~四の章 すれ違いの決意~
「待て、誾千代、とにかく待て」
「待っても変わりませぬよ。私は決めました故」
やれやれまた始まった、家臣達は統虎と誾千代のやり取りを、苦笑いをしながら見ていた。言い切る誾千代、追う統虎、いつもと変わらぬ立花家の風景であった。「家臣は家族と同然、隠し事をして如何致す」という立花家の決め事により、日常の会話は夫婦間のものであっても、秘される事は滅多に無い。然し此度は、いつもの騒がしさとは様子が異なっていた。
「私は此の城を出ます」
誾千代が柳河城へ入り、落ち着いた或る朝の事だった。急いて事を決めるのは、幼き頃からの誾千代の癖であった。逆に、じっくりと事を決めるのは統虎で、足して二で割れば、誠に調度良い夫婦だの、自分はどちら派だの、微笑ましいものから物騒なもの迄、立花家では夫婦の性格を巡って、話題が絶える事が無かった。だが、城を出るなぞ、物騒過ぎて笑い噺に出来る物では無い。統虎からすれば、正に瓢箪から駒、寝耳に水である。兎に角、誾千代の真意が解らねば、統虎にはどうにも出来ない。
「誾千代、そなた、楽しそうに立花山の噺をしてくれたではないか。或れが気に食わんかったのか」
「いいえ、楽しゅうございましたよ。彌七郎殿の代わりに、微塵も残さず立花山の全てを、しかと此の目に焼き付けて参りましたから。そう、てて様の如く、眼を見開きましてな」
統虎は無き義父道雪のぎょろりと大きな眼を思い出し、思わず吹いた。
「いや、誠に義父上の大きな眼は、何でも知っている様で、幼き頃なぞ、まるで閻魔様に睨まれている気分で震え上がったものじゃ。否、誾千代、いきなり何を言わせるんじゃ。誤魔化すで無い」
「統虎様、太閤様からの書状の噺にございますが」
「雪下、何時の間に其処に参ったのじゃ。あれじゃな、御主、わざとであろう。ずっと誾千代とのやり取りを黙って聞いておって、今切り出したであろう。正に今で無くともよいであろうに。わかった、わかった故、恨みがましい眼を致すな。今から行く故、誾千代、夕食は供に致すぞ。はな、間違い無く誾千代を逃がすな」
「心得ました」
統虎は各々に矢継ぎ早に言い付けると、未練がましい様子で、慌ただしく大広間へ向かった。
「逃がすな、とは苦々しい。妻に掛ける言葉とは思えぬな」
眉を潜める誾千代に、はなは冷めた眼で応えた。
「姫が殿をからかうからにございましょう。全く意地悪な姫様です」
「はな、そちはどちらの味方じゃ」
不機嫌そうに問う誾千代に、はなは「無論」と応えた。
「立花家の御味方に御座います」
「はな、眼が泳いでおるぞ」
箸が重い。逃げはせぬものの誾千代は口を開かない。否、統虎の目の前で、ただただ黙々と口を動かし、夕食を喰ろうておるのだが、言葉を発さぬ。
「誾千代、そなたな」
満を持して自ら口を開いた統虎だったが、「彌七郎殿、膳が冷めますよ」と冷たく返され、慌てて夕食を掻き込んだ。今宵の誾千代は特に隙が無い。此処最近、義父道雪の纏っていた気に似てきておる、そう思っておったのだが、特に今放つ其れは、義父の其の物だ。途方に暮れながら味の無い夕食を掻き込み、気付けば床に着く時間に差し掛かっていた。
「誾千代」
我が妻の名を呼ぶ。心無し弱々しく響いたのか、誾千代は大きく溜息を吐き、夫の前に座した。
「何で御座いますか、その弱々しい声は。全く、九州一の強者が聞いて呆れますぞ」
統虎は先の立花城の戦いを評価され、実に太閤秀吉のお気に入りとなっていた。統虎は大友家の一家臣から秀吉の直属の家臣に取り立てられ、立花家は「大名」の位を手に入れていた。「鎮西一の強者」とは宴の席で秀吉が上機嫌に統虎を誉め称えた言葉だと言う。鎮西の要とも言える柳河に封入したのも、統虎を気に入っての事であろう。其の鎮西の一物の弱点が妻の誾千代であると、知るのは家の者位か。容赦無く畳み掛ける誾千代に、こほんと小さく咳払いをし、統虎は応えた。
「此れは或れだ、夜も更けたことであるし、既に横になっている者も居ると思うて、気遣いじゃ。して、誾千代、話しては貰えぬか、訳を。拙者の前から去る理由を」
