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かじりかけの月

作者: 青柳琴子

 引っ越しも七度目となれば少しは慣れるもので、僕は早々に自分の部屋を片付けてしまっていた。

 海のある街の、築年数を重ねた一軒家が父と僕の新しい生活の拠点となった。ファミリー向けの間取りと小さな庭が特徴の家だ。その二階の一室を与えてもらったんだ。


 父曰く、これが最後の引っ越しになる、らしい。

 この街でじっくり腰を据える。そうなってしまうと、僕も考えなければならないことがあるわけで。特に人間関係。今まで引っ越しばかりの日々だった僕に友人なんて存在がいるはずもなく、それは長くこの土地で暮らすことになる上で課題になるんだろうなあ。

 そんなことを考えつつ荷物を片付けていけば、それなりに僕の部屋が出来上がっていった。最後に、新調した濃紺色のカーテンを取り付けたところで荷解きは一区切りを迎えた。


 腹時計が夕食の時間を告げていて、時計の短針もそれなりに角度を変えている。そろそろ夕飯にしようと父を探せば、書斎のど真ん中で段ボールに囲まれて背中を丸めていた。

「父さん」

 何度か声を掛けてやっと振り返った父は、表情を崩すことなく「なんだ」と口にしただけだった。

「父さん、夕飯なんだけど」

「そろそろそんな時間か」

 僕ら親子の会話はこれにて終了だ。

 そのまま父は床に直に置いたノートパソコンにまた向き合う。軽快なリズムを刻み込んだり、考え込んだり、忙しそうな人だと改めて思う。

 そして、背を向けられた僕は何も言えなくなってしまうんだ。たったひとりの家族とさえ上手く会話できないなんて、我ながら小心者というかお人好しとでもいうのか、いや意気地なしなんだろうな。


 結局、諦めの早い僕は台所でヤカンに火をかけはじめた。

 父はインスタント食品の類が好きじゃない。だけど、デリバリーを頼むほど新しい街を知っているわけじゃないし、僕も疲れているから仕方ないよね。なんて、いちいち言い訳めいたことを考えつつ即席麺のビニールを剥く。一応、引っ越し蕎麦ってことで。

 それから程なくして父を呼んで、遅めの夕食をとる。向かい合って蕎麦をすする僕ら親子から会話が生まれることはなかった。


 仕方なく僕は居間をぐるりと見回してみる。すぐ目にとまるのは仏壇だ。仏間にきちんと納められたそれはピカピカに磨かれ、写真立ての中で母が綺麗な笑顔を見せている。どこで手に入れたのか、しっかりと生花が供えられていて、母に対する父の愛情深さを感じずにはいられなかった。

 母が亡くなって十年近くが経つ。僕だってただ黙って父と暮らしたわけじゃない。なんとか父と話したくて、必死に口を動かした時期もあった。でも、父は口数の少ない人だったから、僕の試みに乗ろうとはしてくれなかった。

 半分は母から出来ている僕を見るのが辛かったのかもしれない。そう思い込むことで僕は自分を守るための殻を作ったんだ。というわけで自ら進んで内向的になった僕は、転校を繰り返して今に至る。



 食後のお茶を飲んで書斎に引き上げた父を見送って、後片付けを済ませる。明日の準備をして……。なんとなく視線を感じた僕は、さっと振り返った。そこには何もない。

 実はカップ蕎麦を食べている時から、べったりと張り付くような視線を感じていた。何事もない様子で向かいの父は蕎麦をすすっていたので、仕方なく周囲を見渡してみたんだけど、先ほどと同じく何もなかった。


 あれは確かに人の気配だったと思う。なんとなくだけど、誰かに見られているような。この家は築数十年物だから、アレがいるってこと?

 でも今は何の気配も感じない。それをいいことに思考を纏めていた僕は、泡立った頭を濯ぎにかかる。

 体を洗い始めた僕の意識はどんどん超常現象(アレはそれの一部に入ると思う)について考えを深めていく。水気が好きって聞いたことがあるけど、風呂にまで侵入してこないタイプなのか。それならいいや、と泡を流した僕は浴槽に浸かる。


「ふーん、あんた、私が怖いってわけじゃないのね?」

 あのべったりとした視線と共に聞こえてきたのは、女の子の声だった。

 え、とか、は、とか意味のない言葉を繰り返した僕は、湯船の中で正座をして隠すべきところに手を当てる。アレって女の子なの!?

