空白の10年間 2
男性が入ってきた途端、店内がピリッとした嫌な重苦しい空気に包まれた。
「……なに、あいつ」
ルカは眉を顰め、嫌悪感を露わにしている。おばあさんも不安げな顔をしている中、すぐに厨房からおじいさんが出てきて、男性と何かを話し出す。
会話の内容は聞こえないものの、おじいさんの様子を見る限り、良い話ではなさそうだった。
「マフィアだろうね」
「えっ? マフィアなんているの?」
冷静なユリウスに対し、思わず聞き返してしまう。
「もちろん。貴族でもマフィアと繋がっている人間は多いし、薬や人身売買が問題になっていることもあるくらいで」
「……どいつもこいつも、ゴミみたいな奴らだよ」
嫌悪感を露わにしているルカは、マフィアという存在をよく知っているようだった。
元の世界にもヤクザやなんかは存在したけれど、まさかこのふざけた世界にもそんな恐ろしい存在がいるとは思っていなかった。
夏休みに散々な目にあったDBの犯罪組織も含め、物騒なことも多くて胸の奥がざわつく。
「──さっさと決めろ、俺らも気が長い方じゃないんでね」
やがて男性は吐き捨てるようにそう言って、荒々しくドアを閉めて去っていった。
その場に残されたおじいさんの表情はとても暗くて、とても良い関係には見えない。
「あの、何かあったんですか?」
「いいや、何でもないよ。すまないね」
つい心配になって声をかけたものの、おじいさんは困ったように微笑むだけ。
無関係の立場ではそれ以上尋ねられそうになく、本当に何もないことを祈るばかりだった。
帰宅後は軽く家事をして、学校の予習復習をし、てきぱきと寝る支度を済ませた。
元々あの伯爵夫妻に頼ったり甘えたりはしていなかったものの、この屋敷に来てからは何故か自立心がめきめきと育ち、時間を無駄にせずに過ごすことができている。
髪が絡まないよう緩く三つ編みにした後、居間に向かい、大きなソファに寝転んで本を読んでいるルカに声をかけた。最近は居間で過ごすことも多くなっていて、なんだか嬉しい。
「ルカーシュくん、もうそろそろ寝る時間ですよ」
「えー、まだ眠くないのに。じゃあ寝るまで姉さんが側にいてくれる?」
「もちろん。羊を数えるプロの私に任せて!」
私が口うるさくしていることで、ルカもしっかり三食食べて規則正しい生活を送っていた。
以前より顔色は良くなって健康的になった気がしており、ほっとしている。
「着替えて歯磨きしてくる」
「うん、偉いね」
「へへ」
そう褒めただけでぱあっと嬉しそうな顔をするルカはやっぱり宇宙一、銀河一かわいい存在で、愛おしくて仕方ない。
ルカの幸せのためなら何でもできる気がする、なんてしみじみ思っていると、後ろからするりとお腹に腕を回され、背中に軽い重みを感じた。
「あいつ、レーネに甘えすぎじゃない?」
「そんな私もユリウスに甘えすぎてると思うんだ」
「そう? レーネはもっと甘えてくれていいよ」
ユリウスはどこまでも優しくて甘くて、ダメ人間になってしまいそうだ。
「まあ、あいつにもそういう時期も必要かもね」
「……うん」
離婚を機にルカは幼い頃から母親のいない日々を送っていた上に、お父さんが事故にあってからは必死に働いて代わりにお金を工面したりと、たくさんの苦労をしてきたはず。
そんな中、伯爵のせいで姉のレーネにも捨てられたと思っていたのだから、尚更だろう。
誰かに甘えたり世話を焼かれたりという経験が少ないからこそ、私が世話を焼いたり口うるさくしたりしても、嬉しそうにしてくれるのかもしれない。
そう考えると胸の奥がきゅっと切なくなって、より甘やかしたいなと思ってしまう。
「レーネはいいお母さんになりそう」
「えっ、初めて言われたよ」
「その前に俺の奥さんだけどね」
「……本当にそういうこと言うの、恥ずかしくないの?」
「全く? 絶対に揺らがない事実だし」
「…………」
爽やかな笑顔のブレないユリウスが彫像のような顔を近付けてきたところで、居間に「おい!」という大きな声が響く。
「俺のいない隙に姉さんにくっつくな! 油断も隙もなさすぎだろ」
寝る支度を終えたルカは、後ろからユリウスに抱きしめられている私を見て、頬を膨らませながらこちらへ向かってくる。
そしてユリウスを引き剥がし、私を守るように間に入った。
「姉さん、俺が歯磨きしてあげる」
「さっきもうしたし、ユリウスとは何もなかったよ」
「ううん、近づいて空気感染で汚れた」
「追い出してやろうか」
二人の言い合いはやはり尽きないけれど、大好きなユリウスとルカとの三人での新生活は賑やかで楽しくて、温かくて幸せで、こんな日々がずっと続くといいなと思った。
◇◇◇
そんなある日の深夜、早くにベッドに入ったせいか日付が変わる少し前に目が覚めてしまった。
しばらく目を瞑って再び寝る努力をしたもののなかなか寝付けず、そっと部屋を出る。
「ふわあ……温かい飲み物でも飲もうかな」
そうしてキッチンへ向かう途中、みんなを起こさないようにと暗い廊下をそろりそろりと歩いていたところ、角を曲がったところで何かにぶつかった。
「!?!???!?」
ビビり選手権があったら優勝できる自信がある私は、もはや驚きすぎて声すら出ないまま、情けなく床に尻餅をついてしまう。
こんな時間にこんな暗い廊下にいるなんて幽霊か泥棒かと慄いたものの、やがて暗闇に目が慣れて見えてきたのはルカの姿だった。
「──ル、ルカ?」
「姉さん? どうしてこんな時間に……」
私の姿を見て同じく驚いているルカは、数時間前に「おやすみ」と言って別れた時には色違いで買ったパジャマ姿だった記憶がある。
けれど今は上下黒いスーツを身に纏い、黒い手袋まではめていた。実年齢よりもずっと大人びて見えて、とても学生とは思えない雰囲気で一瞬、知らない人にさえ見えたほど。
「もしかして、どこかに行くの?」
「……ちょっと仕事で急用ができたんだ。すぐに戻るよ」
私の問いに対し、ルカは少し気まずそうな顔をして笑う。私に隠して行くつもりだったのだろうと、すぐに分かった。
「こんな時間に行く必要があるの? 危なくないの?」
「大丈夫だよ、少し話をしてくるだけだから」
「…………」
ルカの仕事についても、私はほとんど知らない。
けれど、こんな時間に出ていく必要があるなんて普通ではないことは確かだろう。




