~三の章 水龍の棲み家~
「泣かぬのですか」
「泣かぬよ。父上には只々感謝しか思い浮かばぬ」
二人、立花城から宰府の方向を見つめて居た。もう一刻にもなるだろうか。最初に口を開いたのは誾千代だった。晴れた山城から岩屋城のある四王寺山は直ぐ其処で、手を伸ばせば届くのではないか、そう思える程近かった。空はどこまでも青く澄んでおり、緑繁った山の木々の間を通り抜けた風が、初夏の爽やかな薫りを二人に届けた。或の岩屋城陥落の日から怒濤の様な日々を送り、今日までゆっくりと言葉を交わす暇すら無かった二人は、改めて昨年の出来事を思い起こして居た。
岩屋城開城後、紹運が案じた通り、島津軍はいとも容易く宝満城を開城させ、孤立無援の立花城へ降伏を迫ってきた。
「既に岩屋も宝満も我が島津の手に落ちた。無念であろうが、命ある内に城を明け渡されては如何か。我が主君は、今ならば荒平城を宛がうと仰せじゃ」
目と鼻の先の岩屋に居た父を助ける事叶わず、弟統増、そして母までもが、島津に騙され捕らえられてしまった。開城すれば見逃す、其の言葉を信じたが為に。宝満城より転がり込んできた早馬から、知らせを受けた統虎の膓は煮え繰り返っていた。弱っている者を欺くとは、武士の風上にも置けぬ。この充行すら、口先で無いと、どの口が言えようか。否、口先だけで無くとも、此の「立花」の氏を継ぐ者として、此の立花の地を手離し、敵方の軍門に降る訳にはいかぬ。
「無論、お断り申す。聞くだけ無駄であったと思うが」
「親子共々頑固な者達よのう。此方が折れる内に降伏すれば、少しばかりの便宜を計ってもやったものを」
「よくぞ恥ずかし気も無く宣うたものよ。宝満での仕打ちを我らが知らぬとでも思うてか。主らこそ、痛い目に合わぬ内に立花を去るがよい」
統虎に続いて誾千代が声を上げた。戦場には不釣り合いな程、華やかな声音と麗しき見目。其の場に居た誰もが息を呑み、静寂が訪れた。妻の凛とした神々しさは、統虎には眩しくも誇らしかった。自分には無い、美しさ、誰もが聞き入ってしまう程の艶やかな声と巧みな話術。そしてたおやかな刀捌きと流れるような所作は、血生臭い戦場であっても、人を惹き付けて放さない。
「島津に告ぐ。立花は義を立てる。主君大友家、延いては太閤殿下の御意志に背く様な真似は決して行わぬ。拙者を降伏させたくば、先ずは太閤殿下の御心を伺って貰おうか」
頑として動く気配の無い統虎の様子に、流石に此れ以上は無駄と悟ったか、島津からの使者は苦々しげな表情を浮かべ、自陣へ戻って行った。
「太閤殿下は、既に此方へ行軍なさっているとの事。其れまで今暫くの辛抱じゃ」
統虎は評定で晴れやかな表情を見せた。誾千代は家臣達を取り巻く空気が緩んだのがわかった。此れを謀らずともやってのけるのが、彌七郎殿の天賦の才だ。誾千代はそんな統虎の才能を心底羨ましく思いつつも、自然と溜息が漏れてしまう。全く、此方がどんなに氷で心を覆ったとしても、彌七郎殿は、此のお陽さんの光の様な笑みで心を溶かしてしまう。私がどの様な思いで氷を張っているかも知らぬ顔でな。然し、同じ志を持つ者としては、此れ程心強い味方はおるまい。其の証拠に、晴れやかな統虎の表情は、皆の心を明るく照らしていた。此れからの籠城に光をもたらすかの如く。
「誾千代、お主こそ泣いて良いのだぞ」
「何を仰せになりまするか。私は、てて様へ涙はお預けしました故。まさか彌七郎殿はあの日をお忘れになられたのですか」
「忘れてはおらぬ。しかしな」
誾千代は此の立花城を離れ難いのでは無いか、そう思い聞いてみたのだが、返ってきたのは突き刺す様な氷の視線であった。
「相変わらずで御座いますね、彌七郎殿。まさか私が約束を違えるとお思いとは」
