はじめての地下生活
「おっと、足が滑ったわ」
「は」
けれど腰を下ろした途端、思い切りタックルをされたことで、吉田のプレートの上にスープの中身はぶちまけられ、パンは地面に転がった。
「残念だったなあ、代わりはないぞ。お前らにはその程度がお似合いだがな、ワハハハハ!」
「……くそ」
連れ去られた直後に現れたでっぷりと太った嫌味なぶん殴りたい男性──私たちは影でDBと呼んでいる、この施設で最も偉いらしい男は大声で笑い、去っていく。
DBは毎日こうして吉田やルカ、王子に対して陰湿な嫌がらせをしていた。先輩から聞いたところ、昔から美形を目の敵にしているんだとか。
「三秒以内に拾ったから大丈夫だよ! 私のパンと交換しよう、こう見えてお腹強いから」
「おい、別に交換しなくても──」
吉田が取り返そうとする前に拾ったパンにかじりつくと、「すまない」と困ったように笑ってくれる。
先日こうして落ちたものを食べて、吉田がお腹が痛くなったのを私は知っていた。
「ヨシダ先輩、俺のスープもどうぞ」
「…………」
「……ありがとうな」
中身がほとんどこぼれてしまった吉田の器に、ルカと王子がそっとスープを分けていく。DBの嫌がらせのたびに、私たちの絆は強くなっていく気がする。
「あいつ、俺たちを目の敵にしすぎじゃない? ほんと殺したいんだけど」
「…………」
ルカだけでなく、王子の表情にも苛立ちが浮かんでいる。流石に私も大切な弟や友人たちへの扱いに腹が立ち、毎晩呪詛をかけていた。
みんなにだけ過酷な仕事をさせたり、労働時間を伸ばしたり、少ない質素な食事に対してもこうして嫌がらせをしたりと、本当に今まで出会ってきた中でもトップクラスに嫌な人間だ。
「絶対に一度、思いきり殴ってやらないと!」
「姉さんは優しいね、息の根を止めるまで殴りたいよ」
かわいい顔で物騒なことを言ってのけるルカは、相当イライラしているようだった。既に何度か手を出そうとしていて、必死に三人で押さえつけているくらいだ。
DBの他にも大勢の見張りがいる上に魔法が使えないとなると、すぐに取り押さえられて酷い罰を受けるのが目に見えている。
「それにしてもこのパン、本当に噛めば噛むほど悲しい気持ちになってくね」
「分かる。どうしたらこんなまずいの作れるんだろう」
「逆にすごいよ、嫌がらせのために作ってるとしか思えないもん。小麦粉に謝ってほしい」
お腹を満たそうと硬いパン一口を何度も何度も噛んでいるものの、ボッソボソで味は薄く全く美味しくない。
スープも具はほとんどなく、一ミリほどの人参や玉ねぎなどの野菜が気持ちだけ入っている。
「今なら地上の食べ物、なんでも涙が出るほど美味しく感じそう」
「だろうな」
この地下に攫われてきてからというもの、地上で暮らしていた頃──もはや遠い昔に感じられる頃、どれほど恵まれた生活をしていたのかを実感した。
そもそも普段生活をしていた場を当たり前のように「地上」と呼んでしまう辺り、もう既に地下に染まってきていて恐ろしい。
「セオドア様、大丈夫ですか?」
「うん」
王子はいつもの様子で、黙々と食事をとっている。
私たちの中で一番辛い思いをしているのは、間違いなく王子だろう。生まれてからずっと最高級のもののみに触れてきたはずだし、こんな環境など普通は耐えられないに違いない。
それでも平然としている王子に胸を打たれてしまう。
「……ユリウスたちも心配してるよね」
楽しい旅行に来たはずが、私たち四人が失踪したことで観光などできる状況ではないだろう。
この場でなんとか明るく過ごしている私たちよりも、落ち着かない日々を送っている気がする。一刻も早く脱出して、元気な姿を見せなければ。
「セオドア様が失踪した以上、国をあげて捜索しているはずだ。俺たちが脱出するよりも早く助けが来るかもしれない」
「うん、そうだね」
一国の王子が他国で失踪したとなれば、国際問題もまったなしだろう。
助けを期待しつつ私たちにできることはしようと、ひそひそ脱出作戦について話し合っていく。
「この五日間で動ける範囲を調べてみたが、地上への出口は一箇所しかないようだ。見張りも常に複数いるし、仕事と風呂の時間以外は牢の外から出られないとなるとかなり厳しいな」
「やっぱり魔法が使えないのが一番辛いですね」
吉田とルカの言葉に、王子とともに頷く。
そもそも一日中作業をするのは辛く、牢の中へ戻ると疲れて泥のように眠ってしまう。この日々が続けば、さらに体力は奪われていくばかりだろう。
見張りは屈強な男性ばかりで、魔法なしでは力ずくでどうにかするのも難しいはず。とにかく少しでも情報を集めた上で、対策を練るしかない。
「私は先輩方からも情報を聞き出してみるね。長くいる人なら、何か知っているかもしれないし」
「ああ。怪しまれないように気をつけろ」
「了解です!」
こうして話をしているうちに、カンカンという作業再開を知らせる音が響く。
サボったりトラブルを起こしたりした場合は罰で鞭打ちなんかもあるらしく、仕方なく重い腰を上げて作業場へと向かう。
「おい邪魔だ、退けろ! 新人のくせにボサッと突っ立ってんじゃねえ」
「わっ」
「大丈夫? 姉さん」
後ろから思い切り体当たりをされ、ふらついたところをルカが支えてくれる。
私にぶつかったのは、二十歳ほどの若い男性の作業員だった。優しい人もいるものの、ここにいる時間が長い人々ほど威張り散らしている傾向がある。
そう、敵はDBだけではないのだ。
けれど私なんて五日ですでに辛いし、こんな場所に長年いるとなるとかなり辛いだろう。屈折してしまっても仕方がないと思えてしまう。
「おいお前、姉さんに何するんだよ」
「はっ、姉さん? ガキは姉ちゃんに大人しくヨシヨシしてもらってろよ」
「あ? 殺すぞ」
その一方で、ルカはもう色々と我慢の限界がきているようだった。一触即発寸前の二人の間に入り、慌てて今にも殴りかかりそうなルカの腕を掴む。
「ルカ、落ち着いて。ここでトラブルを起こしたら罰があるだろうし」
「でも姉さん、穏便に暴力で解決をしておかないと、こういう奴は後から面倒だよ」
「本当にお願いだから落ち着いて」
笑顔で拳を握りしめているルカは、穏便という言葉の意味を知らないのかもしれない。
なんとか吉田とルカを押さえて作業場に戻った私は、改めて早くこの場から脱出しなければと気合を入れたのだった。
それから再び三日が経った頃、作業を終えてもはや我が家のような安定感すら出てきた牢へと戻ってくると、いつもより空気が重い気がした。
今日は私だけ違う場所での作業だったため、三人と会うのは朝ぶりだった。
「ふう、たくさん働いた──って、どうかしたの?」
いつもならみんなで絶えず会話をしているのに、吉田も王子もルカも全員が口を閉ざしている。
牢の入り口で立ち尽くす私の元へ立ち上がったルカがやってきて、耳元に口を寄せた。
「セオドア先輩とヨシダ先輩、喧嘩したっぽいよ」
「ええっ」