「大したものじゃないんだから隠したって仕方ないじゃない。堂々としなさいよ」

 平気で人の胸を抉るようなことを言う。君には人の心があるのか、と僕はアレに問いただしたい。でも丸腰の僕に何が言えるというのだろう? 何も口にできまい。

 だからお決まりの文句をとりあえず言ってみたんだ。

「あのさ、君って幽霊?」



 さて、彼女が返した言葉はこうだった。

「あんた、私が見えるの?」

 それから彼女は、いい加減に服を着ろって言い出した。風呂に侵入してきたのはそっちのくせに、だ。


 そんなひと騒動もなんのその、なぜか自室で正座する僕の前で、幽霊は仁王立ちして腰に手を当てて、顎をツンと突き出した。

 ノースリーブのワンピースは今どきのデザインじゃない。だけど、そこから伸びる手足は形が良くて、おかしいくらいに生命力に溢れていた。長い髪はお化けみたいに冷たそうじゃなくて、きっと良い匂いがするんだろうなと僕は錯覚してしまう。香りなんかしないんだ、本当は。そうして、可愛いと美しいを絶妙なバランスで組み合わされた顔は、花のよう、だった。

 ああ、それなのに天は上手く人を作っているというのか。彼女は口で損をしている。


「私、蕎麦に目がないの。なのに、あんたたち親子ときたら辛気臭い顔して、蕎麦に失礼だと思わないわけ?」

「え、お湯を注いだだけなのに失礼になるの?」

「あんた、いちいち『え』とか言わないと話せないの? あのね、食べ物は、特に蕎麦は美味しい顔して食すべきなのよ。あーあ、私なら完璧に美味しくいただくのに。それにあのメーカーお気に入りなの。一応香ばしいかき揚げ、お店の味に忠実に再現しようと頑張る出汁、アクセントに丁度いい七味唐辛子、細くて喉越しもまあまあの麺!」


 ねえ、それ褒めてるの? なんて聞けないけど、あのとき感じたべったりとした視線は、やっぱり気のせいじゃなかったんだ。

「それであんなに見てたんだね」

 小さく頷いた彼女は器用に空中で膝を抱える。

「バレてたんだ」

「そりゃあんなに見つめられたら気づくよ」

「そっか。でも、私の姿が見えるのはあんただけみたい」

「ごめん」

「もう! いちいち謝るのやめて。あんたこの家に来てからそればっか。『インスタントの蕎麦でごめん』とか言ってたし、聞き捨てならないわ!」

 ちくりと棘を植え付けるのが上手な彼女は、仰向けに寝転んだ。長い足を組んで、ふらふらと揺らした後、彼女の話が始まった。


 今から遡ることウン十年。彼女は中学二年生(僕と同級だ)の夏に亡くなった。交通事故とのことだ。

 気づいたら幽霊になっていて、両親にも気づいてもらえず、友だちも知り合いも同様だった。それからは生家で過ごしているという。その生家とは、現在の僕が暮らしている家でもある。

 彼女の両親はこの街を出てしまっていた。

 ではなぜ彼女がここにいるかというと、答えは簡単、この家が好きだから。特に、庭に植えたイロハモミジの紅葉を楽しみにしている。


「中々古風な趣味を持ってるんだね」

 しみじみと口にした僕の手は、どういうわけか自身の頬をつねる。地味に痛い。

 よく見れば彼女の半身が僕と混じり合っているではないか!

「うるさい! 今、あんたの手に憑依してるのよ。……自分でもババ臭い趣味だって思ってんだから」

 僕から離れた彼女はそっぽを向いてからまた話を再開した。


 売りに出されたってことは買い手もいるわけで、僕たちの前に何人もの家族が住んでは引っ越してを繰り返してきた。

 彼女が見える人は一人もいなかったらしい。だが、視線を感じる者は多数いたみたいで、そう長く居つかなかった。

 そりゃそうだよ。隠すこともしないで、あんなに強く見つめていれば、相手だって霊感云々の前に何か感じるはずだ。実際、僕もそうだったし。

 あと、家を乱暴に使う人にはポルターガイストよろしく妨害に励んだんだって。


「ねえ、君、家を壊すようなことだけはしないでよ。今日から僕らの家なんだから」

 ついうっかり言葉を漏らせば、彼女は「ふん」と鼻で笑った。

「そんなことするもんですか。あんたみたいな気弱そうな男、きっと私生活でも静かにしているだけなんでしょうね。友だちもいなさそうだし」

「君って……」

 本当に人の心を抉るのが上手いよ! と、続けられたらどんなにいいことか。幽霊相手に、ぐっと拳を握ってやり過ごす。全部真実なんだ。裏返せやしないよ。

「君、君、って私にはちゃんと名前があるの。それに、まあ、私もそれなりに忙しいけど、あんたの相手をしてあげてもいいわよ」

「は、え、なんだよそれ」

 幽霊って忙しいのか? どこかズレたことを考える僕に痺れを切らしたのか、ゴーストは立ち上がって腰に手を当てる。

「まったく! 鈍いわね。友だちになってあげるってこと! それから私はナツミ。よろしくね」

 うん。よく分からないって顔をする僕が面白いのか、幽霊のナツミは楽しそうに笑う。

 と、いうわけで、新天地にて初めての友だちが出来た。



 転校初日はいつでも違和感を抱いてしまう。

 まるで僕はこの街のお客様。それはどこからどこへ行っても変わらない。

 とはいえ、朝はやることがたくさんある。食事を作ったり、ゴミをまとめたり、いろいろ。

 どういうわけか、父は生活というものに馴染みがなかった。加工品を食べるのが嫌いなくせに、腹を満たすために平気でそれらを口に入れる。ワーカーホリックも重度に違いない。放っておけないや、と母も思ったんじゃないのかな。母が遺したノートには、父の体を心配してか生活の基礎のハウツーが書き込まれていた。結局、実践しているのは僕なんだけど助かっていることは確か。