否、そもそも泣く泣かぬを言い出したのは其方であって、と言いたいのは山々であったが、問答で誾千代に勝てる気がしない。統虎は出掛かった言葉を呑み込んだ。
抜かりなき島津の事、既に手筈は整った上での交渉であったのであろう。程無くして立花城は島津の大群に囲まれた。其の数、凡そ二万。対して立花城へは統虎、誾千代を筆頭に、三千余りの兵が城へ立て籠った。岩屋城の父、紹運の奮闘の甲斐あって、島津軍の立花城到着までに半月の猶予を得た統虎だったが、中国毛利家の吉川、小早川を中心とした太閤軍は、未だ鎮西手前の赤間関に到着したところである。然し、既に太閤秀吉から勅命を受ける立場となっていた統虎は、黒田孝高らから情報や鉄砲、兵糧などの補給を受けており、籠城を行うに充分な備えがあった。しかも城の周りを取り囲まれてはいるものの、先の岩屋城の戦いで島津軍の受けた傷は、此方が思うよりも大きかったと見え、島津軍の動く気配は感じられない。夜襲にも備え、夜な夜な篝火を焚いてはいるものの、眼下の陣営には動く気配が無いまま、刻々と時は過ぎていった。
長期戦となれば、断然不利なのは二万の大軍を抱える島津軍である。此の筑前筑後で大友と陣取りを繰り広げてきた秋月氏は、島津の将に一先ずの撤退を進言する。そこで、島津氏は立花城近くへは秋月氏が陣替えする事を条件とし、立て直しの為一旦退く事にした。陣替えした秋月氏は、高鳥居城を護る星野氏と共に筑前攻略最前線を担う。其のつもりであった。葉月も下旬の二十四日の事だった。
「誾千代、討って出るぞ」
敵陣営の様子を伺っていた統虎が館に戻ってくると、誾千代は既に火種を燻らせていた。此のところ、誾千代は刀よりも鉄砲に執着の様子である。確かに鉄砲は刀や弓と違い、非力な女子でも、男と同等の威力を発揮出来る武具であり、且つ女子の細く器用な手先は、弾込めや点火の様な細かな作業に向いていると言えるであろう。女子衆の適正を見抜いてこその、誾千代の判断にはいつも感心せざるを得ない。
「承知。館は女子衆に鉄砲を用いて護らせましょう。私は」
誾千代の言葉を途中で遮り、統虎は右手を誾千代へ差し出した。
「行くぞ、弔い合戦じゃ」
気付いた時には誾千代の手を取っていた。統虎には、確信にも似た予感があったのだ。きっと誾千代も拙者と同じ想いだ、と。
島津が退くと時を同じくして、太閤軍が筑前に入ったとの知らせを受けた統虎は、今が好機と見ると、合流を待たずして出陣を決めた。幸い、籠城戦での損害も疲労も、小早川家や黒田家の支援の御陰で、殆ど無きに等しかった。今なら父の敵を討てる、否、今しか無い。其の瞬間、確信に似た想いが頭に浮かぶ。きっと、誾千代も討って出るべきだ、そう想って居るに違いない。拙者が来てから当主でありたいと願う気持ちを抑え、今日の今日まで耐えてきた誾千代。愛する実の父、道雪の訃報に接しても感情を殺し、必死で生き続けてきた誾千代。事有る毎に拙者と比べては称賛しておった、義理の父紹運の死に接しても、隣で拙者を支え続けた誾千代。そして誰よりも拙者と同じ志を持ち、命を預けられる同胞であり妻である誾千代。そして誾千代は、差し出された夫統虎の其の手を、躊躇わず握り返した。
「高鳥居城を落とす」
統虎は実に冷静であった。心根は直ぐにでも宝満城に飛んで行きたいであろうに。島津方の星野吉実、吉兼兄弟が護る高鳥居城に、期待していた秋月氏の援軍は届かず、筑前の地に孤立状態である。立場が逆転しようとしている正に今、立花城と宝満城のほぼ中間に位置する此の城を落とす事は、南下する太閤軍にも必要不可欠であった。判断に誤りは無い。統虎の眼は真っ直ぐ前を向いている。誾千代は戦の采配を、夫の手に委ね、見護る事にした。太閤軍の威光も有り、小野和泉、蔦野三河を将に据えた立花軍は、苦戦を強いられながらも、星野兄弟が護る高鳥居城を落とす。勢い其の儘に、統虎は父が命を懸けた岩屋城、統増、母が捕らえられた宝満城迄もを、一気に取り戻す事に成功した。岩屋城陥落の知らせから、たったひと月余りの事であった。戦経験の乏しい、齢二十歳の若武者が魅せた怒濤の奪還劇に、太閤秀吉は「鎮西一」と褒め称え、大友義鎮より直参となった家臣に、新たなる領地を与えた。何の縁か、其れは義父道雪が命を賭して攻めた、あの柳河であった。
