恋と愛と、普通と
「おはよう」
「…………」
朝、廊下でジェニーとすれ違ったものの、全力で無視をされた。むしろ視界にすら入れて貰えない徹底ぶりだ。けれど今や挨拶を無視されるプロである私は、全く気にしない。
彼女が裏で何を言っているのか分からないけれど、以前よりも義母や父の態度が冷たくなったように思う。私からすれば両親という実感はないし、もちろん気にしないけれど。
やはりこの家族は歪だと思うことが、しばしばある。
実は数日前の夜にも、廊下でジェニーとユリウスの会話をうっかり立ち聞きしてしまったのだ。
『お兄様、私にも魔法を教えてください』
『出来のいいお前に、教えることなんてないと思うけど』
『苦手なものくらいあります』
『とにかく、今はレーネを見るので手一杯だからごめんね』
『私より、お姉様がいいんですか?』
『そんなことは言ってないよ』
『どうせ私が勝つんです。気にかける必要もないでしょう』
『そんなの、やってみないと分からないと思うけどな』
『お父様もお兄様も、どうかしています!』
『そうかなあ』
『私は本当に、お兄様のことが好きなんです……!』
『……悪いけど、俺はそういうのよく分からないんだよね』
『っ絶対に、諦めませんから』
──というやり取りがあって。兄妹同士の修羅場なんて見たくなかった、と思いながら部屋に戻った記憶がある。
それにしてもジェニーは余程、ユリウスのことが好きらしい。勝つとか勝たないとか、一体何の話だろう。今の私は悔しいことに、ジェニーに完全敗北している自信があるのに。
「ま、いいか。とにかく今は頑張らないと」
ランク試験まで、残り二週間を切った。正直、退学は流石にあり得ないとは思っているけれど、油断は禁物だ。
魔力量についてはあまり自信はないものの、知識に関してはかなり勉強したし、技術面はユリウスとの練習のお蔭で今や50点近い平均点を出せるようになっていた。
Eランクの桃色のブローチを目指し、今日も一日勉強を頑張ることを誓う。
「あ、おはよう」
「おはよ。その髪型、かわいいね。似合ってる」
「どうも」
やがて廊下の角で出会したユリウスは、今日も誰よりも綺麗な顔でそんなことを言ってのけた。学園でも上級生から下級生まで、彼を慕う女子生徒は多いと聞いている。
この顔でこのコミュ力ならば、当たり前だろう。女子の好きなものが詰まっている、宝箱のような男だ。
同時にふと、ジェニーに対する『俺はそういうのよく分からないんだよね』という言葉が蘇る。
なんとなく、そんな気はしていた。それに乙女ゲームや小説、漫画でもそういったキャラはよくおり、珍しくはない。
そして恋や愛などわからないと言っていた人物ほど、恋に落ちると盲目になってしまうのもお決まりだ。いつか兄がそんな風になったなら、思い切り冷やかしてやりたい。
「ねえ、良くないこと考えてない?」
「バレてた?」
「うん。悪い顔してた」
そんな会話をした後、私は玄関へと向かったのだった。
◇◇◇
《その地方では有名な曲なんですね。私もいつか、実際に彼らの歌を聴いてみたいです》
《まあ、なんて素晴らしい発音かしら!》
マミソニア語の教師は、まるでネイティブだと感動したように私の発音を褒めてくれた。
やはり読み書きだけでなく、話すことも可能だったのだ。クラスメイト達も、驚いたような視線を向けてくる。
この能力は、転生チートと言っても良いだろう。かと言って地頭が良いとは言えない私は、この能力をどう使いこなしていいものか分からなかった。
テストや授業では間違いなく役立つけれど、きっともっと上手い使い方があるはずなのに。将来職にあぶれたときには通訳になれるかも、なんて思いながら窓の外を眺める。
「……はあ」
私自身にも、何か特技があればよかったのに。
料理だってレシピサイトを見なければ作れないし、自分の財布の管理で精一杯だった私に、領地経営だとかそんな高尚なこと、出来るはずもない。
