まだ始まりに過ぎない
兄が怒っているらしいことは、すぐに理解した。
それがセシルと一緒にいたせいだということも、何となく想像がついたけれど。いつものようにすぐに文句を言ってこなかったから、あまり気にしていないと思っていたのだ。
「あんなに嫌っていたセシルとずっと一緒にいるから、弱味でも握られてるのかと思っていたのに、楽しそうだったね」
「えっ? それは、その」
責めるような視線を向けられ、まるで私が浮気でもしたかのような空気になってしまっている。
「俺のことなんて忘れてたんだ?」
「そ、そんなことないよ! ユリウスと遠乗りに行くの、すごく楽しみにしてたし」
「嘘つき」
何度も本当だと言っても、全く信じてもらえない。やがてユリウスは自嘲するような笑みを浮かべると、腕を掴んでいない方の手で、そっと私の頬に触れて。
「もっと一緒にいたいと思ってたのは、俺だけだった?」
そして告げられたそんな言葉に、心臓が大きく跳ねた。彼の美しいふたつの碧眼から、視線を逸らせなくなる。
いつも余裕たっぷりのユリウスらしくない、切なげな、寂しげなその表情に、私は戸惑いを隠せずにいた。
いつもの兄のシスコンと距離感バグだと、もちろん分かっている。それでもバカみたいな勘違いをしてしまいそうになるくらい、その瞳は熱を帯びているように見えた。
「わ、私も、そう思ってるよ」
「本当に?」
「うん。本当に、本当」
なんとかそう答えれば、ユリウスはふわりと微笑んだ。よく分からない空気感のせいで、調子が狂ってしまう。
とにかくセシルと朝から晩まで一緒にいるのも、今日で終わりなのだ。明日は彼からこっそりと自称ヒロインの話を聞き、その後はなるべく兄と一緒に過ごそうと決める。
「その、事情があってセシルに朝から晩まで勉強を教えてもらっていたんだけど、明日以降は自由になったし、ユリウスが暇な時間は一緒に過ごそう」
「事情って何?」
「ええと、それは言えないんだけど」
「俺には言えないことなの?」
そう言って、やはり責めるような視線を向けてくる兄は、初めて会った時とはまるで別人のように見えた。
「ユリウスだって、私に言えないことはあるでしょ?」
「まあ、そうだけど」
過去のことだって、彼自身が抱えていることだって、私は何も教えてもらっていないのだから。
「でも俺は、レーネのことは全部知りたい」
「欲張りすぎない?」
「あはは、確かに。本当に俺、どうしちゃったんだろうね」
他人事のようにそう呟くユリウスの胸元を、色々と耐えきれなくなった私は、自由な方の手でぐいと押した。
「あの、とにかくあっちのソファに座って話さない? この体勢は心臓に悪いし」
「どうして?」
「いや、どうしても何も」
「俺にドキドキしてくれてるんだ?」
そんなふざけたことを言い、満足げに笑うユリウスは、更に顔を近づけてくる。そうして鼻先が触れ合いそうになったところで、私は隙をついて全力で逃げ出した。
あーあ、なんて残念そうに言う兄は、絶対におかしい。こんなの、仲のいい兄妹のラインを完全に超えている。
けれど結局、再び兄に捕まってしまった私はソファに並んで座り、眠たくなるまで話をして過ごすことになった。
「セシルのこと、好きになってないよね?」
「うん。嫌いじゃなくなったけど」
「へえ? あいつ、何か余計なこと言ってなかった?」
「特には何も」
ユリウスの言う、余計なことが何なのかはよく分からないけれど、多分なかったはずだ。
「俺がジェニーやソフィアといても、レーネは焼きもちのひとつも焼いてくれないんだね。酷いな」
「勉強を教えてるだけでしょ」
「俺はセシルに勉強を教えられてるだけでムカつくけど」
「重いよ」
そう正直な感想を述べたところ、兄は「本当に酷いね」なんて言い、私の頬をぎゅうっと両手で押して。
不細工なタコみたいな顔になっているであろう私を見て、「かわいい」なんて言う兄は、末期のシスコンだと思った。
◇◇◇
翌朝、機嫌の良い兄や両親達と朝食をとった後、ユリウスが火花を散らす女性二人に捕まったのを確認した私は、セシルと共に街中へとやって来ていた。
「何で話をするだけで、ここまで来ないといけないんだよ」
「この4日間は勉強頑張ったし、息抜きしたくて」
本当は、気兼ねなく話をしたかっただけなのだけれど。適当なカフェに入ると、文句を言いながらもセシルはしっかりケーキ二つとコーヒーを注文していて、笑ってしまう。
私もケーキと紅茶を頼み、やがてそれらが届くと彼は例の女子生徒について話し始めた。
「名前はアンナ・ティペット。侯爵令嬢で、俺は好みじゃないけどかなりの美人だな。Fランクのバカだったけど男女共に好かれている人気者で、最近は隣国の王子といい感じ」
「…………」
私の悲惨なスタートとはえらい違いだけれど、もしかすると私が知らないだけで、続編なんかがあるのかもしれない。
とは言え、そんな温すぎる環境スタートのヌルゲーがこのゲームの続編だなんてこと、有り得るのだろうか。ついつい嫉妬を覚えながら、そんなことを考えていたのだけれど。
「セシルはアンナさんとよく話すの?」
「全然。俺をコウリャクタイショー? とか言ってよく話しかけてくるけど、うざったいから無視してる」
彼女は間違いなく、全然余裕で普通に転生者だった。