はじめての 4
私はどうしようもなく鈍い自覚はあるけれど、その言葉が何を意味するかは分かった。
ユリウスの眼差しはひどく優しいもので、私の様子を窺ってくれているのが伝わってくる。
「…………」
上手く伝えられないけれど、大丈夫だという気持ちを込めて、こくりと頷く。
それでもやはり心底緊張してしまって、とくとくと鼓動が早くなっていき、ぎゅっとバルコニーの手すりを握りしめる。
まっすぐにユリウスを見つめながら、心の中で落ち着くよう必死に自分に言い聞かせた。
ユリウスは頬に触れていた指を滑らせると、親指で私の下唇をそっと開かせるように押す。
「じゃあ、舌出して」
「えっ……えっ」
予想していなかったとんでもない指示に、間の抜けた大きな声が出てしまった。
ユリウスは私の頬をふにっとつまみ、楽しげに笑う。
「あはは、冗談だよ。レーネが今から食べられちゃいますって顔をしてるから、からかいたくなっちゃって」
「ちょっと! 本当にびっくりしたんですけど!」
「ごめんごめん、でも一割くらいは本気だったよ」
「それはそれで怖いのでやめてください」
あまりにも真剣な顔で言われ、一瞬本気にしてしまったのが悔しい。
一方で己の余裕のなさが恨めしくなったけれど、いつも通りのやりとりのお蔭で緊張が解れ、肩の力が抜けていくのが分かった。
むしろ私の緊張を取り払うため、あんな冗談を言ったのかもしれない。
ユリウスもそんな私の様子に気が付いたのだろう。再び伸びてきた大きな手が、髪の中に差し入れられる。
そのまま手のひらを後頭部に回され、ユリウスの方に引き寄せられた。
「……いい?」
鼻先が触れ合いそうな距離で、そう尋ねられる。
溶け出しそうなくらい熱を帯びた瞳から、目が逸せなくなった。もう本当に少し顔をずらしてしまえば唇が当たってしまうくらい近くて、息を呑む。
それでもほんの少しだけ首を縦に振って頷くと、ユリウスは満足げに口角を上げた。
「ありがとう。……好きだよ」
ひどく優しい愛情を含んだ声に、目の奥が熱くなる。
やがてふわりと唇が重なり、慣れない柔らかな感触と温もりを感じた。
「…………っ」
触れ合っていたのは、ほんの二、三秒だったと思う。
それでも私にとっては、天地がひっくり返るくらいの出来事だった。一気に距離が近付いたような、関係が進展したような気がして、全身が熱くなっていく。
「ドキドキするね」
「……う」
初めてのキスに一気に色々な感情が込み上げてきて、ユリウスの顔が見られなくなる。
思わず身体を後ろに引くと、逃がさないと言わんばかりに腰に腕を回された。
「どうして逃げるのかな」
「叫び出しそうなほど恥ずかしいからです」
「かわいいね、レーネちゃんは」
「あのすみませんが、そういうの今ほんと響くのでちょっと待っていただきたく……」
この短時間で、ここ半年分くらいの体力と精神力を消耗した気がする。けれどその一方で、心の中ではユリウスと一歩前に進めたことが嬉しくもあった。
「……な、なんかすごく恋人になった感じがする」
「そう? ああでも、少し分かるかもしれないな」
なんだかんだくっ付いたりすることが増えたものの、付き合う前──仲の良い兄妹としての頃と大きな違いがあったわけではない。
けれど、キスは恋人とするものだ。これまでとの明確な違いを感じながら、自分の中でユリウスへの「好き」がさらに大きくなっていくのを感じる。
ぼふりとユリウスの胸の中に飛び込めば、ユリウスが頭上で嬉しそうに笑ったのが分かった。
「……困ったな」
「何が?」
「レーネのこと、さらに好きになった気がする」
そんな言葉に思わず顔を上げると、アイスブルーの瞳と視線が絡んだ。
「今ね、私も同じこと考えてた」
「本当に?」
「うん! すごいね」
「それは良いことを聞いたな」
すると私の背中に回されていた腕が離され、両手で頬を包まれる。
そして再び端正な顔が近づいてきて、目を瞬く。
「もう一回しよっか」
「待った」
もうHPの限界だと抵抗するも、力の差でびくともしない。こんな時ですらユリウスは男の人なんだななんて実感をして、ときめいてしまう。
「もっとすればもっと好きになってくれるかなって」
「すごい理論」
とはいえ否定できないどころか本当にそうなってしまいそうで、恐ろしい。
「それにこれくらい早く慣れてもらわないと」
「無理無理、そんな日は一生来ません」
「むしろ軽いので我慢してるだけ、褒めてほしいな」
「か、軽い……」
重いものを想像するだけで正直限界レベルで心臓に負担がかかっているけれど、ユリウスに喜んでほしい、私自身もっと近付きたいという気持ちはある。
小さく息を吐き、私はユリウスを見上げた。
「あ、あと一回だけなら……」
ユリウスは長い睫毛に縁取られた目を瞬いた後、ふっと顔をほころばせる。
「レーネは俺のことを甘いっていうけど、レーネも相当俺に甘いよね」
そして次の瞬間にはもう、唇が重なっていた。
思わず身体を強張らせてしまった私に、またユリウスは小さく笑う。
「ん、う……」
唇が離れて力が抜けたと同時に、再び角度を変えてキスをされる。それからは頭が真っ白になってしまって、私はひたすらにされるがままだった。
「かわいい」
「大好きだよ」
合間にそんな甘い言葉が降ってきて、くらくらと目眩がしてくる。胸が締めつけられ、呼吸の仕方だって分かるはずもなく、苦しくなっていく。
ユリウスだってきっと初めてなのに、どうしてこんなにも余裕があるのだろう。死にそうなくらいドキドキしながらも心地良くて、逃げ出したくなるのに嬉しくて、無性に泣きたくなる。
ようやく解放された頃には、一回だなんて嘘だったと文句を言うこともできなくなっていた。
「……そんな顔をされると、やめてあげられなくなりそうなんだけど」
ユリウスの言う「そんな顔」というのがどんな顔なのかも、分からない。
それでも既に致死量のドキドキなのは確実で「もう死にそう」とだけ伝えると、ユリウスは楽しげに「ごめんね、調子に乗った」と私を抱きしめた。
私ばかりが動揺していると思ったけれど、服越しに聞こえてきたユリウスの心音はこれまでで一番速くて、余計に落ち着かなくなる。
「あーあ、もう明日結婚しない?」
「落ち着いてください」
とんでもない提案に笑ってしまいながらも、その言葉や態度、全てからこれ以上ないくらいの愛情が伝わってくる。
冗談だとしても今の言葉が心から嬉しかったことも、本当は最後に唇が離れた時に少し寂しさを覚えたことも黙っておこうと思う。
「ずっと一緒にいてね、レーネちゃん」
「……うん、約束する」
そう返事をすれば、ユリウスは「やった」と子どもみたいに嬉しそうに笑う。
たくさんの感情で胸がいっぱいになってしまって上手く言葉にできないけれど、ユリウスのことを大切にしたい、幸せにしたいと強く思った。