 そうして食卓に親子二人が揃った。

 いや、そこにはナツミもいるわけで。彼女は味噌汁から立ち昇る湯気を嗅いで、「まあまあね」なんて言って微笑んだ。

 彼女は食事をする僕らを眺める。それが彼女の朝の始まりだった。

 やっぱりそんなに見つめない方がいいと思うよ。父は気づいていないみたいだけど。

 ナツミは「パパさん今日も異常なし」と、僕を見てニヤリと意地の悪い笑みを浮かべるんだ。仕方ない、もう一度聞いてみよう。

「あのさ、父さん。この家に来てから何か感じたりしない?」

「……学校に行きたくないのか? 具合が悪そうには見えんが」

「そうじゃないよ。別にいいんだ。それより早く食べ切ってくれないと遅刻しちゃうよ」

 僕は慌てて付け加えると、卵焼きを箸で割った。幽霊がいるんだ、なんて話せるわけがないだろ?


 時の流れを止められる人がいるはずもなく、僕は二年A組の教卓に立っていた。

 黒板に名前を書いて、無難な挨拶を済ませる。たくさんの瞳が値踏みをするが如く、僕を射る。遠慮なく注がれる視線は、ナツミの物と変わらないようで違う。だって彼らは生きていて、ちゃんとそこにあるのだから。

 それにしても落胆する顔っていつ見ても良い気持ちはしない。

 みんな転校生をなんだと思っているんだろう? 日常を塗り替えるような、素敵で無敵な人物なんかそうそういるはずもないのに。そんなに娯楽がないわけでもないだろうに。お客様はいつだって珍しい生き物なのだ。異邦人にでもなった気分。

 来年もここにいるんだけどなあ。


 最初の一週間が過ぎれば、僕の存在など砂利の如し。

 雨ばかりの六月になると、小石は教室のカーテンの染みぐらいになっていた。

 雨が降るからといって、幽霊が元気になるわけでもないらしい。それでもナツミはいつも通りだ。

 今日も今日とて真っ直ぐ帰ってきた僕の手を借りて、テレビゲームをしている。着替えぐらいさせてよ。格闘ゲームでストレス発散した後は、難易度を最大に上げた小難しい謎解きゲームに取り組む始末だ。


「そういえば、あんた学校はどうなの? 今まで一度も聞いたことないんだけど」

 うーん、と伸びをした彼女は、やっと僕を解放した。僕からしたら、今さら気づいたの、という感じだけど。

「別にどうもこうもないよ」

「友だち出来た? 授業はちゃんと聞いてるの? って、成績は普通すぎてつまらないわね」

「友だちはいないけど、勉強についてナツミにだけは言われたくないよ!」

 本当に彼女に言われたくないことだってある!

 ナツミには時間なんて関係ないらしい。僕が家事をしてようが、宿題をしてようが、ゲームやパソコンをしてようが、何をしようがお構いなしに自分のしたいことをしちゃうんだ。やれ、新しい音楽を聴かせろだのゲームをさせろだの、テレビをつけろだの、急に話し掛けもする。それが案外たのしかったりもするからタチが悪い。


「せめて宿題してる時は邪魔しないでよ」

「集中してない証拠よ」

「集中してるよ!」

「はん! どうだか」

「ナツミが口煩いからだろ?」

「なんですって!?」

 実力行使とばかりにナツミが僕の背中に乗りかかる。

「重たいよ!」

「失礼なヤツ!」

 本当は重たくない。だけど、やられっぱなしもなんだし、ちょっとからかって反撃だ。

 いつの間にか僕は、言いたいことを我慢する癖を少しずつナツミにだけやめるようになっていた。彼女のポンポン出てくる言葉に対応するためには、僕も相応に口を開かなければならないんだ。


