違和感のはじまり 1
いよいよランク試験まで、一ヶ月を切った。
もう後がないと思うと胃に穴が空きそうだけれど、とにかく今は悔いが残らないよう、できる限りのことをやり切るしかない。
今日も放課後、教室に残ってテレーゼとヴィリー、ラインハルト、王子と吉田といういつものメンバー勢揃いで勉強会をしていた。
「あー、なるほどな! 完全にその公式忘れてたわ」
「…………」
成績優秀すぎる王子なんて絶対に居残って勉強する必要などないのに付き合ってくれていて、今はヴィリーに勉強を教えてあげている。
この二人、全くタイプは違うのに仲が良いらしく、先日はヴィリーが一人で王城に遊びに行ったという話を聞いて驚いてしまった。
二人が仲良く遊ぶ姿を想像すると、ほっこりする。
「レーネちゃん、そこ間違えてるよ」
「あ、本当だ。ありがとう!」
私はというと隣に座るラインハルトに時折見てもらいながら、必死に問題集に取り組んでいる。
「それにしてもラインハルトはもう、遠いところに行っちゃったね……」
一年前は私と同じFランクの落ちこぼれだったのに、あっという間にBランクになったのだ。
ハートフル学園でも稀に見る目覚ましい成長らしく、大注目されているんだとか。元々の才能が開花しただけでなく、ラインハルトが誰よりも努力を重ねたからこそだと知っているため、尊敬の念を抱いている。
「ううん、そんなことない! 僕は誰よりもレーネちゃんの近くにいたいと思ってるよ」
「本当? ありが──ってペン突き刺さってるよ!」
きらきらとした目で、私の手をペンごとぎゅっと握ったラインハルトの痛覚が心配になった。
いつも私を見守って応援してくれる彼には、感謝してもしきれない。
「レーネ先輩って、本当に皆さんと仲が良いんだね」
「ふふ、そうなんだ」
そしてルカもすっかり、私達の輪に馴染んで一緒にランク試験に向けて勉強している。
私の隣ですらすらと問題集を解いており、そこにはひたすら赤丸が並んでいた。
一年生の序盤の内容だし、私が教えられることも──と時折様子を見ていたけれど、ルカが解いているものはかなりの上級編らしく、ひとつも分からなかった。
「ええと、公式を使って……あれ、上手くいかない」
「あ、その場合はこっちを使うといいよ」
むしろ私がルカに教えられる側で、完全に姉の矜持は失われている。なんと既に二年の半ばまで予習してあるらしく、弟の勤勉さに涙が止まらない。
「ヨシダ先輩、ここ教えてもらってもいいですか?」
「ああ」
「…………」
勉強面でのフォローは吉田に任せ、私はルカに矢が飛んできたら身を挺して庇うとか、そういう物理的な方向で頑張ろうと思う。
「ルカーシュくんはすごいのね。魔法の授業でも素晴らしい結果を残したって聞いたわ」
「ありがとうございます、運が良かっただけですよ」
「しかも謙虚だよな」
私の昔からの大切な知り合いだと紹介したところ、みんなすんなり受け入れてくれている。私は記憶がない設定のため、過去についてはふんわり誤魔化していた。
『レーネ先輩に会いたくて来ちゃった。だめ?』
最初は私から会いに行っていたけれど、上級生の階に来ることに全く抵抗がないらしく、私の友人達とも仲良くなりたいと言って遊びにくることが多くなった。
まだルカについて分からないことは多いものの、着実に距離が縮まっている気がして嬉しい。
いつか弟だと話したら、みんな驚くに違いない。
「そういやレーネに渡そうと思ってたの、忘れてたわ」
そう言ってヴィリーがぐちゃぐちゃの鞄の奥から引っ張り出したのは、小さなぬいぐるみだった。
「こ、これは一体……?」
だらんとした手足はやけに長く、何の生き物か全く分からない。全身が青色で両目の焦点は合っておらず、口からは舌がはみ出している。
頭の悪い化け物のような姿を見る限り、呪いの人形にしか見えない。
「この間の週末、親戚の集まりがあって家に帰ってたんだけどさ。勉強を頑張れるように近くの神殿に祈りに行ったんだよ。で、学業の神様の人形が売ってたからお前にも買ってきた」
「ええっ」
まさかのまさかで、学業の神様の人形らしい。頭の悪い化け物だとか呪いの人形だとか大変不敬なことを考えてしまい、心の中で土下座をした。許してほしい。
そしてヴィリーが私の分まで人形を買ってきてくれたことにも、いたく胸を打たれていた。
「一緒に頑張ろうな!」
「あ、ありがとう……! 私、もっと頑張るね!」
ぎゅっと神様を抱きしめ、お礼を言う。大切に部屋の机の上に飾って、見守っていただこうと思う。
「かわいい人形だね。愛嬌があるっていうのかな」
隣のルカも神様の人形を見て微笑んでいる。そう言われると、だんだんかわいく見えてきた。
ひとまずペンケースの横に神様を置いて勉強を続け、三時間ほどが経った頃、それぞれの迎えが学園に到着し始めたようだった。
「迎えが来たみたいだから、私はそろそろ帰るわ」
「俺もここで失礼する」
「うん、お疲れ様! 本当にありがとう。また明日ね」
「ああ」
みんなが帰っていくのを、手を振って見送る。私は一番最後に帰ろうと、迎えを少し遅くに頼んであった。
やはりみんなと一緒だと頑張れるし、捗って本当にありがたい。
「姉さん、お疲れ様。やっと二人きりになれたね」
やがて教室にはルカと二人きりになり、ぎゅっと腕に抱きつかれた。ルカは学園から徒歩五分の寮に住んでいるという。弟、今日も天使すぎる。
「何を食べたらそんなにかわいくなるの?」
「あはは、なにそれ」
あまりの可愛さに、恐怖心すら抱き始めていた。お願いされたら、全財産でもころっと渡してしまいそうだ。
「姉さんはまだ勉強するの?」
「うん。迎えが来るまでもう少しかかりそうだから、ルカは先に帰って大丈夫だよ。寮での夕食の時間もあるだろうし」
「分かったよ。また明日ね、姉さん」
当たり前のように、ルカも「また明日」と言ってくれるのが嬉しい。
最近はこの教室でルカと会うことが多く、ユリウスと鉢合わせることもないため、あの日以来トラブルもなくほっとしていた。
笑顔で手を振って帰っていくルカを廊下まで見送り、再び教室へ戻る。
「よし、頑張ろう」
迎えが来たらすぐに出られるよう、ここからは単語帳での勉強に切り替えることにした。勉強道具を片付けようとしたところ、ふと違和感に気付く。
「……あれ? ヴィリーにもらった人形がない」
今の今まで間違いなく机の上にあったはずなのに、忽然と消えてしまっている。
「ま、まさか……動く……?」
日本では人形が動くのはただのホラーだけれど、魔法があるような世界では人形が動くくらいのことはあり得そうだった。しかも神様を象っているのなら尚更だ。
ただ、あの人形が夜中に部屋の中を歩いているのを見てしまったら、怖くて泣くと思う。
「か、神様……? どこへ行かれましたか……?」
ヴィリーが私のために買ってきてくれた、大切なものなのだ。とにかく見つけなければと頭を抱えながら、私は教室内の大捜索を始めたのだった。