「まあ、そういうところが彌七郎殿なのでしょうね。私は、嫌いではありませぬ」
統虎は耳を疑った。語尾は消えそうではあったが、今確かに。
「さ、そろそろ参りましょう。太閤殿下が柳河入りを心待になされているのでしょう。急いで支度をせねば」
踵を返し、城へ戻ろうとする誾千代を、統虎は後ろから呼び止めた。
「其の事なのだが誾千代、拙者の我儘を聞いてはもらえぬか」
意外な言葉に、誾千代は思わず足を止めた。統虎が「我儘」を言う等、今迄聞いた事が無い。寧ろ周りの我儘を受け止めてきた統虎だ。私欲など、此れ迄ただの一度も耳にしたことが無い。誾千代は驚きの声を上げた。
「彌七郎殿でも我儘など言うので御座いますね」
「茶化すで無い。誠に幼子の様な我儘で、口に出すのすら躊躇っておると言うに」
ふふ。幼き日に口ごもっていた、あの彌七郎其のままの姿に、誾千代は懐かしく微笑んだ。統虎の久方振りに目にする、誾千代の笑顔だった。
「聴きましょう。殿の御命令、此の誾千代が幾らでも聴きます故。一体何で御座いますか」
「茶化すなと言うておるのに。まあ良い、誾千代、耳を貸せ」
「何を言うておられますやら。此処には他に誰も居りませぬよ。供も要らぬと言うたのは、彌七郎殿では御座いませぬか」
残党が居るやも知れませぬ、侍従のはなは、そう言い誾千代に付き従おうとしたのだが、如何なる手練れと言え、統虎と誾千代の二人に敵う者など居らぬという事に気付き、口を噤んだ。誰が付き従っても、此の二人には足手まといとなるに違いない。渋々退き下がるしかなかったのは、統虎側も同じだったのか、はなが館に戻ると、門前では十時が右に左に忙しく行き来していた。
「良いから耳を貸せ、誾千代。二人だけの秘密じゃ」
「二人だけの秘密」、其の言葉にどきりとした。そうだ、二人だけなのだ。二人で生きていかねばならない。身を引き締めればならぬと思いながらも、何処か甘い響きに誾千代の胸は高鳴った。耳に触れそうな近さで呟かれた統虎の言葉に、誾千代は目を見開いた。大きな瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「其れが彌七郎殿の『我儘』で御座いますか」
「繰り返すで無い、お主は全く…否、其れはどうでも良いのだ。聴いてくれまいか、誾千代」
誾千代が聴いた統虎の「我儘」。其れは
「どうか此処、立花山の地を拙者の代わりに廻って来ては貰えぬだろうか」
家臣団はざわついた。無理も無い。主君の奥方である姫が、夫と供に封入地に入らぬなど、聞いたことが無い。
「気にするで無い、誾千代は直に参る」
「しかし殿、此れでは周りから何と言われるか」
「捨て置け。言いたい者には言わせておくが良い」
統虎は全く以て相手にする気配が無い。寧ろ心浮き立っている様にも見え、気味が悪い。
「ならば儂が姫様と共に参ります故」
「良いと申しておるであろう。誾千代には侍女を付けておる。心配せずとも良いから出立するぞ。此れ以上柳河入りを遅らせる訳にはいかぬ」
後ろを振り返る事も無く、統虎は馬を進めた。遠目に見守っていた誾千代は、其れを合図としたか、馬の鼻を返し、駆け出した。後には侍女が続く。
果たして此の先、立花はどうなるのだろうか。家臣の中には主君と其の奥方の行動を不穏に思う者も少なく無かった。