「で、友だちは出来たの?」

 話を蒸し返された僕は頭を横に振った。

 こればかりはどうにもならない。転校を繰り返した割に、僕は内向的で人見知りが激しかった。

「仕方ないわね。どんなもんか学校に行ってもいいわよ」

「え、この家から出られないんじゃないの?」

 そう、彼女は一度だって外に出たことがなかったんだ。

「出られるわよ。あんたがいない時に庭の様子を見たり、海を見に行ったりしてたの」

「先に言ってよ。小テストとかテストとか……」

「バカ言わないで。このナツミ様があんたのカンニングに付き合うわけないじゃない。あーあ。だから言いたくなかったのよ」

「冗談だよ」

「どうかしらね」

 なんて言いつつも、ナツミは明日から学校に行くと告げてくれた。


 そうして翌日。ナツミはきちんと僕の隣を歩いてくれている。

 いつも花が添えられている交差点に差し掛かると、彼女は小さく笑った。

「私、ここで死んだの。初めてのデートで待ち合わせの途中だった。前の日から落ち着かなくて。それで早くに目が覚めちゃった。新品のワンピースに着替えてメイクもして、夢中だった。走ってたの、もちろん青信号よ。それで、それで、気づいたらこうなってた」

 そうなんだよ。ナツミは亡くなっていて、今は幽霊で。今まで誰にも気づいてもらえなかった。

 僕みたいに誰かの影に隠れたり、執拗に見られたくなかったり、そういうのとは違う。まったくの逆なんだ。それでも、僕はナツミの寂しいっていう気持ちだけは分かる気がした。

 普段はあんな彼女だけど、薄々気づいてはいた。僕のように自分からってわけじゃないけど、寂しい場所にいたことに変わりはない。


 結局、僕は何も言えなかった。

 そのかわりに、触れられないけどナツミの右手を握った。そこは、ほんのりと温かい。胸の中にぬくもりが生まれたんだ。

「……バカ」

「うん。知ってるよ」

 それ以上、彼女が言葉を紡ぐことはなかった。


 次にナツミが声を掛けてくれたのは昼休みだった。校庭の隅にひっそりと建てられた小さな碑を教えてくれた。雑草が生い茂っていたそこからは、フェンス越しに空が見える。海があるためか、この中学校は高台にあるのだ。

 湿った土を踏みしめつつ屈んだ僕は、これまた小さな岩から出来た碑に触れた。石が嵌め込められていて、彼女の氏名と亡くなった日付、享年十四、という文字が刻み込まれていた。

「ま、そういうことよ」

 もう彼女は笑わなかった。事実をきちんと受け入れていると言わんばかりに、どこか大人びた表情を浮かべている。

 湿った風が僕らを包み込む。その中には熱が混じっていて、そう遠くない夏を思わせた。



 光陰矢の如し。ついに夏休みがやってきた。

 僕らはちょっと怠惰なバカンスを過ごしている。残念ながら、部活動などの予定もない。

 レンタル屋から映画を借りたり、ゲームをしたり、夜ふかししたり、庭の手入れをやってみたり、一応宿題もしたり。夜中にナツミに起こされて、お笑いの動画を見て二人で腹を抱えて思いっきり笑ったっけ。その後、父に叱られてしまったけど、これも良い想い出だ。あと、女の子向けの雑誌を買って二人で覗き込んだ。これはなんというか、気恥ずかしい。


 そんなこんなで一日だけの登校日が迫りつつある。

 どういうわけか、最近のナツミはどこかうわの空でいることが多い。この前もカレンダーを睨みつけていた。

 そうしてこの日、まだ登校日でもないっていうのにナツミは「学校へ行くわよ」と僕を誘った。

 僕らが出かけたのは、太陽が一番高く登った時で、かなり蒸し暑い時間だった。洗濯物を取り込んだり、買い物に行ったりしていたら時間が経っていたんだ。

 途中で例の交差点を通り過ぎると、彼女は随分熱心に花を見つめていた。それから少し遠くなった海を横目に坂を登っていく。

 いつもなら一方的に喋り出すはずなのに、今日に限って静かな彼女。その横顔は険しくて。熱中症になったのかもしれないと、心配せずにはいられない。


「ごめん。僕がもたもたしてたから遅くなったよね。暑い? どこか日陰で休む?」

「バカね。死人に暑いも寒いもないわよ。……こめん。あんたこそ大丈夫? あんたヒョロヒョロだし」

「僕は大丈夫。ナツミ、無理しないでよ」

「ん。あんたもね」

 今日の君はいつもと違うよ。でも、彼女の真剣な横顔を見たら、言えなくなってしまった。

 そうして校庭の隅の碑を見た彼女は、青白い顔をして腕を組んだ。フェンスまで数歩つめて、そこから見える色の濃い空や建物なんかを見つめている。

 太陽めがけて背を伸ばす雑草を踏みしめた僕は、膝を曲げて碑を覗き込む。

 そうか。今日は彼女が亡くなった日だったんだ。


「毎年ね、こことあの交差点に来てくれる人が居たの。両親、以外の人。罪悪感か何か知らないけど。そんなの必要ないのに。時効よね、もう。それでも嬉しかった」

 僕は彼女の隣に足を運ぶ。どんな顔して言ってるんだよ、って心配だった。

「ナツミ……それって」

「うん。あの日、約束してた人。もう結婚もしてるし、そろそろ子どもが生まれる予定なのよ」

「君の前だとプライバシーも何もないね」

 少々おどけた僕に向かって、ナツミは鼻で笑う。いつものちょっと高慢な笑顔。それがあどけなくて少し可愛い。


「最近、思うの。前を向かなきゃって。それに人間って自分の遺伝子を遺すために生まれてきたんだと思ってた。そうやって自分の生まれた意味を刷り込んでは終わってを繰り返していく。それも正解だと思う。でも、生まれたからには幸せにならなきゃいけないんじゃないかしら?」

