かう。ファーストキスもまだなピュアな唇に、何をしてくれるんだ。
そうして何度もうがいをしていると、不意に後ろから「レーネちゃん?」と名前を呼ばれた。
「どうかしたの? 大丈夫?」
「あ、ラインハルト」
振り返った先にはラインハルトの姿があり、彼は今日もキラキラ輝いている。近くを通る女子生徒達も皆、釘付けだ。
ずっとうがいし続ける私の様子を見ていたらしい彼は、心配げな表情を浮かべている。とは言え、私も一応は年頃の乙女なのだ。顔に雑巾が当たったとは言い辛い。
「その……ちょっと、汚されちゃって……」
「──レーネちゃんの唇が?」
「ええと唇もそうだし、若干、中もかな」
そう答えると、ぴくりとラインハルトの肩が跳ねた。
「それ、誰にされたの?」
「ヴィリーだよ。子供のノリもいい加減にしてほしいよね」
「……そう」
私の頰にそっと触れた彼の瞳からは、何故か光が消えている。ハンカチを渡され受け取ると、ラインハルトは続けた。
「レーネちゃんは何があっても綺麗だよ。誰よりも」
「うん……?」
「僕が全部なかったことにしてくるから、安心して」
「うんん?」
どうして突然褒められたのか、全部なかったことにするとはどういう意味なのか、さっぱり分からない。
そんなラインハルトは「先に行くね」と言うと、するりと私の頰を撫で、廊下を歩いていく。
「…………?」
よく分からないまま、その後、数回うがいを繰り返した私は教室へと向かった。大分すっきりした気がする。すると教室の方向が、やけに騒がしいことに気が付いた。
「なになに? どうしたの?」
「喧嘩らしいよ」
明らかに日常では聞こえてくるはずのない爆音や大声を聞きつけたのか、廊下には人だかりができ始めている。
「おい待てラインハルト! 殺す気かよ!」
「そのつもりだけど」
「何でだよ! うわっ危ねえバカ!」
喧嘩だなんて珍しいなと思っていると、そんな声が聞こえてきて、私は人混みを掻き分け慌てて教室の中へ入る。
するとラインハルトがヴィリーに、氷魔法で容赦のない攻撃をしているところだった。えっ、なんで?