違和感のはじまり 2
「ほ、本当に良かったあ……」
ヴィリーにもらった神様の人形を抱きしめながら、私は安堵の溜め息を吐いていた。
二日前に教室から消えた後、いくら探しても見つからず困っていたところ、吉田と王子が一階で拾ったと渡してくれたのだ。
「二人とも、見つけてくれて本当にありがとう! でもこれ、一階のどこにあったの?」
「…………」
「…………」
王子だけでなく何も言わない吉田に、首を傾げる。男子トイレだとか、言いにくい場所にあったのだろうか。
そもそも教室にあったはずなのに、二階から一階へ移動していた事実が怖い。やはり動くのかもしれないと考えていると、不意に王子が私の手をきゅっと掴んだ。
「何かあったら、言って」
「えっ?」
突然の王子の言葉に、目を瞬く。王子はエメラルドの瞳をまっすぐに私へ向けていて、心配げにも見えた。
「はい、ありがとうございます」
大丈夫だという気持ちを込めて、笑みを浮かべる。
すると王子もほんの少しだけ口角を上げ、その瞬間、私の背後でバタバタという音がした。何事だろうと振り返ると、王子の微笑みを見てしまった生徒が数人、倒れてしまったらしい。
流石の破壊力だと思いつつ、しっかりしようと私は神様の人形をそっと撫でた。
◇◇◇
その日の晩、私はユリウスの部屋にお邪魔して勉強を教えてもらっていた。
ユリウスの教え方は分かりやすくて、一人で悩んでいた部分もあっという間に解決してしまう。
「──うん、全部合ってる。いい調子」
「よ、良かった……」
今日のまとめとして解いた問題集には赤丸が並び、ほっと胸を撫で下ろす。
自分でも、前回のランク試験前よりもずっと手応えを感じていた。ユリウスも自分の勉強があるのに私を見てくれていて、感謝してもしきれない。
「ユリウスも本当にありがとう。私、今度こそ絶対にCランクになるから!」
「うん。でも、無理はしないで」
私の頭にぽんと手を置くと、ユリウスは私の隣の椅子から立ち上がった。
「今日はここまでにしようか。で、今からは俺のレーネ補給の時間ってことで」
「なんですかそれは」
よく分からないまま手を引かれ、ソファに隣り合って座る。するとユリウスは私の腰を抱き寄せ、こてんと肩に頭を載せた。
柔らかな銀髪が首筋に当たり、くすぐったくなる。
「…………」
ユリウスは静かに目を閉じ、長い銀髪の睫毛が揺れた。どこまでも綺麗で、溜め息が漏れる。
ユリウスは無言のまま、休んでいるようだった。
ランク試験の勉強だけでなく、最近は仕事の方も忙しいと言っていた記憶がある。それでいて社交の場にも顔を出しているのだから、疲れるのも当然だ。
ユリウスは私を頑張り屋だと言ってくれるけれど、私からすればユリウスの方がずっと頑張り屋だった。
ユリウスはいつも平然とした様子でいて、努力している素振りを見せないだけ。本当にどこまでも格好いい人だと、心から思う。
「……レーネ?」
私と一緒にいる時くらいはありのまま、ゆっくり休んでほしい。そんな気持ちを込めてそっと頭を撫でると、ユリウスの両目がゆっくりと見開かれる。
「嫌だった?」
「ううん」
ユリウスは再び目を閉じ、撫でられるのを待っているようだった。
なんだか猫みたいでかわいくて、笑みがこぼれる。
「誰かに甘えるとかありえないと思ってたけど、レーネにならいいな」
「本当?」
「うん。こうしてると、明日も頑張れそう」
いつもユリウスに良くしてもらってばかりだし、少しでも何かできたなら嬉しい。
それに昔、人や動物とのスキンシップにより「幸せホルモン」「愛情ホルモン」と呼ばれるオキシトシンが分泌されると、SNSで見たことがあった。
ストレスが緩和されたり、リラックスして安心したりするとか。病気の予防にもなるらしい。
当時の私は「フッ、私には無縁だわ……」と暗い部屋の中で推しキャラのぬいぐるみを抱きしめながら、自嘲していたことを思い出す。切ない過去だ。
とにかく科学的にも証明されているわけだし、効果はあるはず。 そう思った私はがばっと身体を起こすと、ユリウスに向かって両手を広げた。
「ユリウス、抱き合おう!」
「は」
体重を預けていた私が突然動いたことで斜めに傾いたままのユリウスは、目を瞬いている。
説明を省きすぎてしまったと反省しつつ、誰かと抱き合うのは心身共に良いと説明したところ、ユリウスは大きく息を吐いた。
「なんだ、ただ俺にくっつきたいって思ってくれたのかと期待したのに。でも、そんな話は初めて聞いたな」
「前にどこかで読んだ本に書いてありまして……」
「ふうん?」
いつもの適当な言い訳をしたものの、そろそろ苦しくなってきているのを感じる。けれどユリウスはそれ以上、尋ねてくることはなくほっとした。
「じゃあ、お願いしようかな」
ユリウスはそう言うと、両腕を広げた私に身体を預けてくれる。やがてぎゅっと抱きしめられ、私の頭の上に顎を置いたのが分かった。
体格差のせいで全身を包まれる形になり、広い背中に腕を必死に伸ばす。
「レーネは本当にあったかいね」
「ユリウスもあったかいよ」
私はユリウスと触れ合うまで、誰かの体温が温かくて落ち着くものだと──こんなにも幸せな気持ちになるものだと、知らなかった。
とくとくと少し早い胸の鼓動を聞いていると、ドキドキするものの、安心もする。ユリウスのためだと言ってハグしたけれど、私自身も心が安らぐのを感じていた。
「これ、確かに効果ありそう」
「本当? 良かった」
「うん。だから毎日して」
「それは考えておきます」
ユリウスの声音は機嫌の良い時のもので、小さく笑みがこぼれる。
もっと幸せな気持ちになりますように、という気持ちを込めてぎゅっとしがみつくと、頭上でユリウスがくすりと笑ったのが分かった。
「……もう、レーネが側にいないのは考えられないな」
やがてぽつりとそう呟いたユリウスに、小さく心臓が跳ねる。なんというか、本当に心からの言葉だというのが伝わってきて、胸がいっぱいになった。
「俺の側から離れないでね。絶対」
私だってこの世界に来てからというもの、ユリウスが側にいてくれるのは当たり前で、ユリウスがいない生活なんて考えられない。
もちろんこれから先もそうでありたいと思っているけれど、私とレーネの入れ替わりがまた起こる可能性だってあるし、バッドエンドを迎えてしまった場合、どうなるのか分からない。
絶対という約束ができないことに、もどかしさを感じてしまう。
「……ねえ、もしも私がいなくなったらどうする?」
「さあ? 自分でもよく分からないな。今までこんなに何かに執着したことがないから」
笑顔でそう言ってのける姿は、具体的に何をする、と言われるよりも怖い。自分で「執着」と断言しているのも、冷静になるととんでもない告白だった。
「だからちゃんと、俺の側にいてもらわないと」
ユリウスは綺麗に微笑むと、こつんと私の額に自身の額をあてる。
戸惑いながらも私がこくりと頷くと子供みたいに笑ったユリウスが好きで側にいたいと、心から思った。