「其の様な」統虎とは対照的に、声を荒げる寸でで、誾千代は言葉を飲んだ。否、そうであるな。私が彌七郎殿の元を去るのには変わり無い。棄てられた仔犬の様な眼の夫を見て、誾千代は胸が痛んだ。まるで婚礼の日の夜の私の様じゃ。或の日、私は彌七郎殿に救われた。或の日、棄てられたと思っておったのは私の方であったのに。此れでは恩を仇で返しておるようじゃ。私は、告げねばならぬ。彌七郎殿には聴くべき権利がある。誾千代はすくと立ち上がると、珍しく戸を閉めた。何時もは開け放たれている障子戸を締めると、行灯の油の燃える音さえも、ジリジリと鮮明に聞こえる程、室内は静けさに包まれた。誾千代は再び統虎の正面に座すると、何時もより幾分か柔らかい声で語り始めた。
「彌七郎殿、此だけは申しておきます。私は、彌七郎殿を、城を棄てる訳では御座いませぬ」
「うむ」
統虎が反論もせず、相槌を打つのを聞き、誾千代は続けた。
「しかしながら、二人が此の城に居合わせるのは相応しくない、そう思ったのです。頭は二つも要りませぬ」
「頭が二つ、であるか」
此度は誾千代が頷く。
「彌七郎殿と私、頭が二人居っては、家臣に戸惑いも生まれます。私は城に居るべきではない」
然し統虎は納得いかぬ、と言う素振りで頭を振った。
「何故に二頭と思わねばならぬ。拙者と誾千代、そなたとは一心同体の様なものだと思うておる。どちらが欠けてもならぬ。そうではないのか」
そうかもしれぬ、否、そうであるのが立花の為。
「周りは、家臣は如何でしょうや。彌七郎殿の思案と同じとは言えますまい。ならば、混乱が起こる前に其の芽を刈るのは当然かと」
「其れが当主たる者の務めに御座います」眈々と応える誾千代の言葉に、統虎は一抹の寂しさを感じた。
「当主か。然らばそなた、『妻』としての務めは如何する。拙者の夫としての務めは果たさせてもらえぬか」
「な、何をいきなり」
「いきなりでは無かろう。そなたとは祝言を挙げてからずっと夫婦だと思うが」
何時もとは逆の、統虎が主導権を取る展開に、誾千代は言葉を返す事が出来なかった。至極正論である。正論であるからこそ、反論出来ぬ。真っ直ぐな統虎の視線に、誾千代は隠し事は出来ぬと観念した。
「子は、子は成せませぬ」
誾千代には珍しく、視線を真下に落とし、掌はぐっと膝の辺りで握りしめられていた。ああ、此れは泣かぬと必死な姿だ。統虎は誾千代の心内を察し、此れ以上追い詰めまいとした。誾千代を哀しませるのは本意でない。統虎は誾千代の肩に優しく手を置き、言葉を掛けた。
「今宵は此れまでにしよう。さあ明日に備えて休むぞ」
明かりが落ちるのを縁で見届けたはなは、踵を返し、寝所を離れた。はなが去った後には、真珠の如き大粒の涙が一つ、溢れ落ちていた。
寝不足だ。当主足るもの、自己管理も大事な執務なのはわかっているのだが、其れにしても寝不足である。統虎は筆箱を開き、溜め息を点いた。途端、後ろからピシャリとやられた。
「和泉、頼むから扇子の使い方を誤らんでくれ」
「然らば殿、筆箱に溜め息を込めるのは止めてくだされ」
尤もである。
「否、すまんかった」
頭を下げながら振り向くと、和泉が苦笑いをしながら言葉を続けた。
「姫とやり合うたようで」
うむ、眼を逸らせつつ、統虎が続けた。
「何故であろうな。拙者は別に誾千代を傷付けたい訳では無いと言うに」
硯に墨を摩る。透明だった水が、段々と黒い渦を作りながら、黒く澱んでいく様子はまるで今の自分の心の様である。あれから、昨夜の誾千代の様子がずっと引っかかっていた。
「其れは姫も同じでしょうや」
似ておるから衝突もすれば共感もする。向かう先は同じにしろ、其の道筋が異なると諍いになる。
「そうであれば良いが」
統虎は再び溜め息を吐き、再び和泉に喝を入れられる事となる。
一方誾千代は、柳河の民と共に畑仕事に励んでいた。
「姫さんが、こがん土いじりばしてよかとね」
「当たり前じゃ。こうして皆が農作物を育ててくれるから、私たちは食うに困らず、政に専念できる。食べ物を育むのは國を治めること、つまりはそういう事じゃ」