 それはそれで大変そうだ。だって幸福を感じるのって、不運を嘆くよりずっと難しい。

 そう言おうと思ったら、ナツミは深く息をついて僕の目を真剣に見つめた。

「すべてあんた次第よ。あんたってそこまで悪い奴だとは思わないわ。自分が傷つきたくないからって、距離を作って殻にこもるズルさはあるけど。でも、あんたは生きてる。前を向くときが来たのかもしれないじゃない。……忘れられたわけじゃないんだから」

 忘れられたわけじゃないんだから。と、もう一度繰り返した彼女は僕に背を向けて歩き出す。微かに震えている背中は、本当にそこにいる人間みたいだった。



 あまり良くないことは続くものだ。

 ナツミが目に見えて元気がなくなって少し、僕にとって衝撃的なことが起こった。


「よく聞きなさい。今度、再婚することになった」

 エアコンがよく効いた居間でくつろいでいた僕に急に降ってきた父からの話題は、衝撃以外の何物でもなかった。ナツミ曰く、僕の悪い癖、「え」とか「は」を何度も繰り返した。いや、本当に意味が分からないよ!


「なんで? 母さんはどうするのさ」

「母さんのことを忘れたわけじゃない」

「それじゃ相手の人のこと好きじゃないのに結婚するんだ」

「そうじゃない。ちゃんと彼女のことを想っている。母さんも納得してくれるはずだ。おまえも私も前を向いて生きねばならない。その場足踏みばかりしていては、母さんに顔向けできないじゃないか。おまえも私も、そして彼女も。もしかしたら母さんも。二人ではどうしようもないことも、三人なら乗り越えられると思った。そう、思わせてくれる人だ」

「そんなのあんまりだ! 母さんを忘れた言い訳だよ! 僕ら二人の生活の何がいけないのさ。僕は反対だよ! もう父さんのことなんて知らない!」

 好きにしろ。父が返した言葉に僕は徹底的に乗ることにした。

 その日から僕は僕のためだけに家事をした。いつも一緒の朝食もやめた。父さんに関するあらゆることを無かったことに変えようとしていた。


 親子二人きりの生活に不満なんてなかった。

 小さい頃は母親がいない寂しさもあったけど、父も同じなんだって思えたから胸の奥に仕舞ったんだ。今では父とのコミュニケーションも乏しくなってしまったけれど、上手に生活してると思っていた。ナツミもいてくれるし。そう思っていたのは僕だけだったのかな。

 今さら母親ができても困るよ。家族だって他人のようになってしまったのに。さらに他人が増えてどうするのさ。

 そうやって頑なになった僕は、ナツミと共に空を見上げる日が増えていく。

 彼女は相変わらず元気がない。僕も父親を忘れようとしている。それって父や僕自身をナツミのようにしているんじゃないかって思う。けれど、もうどうだっていいんだ。


 茹でたそうめんを氷水で揉み洗いしながら、僕はだんだん虚しくなってきていた。暑い日にわざわざ茹でるなんて面倒だったのに。と、考えてしまう。作ってしまえばお手軽なんだろうけど、暑いものは暑いし、やっぱり面倒だ。

 僕は居間にいるナツミの隣に座り込んだ。

 ああ、明後日は登校日だ。休もうかな、なんて彼女に提案してみる。

「休んでどうするのよ」

 赤い夕日が照明の如く彩る居間で彼女が振り返る。

「どこかに遊びに行こうよ。ゲームのために貯金してたの崩してもいいんだ」

 二人で遊べば元気になるよ。まるで自分に言い聞かせるみたいに、明るい声を出していた。


「嫌よ。そんなの虚しいだけじゃない。本格的に死を受け入れる必要がある私と、現実を否定しているあんたとじゃ訳が違うのよ。あんたも気づいてるんでしょ? パパと話さなきゃって」

「そんな。ナツミには僕がいるでしょ?」

「もちろんそうよ。でも今はそこじゃないわよ。あんたこのままでいいの? パパさんは、あの仏壇を毎日お手入れしているのよ。知ってるでしょ? そういうことも考えてよ。今、二人だけしかいない家族としてやるべきことがあるでしょうが。前も言ったでしょ? あんた次第だって。あんたが自分を守っているように、あんたは自分を作ることができる。変わることだって、前を向くことだって、同じことじゃない」


