体育祭 5
何故兄が怒っているのか、分からない。壁ドンされているこの状況に関しては、それ以上に訳が分からなかった。
「ねえ、どうしたら俺のこと好きになってくれる?」
「は?」
「あ、でもこのふざけた設定のままじゃ流石に無理かな」
何を言っているんだろう、この兄は。そしてふざけた設定とは一体何だろうと思っている私に、彼は続けた。
「……本当はね、俺とお前は」
「レーネ、どこいったー? お前の出番だぞー!」
けれどユリウスの声と被るようにして、ヴィリーの私を呼ぶ声が聞こえてきて。私は自身が剣術の二回戦を控えていたことを思い出し、隙をついて壁と兄の間から抜け出した。
あれだけ辛い練習をしたというのに、不戦敗なんかで終わっては困る。吉田師匠に合わせる顔がなくなってしまう。
「ごめん、後でまた聞かせて! もう行くね!」
そうして私はユリウスの返事を待たずに、全速力で走ってその場を後にしたのだった。
……流石の私も、ほんの少しだけドキドキしてしまったなんて、口が裂けても言えるはずがない。倫理観、倫理観。
◇◇◇
「……覗き見なんて、やらしいね」
「流石に声を掛けられる状況じゃなかったよ、あれは」
「やっぱり?」
「学園ではやめた方がいいと思うな、一応兄妹なんだし」
そう言ってこちらへとやって来たアーノルドもまた、次の出番が近づいてきた俺を呼びに来てくれたらしい。一部始終を見ていたようで、軽く諌められてしまった。
俺だって、あんなことをするつもりじゃなかった。自分らしくないと思いつつグラウンドへと歩いていると、アーノルドが嬉しそうな表情を浮かべていることに気が付いた。
「なに、その顔」
「ユリウスはレーネちゃんが可愛いんだなって」
「そう見える?」
「うん。かなり」
どうやら周りからはそう見えているらしい。とは言え、自分でも彼女を気にかけてばかりいることに気が付いていた。
……最初は記憶を失い、全く別の人間になってしまった彼女に対して、純粋に興味が湧いた。俺をあんなにも毛嫌いしていた彼女が、まるで妹のような顔をして接してくるのだ。
そんな彼女は突然、この学園で上を目指すと言い始め、軽い気持ちで指導を引き受けたけれど。異常な速度で成長していくその様子にもまた、俺は内心驚きを隠せなかった。
その上、苦手だったはずの他国語が突然ネイティブのようになるなんて、本当に別の人間になったとしか思えない。性格だって、以前のレーネとは似ても似つかないのだから。
代わり映えのしない、この先の人生すら決まっている退屈な日々の中で、こんなにも奇妙で、面白いことはなかった。
今の彼女ならば、ジェニーを超えてSランクになる可能性だってゼロではない。だからこそ自身の目的の為、レーネに好かれようとしていたのに。笑える位に手がかかる彼女に絆されていたのは、どうやら俺の方だったらしい。
「レーネちゃん、一生懸命でかわいいもんね。きっとこれから、彼女のことを好きになる人は増えると思うな。レーネちゃんだって、そのうち誰かを好きになるかもしれない」
「想像するだけでムカつくね、それ」
「さっさと血が繋がってないって言えばいいのに」
「……さっきもそのつもりだったんだけど」
彼女は何故か「実の兄である俺」に対して、ひどく安心感を抱いているような気がするのだ。
だからまずは、このままゆっくりと距離を縮めようと思っていたのに。そのふざけた設定が邪魔だと思う日が、こんなにも早く来るなんて思いもしなかった。
「ユリウスはレーネちゃんにどうして欲しいの?」
「さあ?」
母があんな死に方をしてからというもの、何かに執着することなんて無くなっていた。
それでも、今のレーネのことは何よりも気に入っている。こんなにも俺をワクワクさせてくれるかわいい彼女を、他の奴に奪われるのだけは絶対に嫌だった。
「俺のことを好きになれば、俺の側から離れないかなって」
「ユリウスってかなり歪んでるよね。心配になるよ」
「俺達は似たもの同士だから、仲が良いんじゃない?」
「一緒にしないで欲しいな」
そんなくだらない会話をしながら、先程別れたばかりだというのに、レーネに会いたいと思った。
◇◇◇
「……くやしい」
「あれは相手が悪かった、仕方ねえよ」
剣術の二回戦の相手は経験者で、全く以て歯が立たなかったのだ。その上ジェニーの取り巻きの一人だったことで、余計に悔しさが増す。
たった1ヶ月練習しただけで、上手くいくなんてもちろん思っていない。それでもやっぱり悔しかった。そんな私を、隣に座るヴィリーは慰めてくれている。
「お前が頑張ってたの、皆分かってると思うし」
「……そんなに優しくされたら、余計に泣きそう」
「女子かよ」
「女子だよ」
そんなやりとりにお互いに顔を見合わせて笑うと、彼は私の頭にぽんと手を置いた。
「あとは俺に任せとけ。お前の分まで勝ってくるからさ」
「なんか今日のヴィリー、すごく格好良く見える。イベントマジックって本当にあるんだね」
「俺は常にすごく格好いいけどな」
そう言って私の背中をばしんと叩くと、ヴィリーは片腕をぶんぶんと回した。彼はこれから他種目の決勝があるのだ。
励ましてもらった分、しっかり応援しなければ。そう決めて、私は両頬を叩き気合を入れ直したけれど。
……移動の最中で吉田に遭遇し負けてしまったこと、とても悔しかったことを報告すれば「来年は必ず勝たせてやる」と言われ、結局泣いてしまった。吉田、好きだ。
それからも順調に体育祭は進行し、残すはアーチェリー決勝のみとなった。現時点で我がクラスは2位で、1位であるジェニー達のクラスとは僅かな差らしい。
だからこそクラス皆でアーチェリー場へと行き、応援することになったのだけれど。
「パウラさん、手を怪我して出場出来ないって……!」
聞こえてきたそんな言葉に、会場は騒然となった。パウラちゃんは長年アーチェリー経験のあるエースなのだ。そんな彼女が抜けるのは、痛手どころの騒ぎではない。
とにかく代わりの出場者を選ぼうということになったけれど、テレーゼやユッテちゃんといった経験者達は皆、既に最大出場数を満たしており出られないのだという。
このままでは、間違いなく優勝は難しい。それにこんな状況で出場したがる生徒など、いるはずがない。いつまでも立候補者は出ず、ひどく気まずい空気が流れている。
そんな中、悩み続けていた私はやがて静かに手を上げた。
「……あの、私が出ます」