筑後に生まれ、立花山で育ったからか、幼き頃から土にも生き物にも接してきた誾千代は、姫君らしからぬ感覚を有していた。土で汚れようが、虫が湧いて出ようが、左程気にしない。山や海や空に育まれた命を頂くからには全てを尊ばねばならない、というのが父道雪の教えであった。毎日食す米も口にする魚も、農民や漁民が命を賭して育て捕っているからこそ、私たちは生きていける。
「大変変わった姫さんじゃのう」
今の季節は茄子や紫蘇の収穫期であり、肥えた筑後の大地では、作物が美しく実り茂っていた。
「ほれ、このでかぶつを持って行ったらよか」
農作業の報酬に貰った、太く肥えた茄子を右手に持ち、誾千代は「彌七郎殿は茄子を好んで食しておったな」と声に出してしまうのだった。
「姫様、御顔に泥が」
「よい、大事無い」
はなが手拭いで拭おうとするのを、誾千代は左手で制した。
「姫様、後悔しておられませぬか」
徐にはなが問うた。
「無論。後悔はしておらぬ。何時、城を出れるかのう。彌七郎殿は堅物じゃから、なかなか首を縦に振らぬ事よ」
はっきりした声音立ったが、応える間、誾千代ははなの方を一度も見ようとしないのだった。
「止めても無駄なんじゃな」
今にも消え入りそうな統虎の問いに、誾千代は溜め息で応えた。
「何を言うておられるやら。目と鼻の先に御座いましょう」
確かに柳城と言われる柳河城から、誾千代が移る宮永の屋敷は、城の直ぐ南で、徒歩でも四半時もかからない。
「それはそうなんじゃが」
歯切れ悪く、未だ何か言いたそうな統虎に、
「支城です」
と誾千代は言い切った。
「殿、宮永館は柳城の支城で御座いますれば、城の一部で御座います。部屋を移る位の事で御座いますよ。今生の別れの様に振る舞われても、私が戸惑いまする」
誾千代の諭す様な物言いに、統虎は「そうか」とだけ応えた。しかし、城を出るのには違いない。拙者が不甲斐ないからでは無いのか。拙者が頼り無いからでは無いのか。拙者を嫌うておるからでは無いのか。悪い考えばかりが頭を駆け巡る。そもそも支城などと、己が城の楯とならんばかりではないか。
「誾千代、やはり」
「殿、私は参ります」
言い掛けた統虎の言葉を遮り、誾千代は颯爽と城門を潜った。残された統虎の鼻を、誾千代の残り香の白檀が、何時までも甘く擽っていた。
はなが城を訪れたのは、そろそろ床に着こうか、そんな時であった。はなが誾千代の供でもなく、城を訪れるなど、考え辛い。よもや誾千代に何かあったのではないか、統虎は焦った。
「此の様な夜更けに申し訳御座いませぬ。姫様が床に着かれたため、下がって参りました」
はなの言葉にほっとしつつ、其れならば何事かと首を傾げた。
「統虎様、どうか、姫様をお訪ねになられてくださいませ。館でも姫様はずっと統虎様をお想いにおられます」
「な、何を申すのじゃ、いきなり」
統虎は思いも掛けない申し出に狼狽えた。
「いきなりでは御座いません。ずっと、ずっと姫様は統虎様を大切に想っていらっしゃいます。此度城を出たのも其の為。なのに、統虎様が姫様をお訪ねにならないなど、はなは不憫でなりません」
「城を出たのも、とはどういう事じゃ。詳しゅう聞かせい」
統虎の見脈に、うっかり口を滑らせた事に気付いたがもう遅い。はなは統虎の訊問を受ける羽目になってしまった。
「あの、姫様は統虎様を御護りしたい、其れだけで御座います」
よく意味が解らず、首を傾げる統虎を見て、はなは補足した。
「立花のお家は双頭である、と。統虎様と誾千代様、二人の頭がおるとそういう話でした」
「うむ、其れは誾千代から聞いた」
或の、誾千代が城を出ると言い出した或の日、誾千代本人から聞いた話であろう。はなは一息吐いてから続けた。
「姫様は、宗茂様と御一緒になられてからというもの、前々から御自身の立ち位置は何処か、探されていらっしゃる様でした。立花を、統虎様を御護りしたい、と」
「拙者は誾千代の為に、何をしたという事は無いのに、何故其処まで想われておるのか解らぬ」
益々訳が解らない統虎に、はなは「祝言の夜で御座います」と続けた。
「或の夜、姫様は救われたので御座います。其れまで姫様は、私は立花には要らぬ様になってしもうた、と、辛そうで御座いました。泣きはなされませんでしたが、心は涙で溢れておられたと思いまする。其れを統虎様はいとも簡単に笑顔に変えて仕舞われたのですよ」