誾千代は、立花城の石垣の上を歩いた。此処から彌七郎殿を何度出迎えただろう。傍らには紹運様が微笑んで居られて、「誾千代殿は勇ましいな」と御声を掛けてくださった、幾度も幾度も。館の縁から見える、博多の町の向こうに広がる海は蒼く遠く、あの海原の向こうには何があるのだろうかと、幼き頃にてて様に伺った。志賀島や小呂島の遥か先には、日の本よりも大きな大きな島があるらしい。
「もう、言葉を交わすことも出来ぬのじゃな」
一人呟き、風が言葉を掻き消すのを待って、誾千代は石垣を飛び降りた。山道から此の石垣を眩しそうに見上げて居た、彌七郎殿の元に行かねば。馬を繋いでいる梅岳寺迄戻り、父道雪の墓に長々と手を合わせた。死の縁でも柳河を想うて逝った父。戦で勝ち得たものでは無くとも、此れはてて様の思念が成した転封なのかもしれませぬな。
「てて様。誾はそろそろ参ります。彌七郎殿は気が済むまで此処に居って良いと申されましたが、其れも限度がありましょう。此れから先、立花をお治めになる殿様が来られましょうし、何より新しい地では女手も必要なはず。早く行って差し上げなければ、あの不器用な彌七郎殿は、目を回しておるのではなかろうかと、誾はひやひやしております」
誾千代は道雪の墓に笑い掛けた。
「てて様は此処から柳河をずっと御見護りくださいませ。紹運様は岩屋の御山から、てて様は立花の御山から。誾は彌七郎殿の御側で、御二人の代わりに彌七郎殿をお支え致します。誾の御務めは、立花である彌七郎殿を御護りする事と、今決めました」
誾千代はすくと立ち上がった。すらりと長い手足は昇り始めた朝日を受け、眩いばかりに輝いていた。もう迷いはなかった。此の立花の地に感謝し、民に感謝し、そして愛する父と義父にしばしの別れを告げ、誾千代は歩を進めた。
「はな、参ろうか。今からならば、邑々を廻っても夕刻には着くであろう。行こう、彼の『水龍の棲み家』へ」
誾千代が柳河の城に入ったのは、既に陽も暮れた後だった。松明が焚かれた門扉で、驚いた顔の家臣が慌てて館に走った。別の家臣は、統虎入城より三日も遅れて城入りした誾千代をぎこちなく出迎えた。厩戸に馬を繋いでいると、背後から統虎の声が響いた。
「誾千代、早かったな。大事無いか」
「早いも何も、あれから三日も経っておりますが」
「大事無い様であるな。誠に大義であった」
全く人の話を聞いておるのか否か判らぬ、相変わらずの統虎に呆れる。
「其の様子では彌七郎殿も大事無い様に御座いますな」
「柳河の民がな、代わる代わる手伝いに参ってくれたお陰で、予定よりも早う落ち着きそうじゃ。誠良き地じゃな、柳河は」
夢中で話す統虎は何時に無く饒舌で、誾千代の心には少しばかりの寂しさが通り抜けた。彌七郎殿は、てて様から譲り受けた立花山よりも、我が手柄で得た柳河へ既に心変わりしたのかもしれぬな。私の手も不要な様じゃ。
「そうじゃ、明日は共に領地を廻ろう。義父上の菩提寺にふさわしい場所が見つかってな。柳河に梅岳寺も移してはどうかと思うておるのじゃ。是非誾千代にも見て欲しい。そうじゃ、其れよりも夕餉じゃ、夕餉。腹が空いたであろう。疲れておるであろうし、今宵はゆるりとするがよい。其の、あれだ、頼んでおったものも聴きたいしのう」
捲し立てる統虎に、誾千代の胸は熱くなった。そうであった、此の御方は気付かない様でいて、何事にも気付いておる。てて様の事も立花城も忘れては居らぬ。其の上で新しい地にも馴染もうと、前を向いておる。其の様な御仁だからこそ、私はてて様に盟ったのだ。嬉しさが込み上げ、自然と誾千代は微笑んだのだった。
「無論に御座います。私も、彌七郎殿が柳河に入られてから今日迄の噺を聴きとう御座います」
統虎も誾千代も心安らかであった。此の後、同じ志を持って夫婦となった二人の歯車が狂うなど、此の時の二人には知る由も無かった。