 やっぱり君って人の心を抉るのが上手だよ。

 分かってた。僕もこのままじゃいけないって。

 あっという間に部屋をぐちゃぐちゃに出来る程、生活力が低い父が、母の仏壇だけはピカピカに磨いていた。毎日、毎日、お手入れしてお線香を焚いて黙祷していた。

 僕は知らないふりをしていたんだ。

 気難しい父が僕をさりげなく気にしているのも知っていた。毎朝、父が僕を睨みつけていたんじゃなくて、顔色をチェックしていることも、なんとなく分かってはいる。

 だからってすぐ行動できるわけじゃない。

 まずは台所に戻って、追加でそうめんを茹でよう。夏野菜をふんだんに使ったサラダを作ってみてもいいかもしれない。外食や出来合いのものばかり食べていた父のためにも……。「夕飯作ったから、食べて」と、父にメールを送ることも忘れなかった。


 それから父は遅い時間だったけど、まっすぐ帰ってきた。

「まだ父さんのこと許したわけじゃないから」

「そうか」

 手を合わせて食事を始めた父の前に座った僕は、もくもくと動く箸を眺める。なんだかんだで、いつも父は残さず食べてくれるんだ。

「なんだ」

 食事の途中に父が僕に話しかける。他に言うことはないのか、と思うのはやめて僕は肩を竦めた。

「なんだってわけじゃないよ。父さんに聞いてみたいことがあるんだ」

「好きにすればいい」

「じゃ、遠慮なく。再婚相手の人といつ出会ったの? どんな人?」

 驚いて目を見開く父をじっくり見たのは、これが初めてかもしれない。思わず隣に座るナツミと顔を見合わせる。ぐっと親指を突き立てた彼女は、久しぶりに笑い声をあげた。

 少しずつ、ちょっとずつ、俯いたままの僕でも角度を変えられるかな。



 それでもナツミはどことなく元気がなかった。やっぱりあの人が来なかったことが原因じゃないかな。本当いうと、それを認めるのは少し悔しい。

 父と会話した夜、ベッドに入る前に一人考えていた。

 例の人が来ないなら仕方ない。僕もナツミのために何かできないだろうか。と。

 そうしたら、なんだろう、あたたかい気持ちが芽生えてきて、体に力が巡るようにどんどん熱い想いが体内を回って、駆けだしそうで。それに合わせて頭もぐんぐんと働いて、いいアイディアが浮かびそうな予感に震えたんだ。

 というわけで翌日、ナツミをひとりにするのは心配だったけど、僕は家を出て自転車を漕ぎ出した。財布とリュックサックと帽子を忘れることなく、ね。


 そしてホームセンターで様々な花の苗や肥料やらを買って、学校に向かった。

 花なんて何がいいか分からなかったけど、お店の人に聞いてみれば案外丁寧に教えてくれたんだ。

 それから職員室にたまたまいた、定年間近の国語の先生から許可を得て、碑のまわりの雑草取りから始めた。

 燦々と降り注ぐ太陽と土からの照り返しに辟易したものの、根を張る雑草と格闘した。

 次に、ホームセンターの店員さんの言う通りに、土をふかふかにしていく。

 時間の経過と共に、汗が土に染み込んで、首に巻いたタオルにも泥がつき始める。こりゃ明日は筋肉痛かな、と思いつつ真っ赤になった腕に驚いた。

「いや、なかなか精が出るね」

「へ、あ、先生」

 いつの間にやら、麦わら帽子を被り首にタオルを巻いて腕抜きをはめた先ほどの教諭が顔を出していた。先生は慣れた手つきで土を耕していく。


「僕も手伝うよ。いやあ、腕が鳴るね」

「あの、先生、ありがとうございます。お時間大丈夫なんですか?」

 戸惑う僕を他所に先生は分厚い眼鏡のレンズを光らせた。なんだか彼は急に活力が出たようだった。染みが出来た頬が健康的に染まり、唇が弧を描き出す。

「僕は今年赴任したばかりだけど、以前この中学校に長く勤めていたんだよ」

「はあ」

 手を動かしつつ、僕は仕方なしに相槌を打った。

「君は知らないだろうが、昔は園芸部があってね。僕は顧問だった」

「えんげいぶ、ですか」

「そう。園芸部」

 ますます頬を綻ばせた先生は、まるで歌うように高らかに話を続ける。

「素晴らしい部だったよ。それが、今年再び赴任したら、既に廃部になってしまったらしいじゃないか。寂しかった。とてもね。けど、僕は一筋の光を見つけた。そう、君だよ。お願いだ、園芸部の設立に力を貸してはくれまいか。お互い、ひと花咲かせようじゃないか! このコンクリートジャングルに彩りを加えてみるのも楽しいと思うんだ」

