推し、いないんですけど
「……うそ、でしょ」
思わずそう呟いた私を見て、兄は小さく口角を上げた。
「へえ? 本当に記憶、なさそうだね」
「だから、さっきからそう言ってるんですけど」
「ごめんごめん」
なんだか楽しそうな目の前の兄は、最早どうでもいい。いやごめん嘘、整いすぎた顔はついつい見てしまうけれど。
私はもう、それどころではなかった。虐めの末に飛び降りたらしい人間に成り代わるなんて、夢も希望もなさすぎる。
むしろ、こんなに可愛くて裕福らしい貴族令嬢だというのに、何故レーネは虐めになんて遭っていたのだろうか。
「あの、なんで私、虐めに遭っていたか知っていますか?」
「魔力も人並み以下の、要領の悪いバカだからだよ」
「バ……?」
「俺達が通っているハートフル学園は、魔法至上主義のカースト制度のある場所だからね。レーネのような低ランクの、それも何の努力もしていない人間は虐めにくらい遭うよ」
「ハ、ハートフル学園……!?」
バカだとか落ちこぼれだとか、聞き捨てならない言葉があったけれど、とりあえず今はどうでもいい。彼の形の良い唇からは、とんでもないワードが飛び出したのだ。
──ハートフル学園という忘れたくても忘れられない、この世の終わりのような激ダサ名称には覚えがあった。
確かかなり前にプレイした、作業系乙女ゲームに出てくる学園名だったはずだ。ダサいネーミングやクソゲーっぷりで話題になり、逆に気になって購入した記憶がある。
細かいところまでは覚えていないけれど、成績によるランク付けやカースト制度があり、そんな中でひたすら攻略対象に話しかけに行き、つまらない魔法練習やテストを繰り返していくという内容だった。
そしてとにかく、初期ステータスが低いのだ。最低ランクからのスタートで、才能も何もないと思われ虐げられていたヒロインが、努力で成り上がっていき恋に落ちるという、シンデレラストーリー(笑)だったはず。
私はパッケージのセンターにいた王子から攻略をしていたものの、作業の多さと恋愛の進展の遅さに嫌気が差し、速攻で投げてしまった。他の攻略対象のことすら記憶にない。
だからもちろん、推しもいないのだ。本当に神様は何故このゲームを選んだのだろう。いい加減にして欲しい。
さりげなく、この学園名について思うことはないかと尋ねてみたけれど「別に?」と返されてしまった。どうやらこの世界では、ハートフルという言葉は意味のある単語ではないらしい。皆恥ずかしいと思うことなく通えているようだ。
「あの、ちなみに私のランクというのは……?」
「最低のFランクだけど」
「うわあ……」
やはり予想通りだった。そんなもの、虐められに行くようなものではないか。本当に勘弁してほしい。
そんなことを考えていると兄がすぐ目の前まで来て、超至近距離で私を見つめていることに気がついた。あまりの眩しさに、目が潰れそうだ。
「……な、なんですかいきなり」
「へえ、まったくの別人みたいだ。記憶喪失ってすごいな」
残念ながらまったくの別人なのだけれど、正直に話したところで信じて貰えるはずもない。黙っておこうと思う。
それにしてもこんなに近くで見ても、本当に文句の一つもつけようのない顔だ。彼は瞳を柔らかく細め、ニコニコとした笑顔を浮かべており、何故か上機嫌らしい。
「あ、敬語なんて使わなくていいよ。ユリウスでいい」
「はあ」
彼曰く私は元々、そう呼んでいたらしい。その割には、あまり仲が良かったようには見えないけれど。
「ねえ、レーネ」
「はい?」
「これからは俺が、助けてあげようか」
「…………?」
むしろ兄妹なのだ、助け合うのは当たり前ではないのだろうか。ヒロインに兄妹がいるのはお約束すぎて、彼についての記憶はさっぱりないけれど、なんだか闇が深そうだ。
何よりこの男、めちゃくちゃ性格が悪そうだった。どう考えても、この状況の私を面白がっている。
「ま、困ったら俺のところにおいで」
そうしているうちに、ローザさんが医者らしき老人を連れて戻ってきて。それだけ言うと兄、もといユリウスはひらひらと手を振って部屋を出て行ってしまったのだった。
◇◇◇
医者に診てもらい、身体には何の異常もないこと、そして記憶喪失との診断を受けた。正確にはそういう訳ではなさそうだけれど、面倒なのでそれでいいだろう。
それからはローザさんから改めて、色々な話を聞いた。彼女も新人らしく、あまり詳しくはないらしいのだけれど。
まず、私レーネは15歳。母はすでに亡くなっており、妹のジェニーは後妻の連れ子らしい。彼女も同じ学園に通っており、ランクはAなのだという。
兄・ユリウスはひとつ歳上で、なんと最高ランクであるSランクだとか。あの偉そうな態度にも肯ける。
そんな中、一人だけFランクの落ちこぼれレーネは内気で口数が少なく、暗い子だったらしい。いつも俯いていて、何を言っているのか分からないほどだったと聞いた。
だからこそ、今の私の様子はあまりにも別人すぎて、記憶がないというのは一目瞭然なのだという。
「さて、どうしよう」
柔らかく広いベッドに大の字になりながら、独り言ちる。推しすらいないクソゲーのヒロイン・レーネとなってしまったらしい私はこの世界で一体何をしたいか、どうすべきか。
──前世の私は両親の死後施設で育ち、とにかく早く自立しなければ、お金を稼がなければと学生時代はひたすら勉強に打ち込み、大人になってからは仕事に明け暮れた。そして結局、リアルで楽しかった思い出なんてほとんどないまま、命を落としてしまった(らしい)。
そんな中、帰宅後の深夜に寝落ちするまでプレイする乙女ゲームだけが、楽しみだったのだ。
学園ものをやる度に、学生時代はもっと遊んでおきたかった、楽しみたかったという後悔は、ずっと胸の中にあった。
「……恋、してみたいな」
私は20代だったというのに、現実では恋愛のひとつもしたことがないままだった。誰よりも憧れはあったのに。
辛い環境にはあるものの、15歳の美少女になれたのだ。もしかしなくとも、やり直すチャンスではないだろうか。
友人と遊んだり、恋をしたり。学生生活を満喫したい。
その為に今の私にできることはまず、ひたすらステータスを上げることしかない。兎にも角にも作業ゲーなのだ。攻略対象にはとにかく話しかければいいし、沢山勉強して魔法を練習すればランクだって自然に上がっていくに違いない。
なんだか、意外となんとかなる気がしてきた。それに幼い頃から理不尽な辛い目に遭いすぎていた私は、かなりメンタルが強い。学生からの虐めくらい、耐え切れる自信がある。
そんなことを考えていると、ノック音が部屋に響いた。
「お嬢様、具合はどうですか? お食事の時間ですが」
「あ、大丈夫です。今行きます」
冷静になると、冷やかし程度のユリウスしか様子を見に来ないなんて酷い話だ。学園にも居場所がないまま、レーネはこの家で一体、どんな気持ちで過ごしていたのだろう。
そんな彼女のことを思うと、ずきりと胸が痛んだ。こうなったら最高ランクまで成り上がり、彼女を虐めた奴らをぎゃふんと言わせようと誓い、私は食堂へと向かったのだった。