「二人で」という一言で。はなは昨日の事の様に思い出していた。「彌七郎殿を愚鈍と思うて悪かった。安心して立花を任せられそうじゃ」と語る誾千代は、柔らかな眼差しをしていた、と。統虎は或の一言が其れ程重き言葉だったと、今更ながらに思い知った。誾千代の苦しい心内も。
「そしてやっと心の置き処を見付けたので御座いますよ」
「其れが如何して城に城を出るに至るのか、全く解せぬ」
「姫様は」はなは息を飲み、口を開いた、同時に涙が落ちた。
「子は産まぬ、とお決めになられたので御座います」
「そう、それじゃ。誾千代はそう申しておった、どういうことじゃ。子を産めぬ、では無く『成さぬ』と」
些細な事かも知れぬが、或れから胸に痞えていた言葉だった。
「もし医師から子宝は難しいと告げられておっても、誾千代の何が変わる訳でもない。城を出る必要など何処にも無いと思うたが、どうも違う気がしてな。其れで拙者の事が嫌で逃げたのでは無かろうか、と思うておった」
滅相も無い、とはなは驚く。
「好いてこそあれ、嫌うておるなど有り得ませぬ」
はなが余りにも頭を振るので、本当に有り得ぬのであろう。安心すると同時に疑問が大きくなる。
「然らば何故に否定するのじゃ」
「やや子が出来れば十月十日と申します。その間に戦が起こったらどうするのじゃ、誰が立花を護るのじゃ、そうおっしゃられまして」
それは拙者が、と言おうとして、統虎は言葉を飲んだ。城を出たのは当主としての自分があったからこそ。ならば、やはり戦場で指揮を取るのも又己意外に考えられぬのだろう。身重の自分が、足手まといと考えるやも知れぬ。誾千代は、妻よりも当主を選んだのだ。
「子が欲しければ側室でも入れろ、と。私は城を出るのだから気兼ねは無用じゃ、と申されました。とてもとても御本心からとは思えませぬが、そうおっしゃられるしかなかったのだと思われます」
「そうか。誾千代は言い出したら聴かぬ故、そっとしておくしかあるまい。はな、苦労を掛けるが、又こうして報告に上がってくれるか。拙者も宮永に足を運ぶ故」
はなは深く礼をすると、静かに夜の城を去った。
「誾千代め、お主の考えは解らぬでもないがな、跡継ぎがおらねば立花は無くなるのじゃぞ。義父道雪の血を引くお子を産めるのは、お主しかおらぬというに」
しかし誾千代は未だ若い。其の内考えが変わるやも知れぬ。統虎はそう考えていた。当主であってよいのだ。然し出来れば拙者の妻としても生きて欲しい、そう願いながら。
誾千代が宮永館に移り住んだ後、暫くは誾千代の気丈さから、夫に愛想を尽かされ追い出されただの、石女だの、有らぬ噂が立てられたが、いつしか其れは「夫が浮気をしたらしい」というものに刷り変わっていった。どうやら頻繁に城に出入りする女がおるらしい。顔は解らぬが身なりはきちんとしており、決まって皆が寝静まった頃に出入りするという。
「殿さんの色好きにも困ったもんじゃ。こげな美しか姫さんがおらすとに」
誾千代は宮永館に移り住んでからしばらくは、邑人の好奇の眼に晒されていたが、噂の変化と共に、程無くして同情の眼に代わり、その後すんなりと好意的に邑に受け入れられる様になっていった。
「あの彌七郎殿に、そんな器用な真似が出来る訳は無かろうて。どうせ侍女の出入りを誤解しとるんじゃろう。のう、はな」
もちろんはなの出入りを知らぬ誾千代では無い。一瞬花の背中を冷汗が伝ったが、当の誾千代と言えば怒った様子は見せず、小さな声で「すまなかったな」とだけ言った。今では三日に一度は統虎が宮永館へ顔を見せる。誾千代には其の時間がとても愛おしかった。誰に気兼ねもいらず、魂の片割れと再開する、そんな気分さえしていた。やはり此の選択は間違いではなかった、そう思っていた。
一方統虎も宮永館を訪れる時には、素の自分でいられる、そんな感覚があった。やはり誾千代と拙者は袂を別つべきではない、そう考えていた。同じ気持ちであるのに、どうしてすれ違ってしまうのか、二人を傍で見守りながら、はなは人知れず心を痛めるのであった。