「……僕、来年受験なんで」

 はっきり言うと、嫌だ。そこまで情熱があるわけでもない。腕も腰も疲れたし、外は暑い。だいたいナツミのためであって、趣味ではないので、僕は丁重に断った。

 先生はそれきり何も言わなかったけど、ありがたいことに最後まで僕に付き合ってくれた。

 その後、僕は自転車で全力疾走してホームセンターにまた駆け込んだんだ。



 そして翌日。登校日の早朝、僕はナツミを無理矢理呼び出して一緒に家を出た。

 いつもの通学路を通って、あの交差点に差し掛かった時、隠し切れてなかったけど、改めて花束をナツミに見せた。

 ナツミの眩しい笑顔を象徴するかのような、大ぶりのヒマワリ。ぱっとその場が明るくなる、黄色い花びらたち。太陽みたいな、まあるくあたたかい花。


「これ、僕から。ナツミ、僕は絶対君のこと忘れないよ。ずっと一緒にいようよ。ふざけ合ったり、ケンカしたりしよう。毎年、君に花を贈るから、元気出して?」

 我ながら柄にもないことをしたと思う。ナツミの笑顔が見たいからってだけじゃダメだろうか。

「あんた、昨日出掛けてたの、これを買うため?」

 目をまあるくするナツミ。またもや僕は貴重な瞬間に出会った。

 そして彼女は、さらに瞳がこぼれんばかりに目を見開いた。交差点の花の中に、昨日もそしてこの前なかったはずの、オレンジ色と薄い黄緑色のヒマワリの花束を見つけたんだ。

「バカ。あんたたち、バカよ」

「うん。学校に行こう。他にも見せたいものがあるんだ」

 もしかしたら、ここに新しい花束があるってことは、あそこにもあるのかもしれない。だからってなんだ。ナツミが元気になればそれでいいじゃないか。

 花束が綺麗に見えるように交差点に置いて、僕らはまた歩き出した。


 夏の早朝の空気は冷たくて、これから暑くなるのが嘘みたいに静かだ。

 まだ薄い空と既に濃厚な色をした海を遠くに眺めながら、僕らは坂を登っていく。

 夏休みの登校日だからか誰にも合わなかった。車が通り過ぎる音だけが朝の忙しなさを表現している。

 学校の敷地内に入った僕らは、まるで初めてこの地を訪れた探検隊のように慎重にそれでいて大胆に歩を進めていく。

 そうして、あの小さな岩の碑の傍らにバラで出来たミニブーケを発見したんだ。キザな人なんだろうか、と僕は一人内心で呟いた。

 碑の周囲には花の苗が植えられている。虫や野良猫が寄りつかないようにハーブも一緒にしたから、少しは長持ちすると思う。そのためには定期的に世話をしなければならないだろう。


「これ、ぜんぶ、あんたが?」

 一通り眺めたのか、ナツミが途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「あのバラ以外はね。先生にも手伝ってもらったんだけどね」

「充分よ。……ありがと」

 そう言ってナツミはヒマワリよりも眩しくて、バラが嫉妬しちゃうんじゃないかってくらいの美しい、柔らかい笑みを僕に向けてくれた。花よりもずっと綺麗で、忘れることなんて誰にもできないだろう。

 そんな君は時々心を抉ってしまうことを口にするけど、僕はずっと見ていたいと心から願わずにはいられないんだ。言わなきゃ、だよね。


 でもそれより早く、ナツミは目に涙をためて僕に想いを告げてきたんだ。

「ありがとう。あんたに会えて良かった」

「そんな、お別れみたいな言葉、聞きたくないよ!」

 幽霊の涙ってどこに消えてしまうんだろうか。ナツミは一回目元を拭うと、あの高慢でちょっと鼻につくけどあどけない笑顔を見せた。

「相変わらず女々しいヤツね! そろそろいこうと思ったの。もう一度生まれ直すために。生まれ変わったら、あんたのお嫁さんになってあげてもいいわ。……なってあげる! あんたのこと、ちょっと好きだった」

「ちょっと、なの? 僕はだいぶ、うん、たくさん想ってる。君が生まれ変わった頃には、僕おじさんだよ?」

「大丈夫よ。たぶんあんた未婚だろうし。そんな顔しないでよ!」

 最後くらい軽快に明るく笑いなさいよ! と、彼女は言うけど、君だってまた瞳に涙をはりつけているじゃないか。

「バーカ。私は見送られる側なんだから、少しはおまけしなさいよ。仕方ないヤツ。……いいものあげる。初めてなんだからね」


 そう言って僕との距離をつめたナツミは、恥ずかしそうにゆっくりと目を閉じて、唇を僕のそれと重ね合わせた。

 決して触れ合えないファーストキス。あの時、彼女の右手に触れた時のように、いやそれ以上に、ぬくもりを感じた。あたたかい想い。徐々に熱を帯びて僕の胸を焦がしていく。


「バイバイ」

 まぶたを開けた僕のまさに目の前で、景色に溶け込んでいくナツミ。あんなに生き生きとして見えた身体は、どんどんと淡くなって、呆気なく消えていった。

 僕は涙がこぼれないように、空を仰いだ。

 まだ夜が残っているような空は、起きたての色を広げている。そこには、薄い色をした欠けた月が浮かぶ。それでも、きっと今日も夏の濃い青を、彼女のお気に入りのあの海に似た色を作り出していくのだろう。