とにかくコツコツ勉強をするしかないと思いながら授業を終え、帰ろうとした時だった。委員長ポジションの生徒に肩を叩かれ、引き止められたのだ。
「今日の放課後、花壇整備があるから忘れないでね」
「かだん……?」
「以前のレーネ、花壇の整備係を押し付けられていたのよ」
「えっ」
「確か他にも、色々とあったはず」
隣にいたテレーゼが、そう教えてくれた。きっと気が弱かったレーネは、クラスメイト達に雑用を押し付けられても文句ひとつ言えなかったのだろう。酷い話だ。
手伝おうかという彼女のありがたい申し出を断り、私は委員長から説明を受けていく。
予想外の時間のロスだと思いつつも、仕方ない。「あ、確かこれいるんだったわね」と手渡された小さなスコップとバケツを手に、私は裏庭の花壇へと向かった。
「なにあれ、やばくない?」
「えっ、ださ……」
既に花壇にいた生徒達は、私を見るなり蔑むような視線を向けてきた。その視線は私の真っ赤なブローチと、スコップとバケツに向けられている。
よく見ると、誰もこんなものを持っていない。どうやら全員、土魔法を使って作業をしているようだった。
私は土魔法がまともに使えないため、このお砂場セットを持たされたのだろうと理解する。そもそも魔法を使える人がやるべきではないだろうか。
とは言え、今さら文句を言ってももう遅い。土魔法をうまく使えないのも事実なのだから。未熟な私の魔法で花を潰してしまっては可哀想だ。
腕まくりをし、大人しくスコップで土を掘っていく。
「あれ、レーネちゃんだ。こんにちは」
そんな声に顔を上げれば、そこには花を抱えたアーノルドさんがいて。あまりの美しさに、花の精かと思った。
今日も穏やかな笑みを浮かべている彼は、私の隣の花壇までやってくると、花の苗をそっと地面に下ろした。
「アーノルドさんも、花壇担当なんですか?」
「うん、誰もやりたがらなくてね。植物は好きだし」
なんと自ら志願したらしい。あの兄と友人をやっているのが不思議になるレベルの心の美しい、素晴らしい人だ。そして何より顔が良い。
目の保養になったと感謝しながらざくざく穴を掘っていると、彼が心配そうな表情を浮かべ、こちらを見ていることに気が付いた。
どうやら、私が魔法を使わずに作業をしていることを気にしてくれているらしい。
「レーネちゃんの分も、俺がやろうか?」
「大丈夫ですよ、ちょっと楽しくなってきたので」
「そっか。えらいね」
けれど、しばらく彼はじっと私を見つめたまま何かを考えている様子で。やがて「そうだ」と再び口を開いた。
「これくらいなら割と簡単だし、教えようか? 魔法が使えるに越したことはないし」
「……いいんですか?」
「うん。親友の可愛い妹だからね」
Sランクであるアーノルドさんに教えてもらえる機会なんて、滅多にないだろう。それに、ユリウスは土魔法は「あまり好きじゃない」などと言っていたのだ。
せっかくだからとお言葉に甘えることにした、けれど。
「??????」
なんと彼は当たり前のように、後ろから私を抱きしめるような体勢を取った後、手のひらを重ねたのだ。
周りからも、ぎょっとしたような視線が向けられる。それを見て、私の感覚は正しいのだと安堵した。こちらがおかしいのかと思えるほどの自然さだった。
絶対に、この距離感はおかしい。けれど彼は、先ほどと変わらない様子で土魔法について教えてくれている。
「ポコってさせて、ふわっとさせる感じなんだよね」
「な、なるほど……」
アーノルドさんの体温や良い香りに、心臓は悲鳴を上げていた。そのせいで全然内容が頭に入ってこない。むしろ入って来たところで、さっぱり分からないレベルの解説だった。
このままでは、無意味に私の心臓に負担をかけるだけだ。そして間違いなく彼に悪気はない。一体、どこから突っ込んでいいものかと思っていた時だった。
「アーノルド、いい加減にしたら?」
そんな声が、頭上から降ってきて。頬杖を突いたユリウスが、二階の窓から呆れたようにこちらを見下ろしていた。