家族ごっこ 2
おかあさん、おとうさん。
間違いなくレーネは今、そう言った。記憶喪失でも、夢の中で何かを思い出すなんてことがあるのだろうか。
もしくは、このまま記憶が戻ってしまうのかもしれない。そんなことを考えては、心臓が嫌な音を立てていく。記憶が戻れば、俺に笑いかけてくれることは二度とないだろう。
「……っひとりに、しないで……」
「うん、大丈夫だよ」
自分にもそう言い聞かせ、彼女の涙をそっと指先で掬う。レーネの涙を見ると、何故か胸の奥が痛んだ。泣いている人間など、鬱陶しいとしか思っていなかったはずだったのに。
彼女を利用すると決めたはずが、悲しい顔はして欲しくないと思ってしまうなんて、本当にどうしようもない。
『なんていうか、すごい兄妹っぽいね』
『……私ね、こういう家族にずっと憧れてた気がする』
思い返せばレーネは時々、「兄妹」や「家族」に対して憧れを抱いているような様子を見せていた。
記憶がなくともこうして泣きながら夢に見るくらい、彼女は正しい家族を求めているのだろう。過去も今も、彼女には亡き母親以外に、まともな家族は存在しなかったからだ。
今は夢の中で、母親が死んだ時のことを思い出しているのかもしれない。そう思った瞬間、ふと引っ掛かりを覚えた。
彼女は母親のことを、お母様と呼んでいたはずだ。そもそも今の父である伯爵のことを、父という名称で呼んだこともなかった。「あの」と消え入りそうな声で声を掛けるだけ。
実の父親は、生まれる前に亡くなったと聞いている。
「……まさか、ね」
夢の中なのだ、現実とは違う環境の夢を見たり、寝言を言ったりすることだって十分あり得るだろう。そうは分かっていても、あり得ない仮説が浮かんできてしまう。
今までもレーネのあまりの変化に、『別の人間が入っているのではないか』と思ったことは何度もあった。とは言え、そんな魔法は存在しないのだ。
くだらない妄想でしかないと、自嘲する。
「お前さ、本当になんなの? 調子狂うんだけど」
いつの間にか泣き止み、再び寝息を立て始めたレーネの柔らかな頰に、指先を滑らせる。すると幸せそうに、嬉しそうに彼女は小さく笑って、悔しいくらいに心臓が跳ねた。
「……俺、こういうキャラじゃないのにな」
俺は明日も、彼女に本当のことを言えない気がした。
先程の涙や悲痛な言葉のせいか、まだ家族ごっこを続けようという気持ちになってしまう。何度こんなことを繰り返しているんだろうと、絆されすぎている自分に笑えてくる。
けれどそんな自分が嫌いではないと、思い始めていた。
◇◇◇
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が眩しかったのか、逃げるように寝返りを打ったレーネはゆっくりと目を開けた。
一晩中、側にいた俺を視界に入れるなり彼女は固まって、1分ほど経った後、ようやく状況を理解したようだった。
「おはよ、具合は大丈夫?」
「えっ……ユリウス、どうしてここに?」
「熱、完全に下がったみたいだね」
そう告げれば「あ」と声を漏らしたレーネは、どうやら昨晩のことを思い出したらしい。
ガーデンパーティーから帰宅後、何だかぼうっとするとは思っていたようで、途中から記憶がないのだという。今は完全に熱も下がっており、体調は良いようだった。
彼女の体調に問題なかったこと、そして記憶を取り戻した訳ではなかったことに、安堵している自分がいた。
後ほど、あらためて医者に診てもらうことにする。
「もしかしてユリウス、ずっとそばにいてくれたの?」
「レーネが泣きながら側にいてって言うから、仕方なくね」
「また適当なことばっかり言って。でも、ありがとう」
レーネはそう言って、ひどく嬉しそうに微笑んだ。様子を見ていただけだというのに、それはもう大袈裟なくらいに。
彼女は記憶喪失になってから、何気ないことや当たり前のことに対して、いたく感動したり喜んだりする節があった。
「最近、私のこと避けてるのかと思ってた」
「避けてたよ。妹に噛み付くとか、流石に恥ずかしいし」
「えっ? もしかして照れてたの?」
「まあね」
そんな嘘を吐けば、レーネは安堵したように笑う。昨晩の彼女の様子を見て、妙な気を起こす気もなくなっていた。
「レーネの変な寝顔を見てたら、照れてるのも馬鹿らしくなったんだよね。これからは普通に接してあげる」
「ちょっと」
失礼だと言わんばかりに俺の肩を叩くレーネに、思わず笑みが溢れる。馬鹿みたいにまっすぐでお人好しで、一生懸命で明るいレーネの側にいると、暗く深い沼の底にいるような日々から、掬い上げられていくような感覚がしていた。
それでも、絶対に目的は果たすつもりだった。例え、レーネに嫌われることになったとしても。
「とりあえず、朝ご飯でも食べにいこっか。流石に俺も眠たいし、その後はレーネの膝枕で寝ようっと」
「膝は貸さないけど、枕なら貸してあげる」
「レーネの? 悪くないかも」
「はい、アウトです」
「あはは、冗談だよ」
そうしてレーネの手を取った俺は、まだ知らない。彼女が本当のことを知る未来が、近づいて来ていることを。