 くしゃりと歪んだ、リンゴをかじった時に似ている月を見つつ、僕は唇を動かした。

「行っておいで。また、会おうね」


 さて、こちらも起きたての花々に水を上げようと歩き出した時には、ちらほらと生徒の影がちらつき始めていた。

 じょうろを取りに向かった僕は、偶然クラスメイトに出くわした。


 あんた次第よ。

 自分を守るように、変わることだって、前を向くことだって、同じことじゃない。


 そう、ナツミの声が聞こえて来た気がした。

 よし、と胸の中で喝をいれて、僕は顔を上げる。

「おはよう」

 ちょっと驚いた顔をしたクラスメイトは、その後すぐに「おはよう」って返してくれたんだ。

 そうして、僕とナツミの夏休みが終わった。



 それからの僕はというと、父とのコミュニケーションをはかり続けていた。最近では、以前よりかは会話が長続きするようになったんだ。

 そして、夏休み最後の日曜日に、再婚相手の人と会ってみた。結論から言うと、そんなに悪い人でもないかな、と判断できた。まだそれだけだけどね。とはいえ、僕の話を真剣に聞いてくれたことが嬉しかった。

 なんだかんだで父と再婚相手の人との会話を聞いてみれば、なんとあの父がちょっと押されていたんだ! 母も生前は中々気が強い人みたいだったから、もしかしたら相性がいいのかもしれない。ちょっと漫才に似たやり取りで、これはこれで笑っちゃいそうになって困った。


 新学期が始まって、僕は例の定年間近の国語教諭の元を訪れることにした。昼休み、先生からお時間をいただけた。

 僕は来年卒業する。もしかしたら、そういう意味では、僕ら人間はお客様なのかもしれない。そして、卒業後、あの碑は再び荒れ放題になってしまうと考えたからだ。

 部が出来て、一人でも多く部員を入れて、花壇はもちろん、あの碑をよくして、環境整備に貢献できないかと伝えてみた。


 先生は泣いて喜んだ。そんなに泣かなくても、という程。年を取ると涙腺が脆くなる、らしい。いつか僕もそうなるのだろう。

 そして、驚くことに、ナツミを知る人は案外近くにいたんだ。

 ナツミは二年生にして園芸部部長で、その時の顧問が先生だったんだ。彼女の時代は正に黄金の世代だったと教諭は鼻息荒くまくし立てた。生徒会から予算を多くもぎ取った上、今は潰されて花壇になってしまったけど温室まで作っちゃったらしいんだ。あの「人の胸を抉る口撃」の切れ味は素晴らしかったというわけ。

 もしかしたら、こうやって、彼女も知らない誰かの胸に、ひっそりとナツミは生きているのかもしれない。

 それから僕は園芸部(最初は園芸同好会)を設立したわけだけど、どういうわけかバイオテクノロジーに目覚めていってしまうんだ。それはまたいつかのおはなしで。


 つい先生と話し込んでしまった僕は、慌てて教室に戻ると、隣の席から「珍しいね」と話し掛けられた。


 前を向かなきゃ。


 時々僕はそうやってナツミを思い出す。都合の良い時に使ってごめんよ。


「うん。実は園芸同好会を立ち上げることにしたんだ」

「え、何それ。えんげいって、演じたりするやつ?」

「そっちじゃなくて、庭園の園に芸術で園芸の方」

「あー、そっちか」

「興味ない? あと、誰か興味ありそうな人知らない?」

 僕は少しずつだけど、クラスメイトとも会話をするようになった。



 だんだん回る世界。眩しかった夏が終わり、日常が秋へと歩み寄る。時を刻む中で庭のイロハモミジが色づき出した。

 手を加えてなかったからか伸び放題のそれを、見よう見まねで剪定していく。割と大雑把にざくざくと切ってもいいらしい。

 休日出勤の入った父が玄関から出てきた。紅い葉や枝がたくさん落ちてきて、ぎょっとしたようだ。

「そんなに切って大丈夫なのか?」

「うん。強いから大丈夫だよ。見栄え良くしたいんだ」

「そうか。……気をつけるように。行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 まだ再婚はしてないけど、もう一人母親ができるのも悪くないと思える日が来そうな気がした。


 天を仰げば、あの夏の日より高くなった空が紅葉の隙間から見える。

 休日の朝。ゆったりとした時間の中で、あの日と同じように、薄い色の欠けた月が姿を現している。

「ナツミ、僕、頑張るからね。まだまだ時間が掛かるかもしれないけど、僕も君と同じように顔を上げるよ。だから、早く生まれ変わってね。待ってるよ」

 ナツミに届いたかな。僕の中で彼女は「ま、頑張りなさいよ」と笑っている。


おわり

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