~二の章 義父と父 下~
「父上、どうか、どうか持ち堪えてくだされ」
統虎は祈った。否、祈ることしか出来なかった。此の立花城に万が一の事あらば、それこそ義父にも、今、正に戦い続けている父にも顔向け出来ない。父上、今暫くで太閤殿下の援軍がお越しになられる。今暫くです。其れ迄の辛抱に御座居ます。其れ迄は拙者も堪えねば、堪えねばならぬ。奥歯を噛み締めた瞬間、ふと右手に温もりを感じた。気付けば甲冑姿の誾千代が我が手を握り、小声で呟いた。
「彌七郎殿の命とあらば、私は何時でも岩屋へ駆けます故、殿は堂々と御成りになられませ」
道雪が亡くなってから、誾千代は統虎のことを「殿」と呼ぶようになった。但し、あくまでも人前に在る時のみで、二人の時は変わらず「彌七郎」と呼んでいた。恐らく誾千代は統虎の胸の内を知ってか、わざわざ呼び方を使い分けたのであろう。「家臣の前では其の様な顔をするな」と。まだ実の父、道雪を亡くしたばかりの誾千代には統虎の気持ちが手に取るように解っていた。自分の時と違い、救えるとわかっているからこそ、平静を保つなど至難の技。しかし城督で或る身では身勝手に動くことなど出来ない。其の葛藤と苦悩はいかばかりであろうか。そう思うと自然と統虎の手を握り締めていた。私に出来ることは何か。私がすべきことは何か。
「其処に居ってくれ」
「え」
統虎の苦悶の表情が僅かに弛んだ。
「誾千代、お主は其処に居ってくれ。さすれば拙者は平静を保っておられる。お主にしか頼めぬ」
誾千代は統虎の手を再度握り締めた。強く、強く。
「貴殿の命、此の高橋紹運、有り難く頂戴致す」
此れ程までに高貴な魂を持つ、文武共に秀でた武将が他におろうか。立花城から駆け付けた家臣にまで、涙と共に感謝の意を伝える名将に、吉田兼正は驚きを隠せなかった。「岩屋に援軍を出したい」そう統虎様が仰られた折、自ら志願した。
「恐らく二度と戻れぬ戦になる。誠に良いのか」
命じてしまえば良いのに、統虎様は何度も問うてきた。つい先日、統虎の使者として立花城入りを請う為、岩屋城に向かっていた十時摂津が持ち帰った紹運公の御言葉は、兼正も耳にしていた。「立花城へは移らず、岩屋を護る」と。其れは「城を枕に討ち死にする」という決意に他ならない。其れを知っているからこそ、統虎も慎重に働きかけているのだろう。だからこそ、此の様な心遣いを見せる主君を裏切る訳にはいかぬ。
「無論、承知の上で御座います。志を貫くべき武士すら、強きに靡く時代で或るという中、道雪様、紹運様、そして統虎様は決して折れる事無き鋼の意思を貫かれる御方々で御座います。其の様な方々にお仕え出来るは武士の誉れ。歓んで戦場に参ります。統虎様、どうか立花を、姫様をお頼み申します」
「其の思い、統虎、しかと受け取らせて貰う」
傍らで頷く誾千代姫は、まるで女神の如き神々しさで、眩しさすら感じた。
「兼正、私からも宜しく頼みます」
「有り難き御言葉。此の兼正、必ずやお役に立って見せましょう」
もう二度と拝むことが無いであろう、かつて仕官した道雪の愛娘の顔を脳裏に焼き付け、兼正は三十余名の同士と共に岩屋城に入った。
覚悟を決めた武士達が広間で顔を揃える。既に高橋家の嫡男たる統増を始め、女子供は筑紫との相城である宝満城へ送っており、残るは約七百の兵のみであった。対する島津軍は其の数二万。多勢に無勢を現わしたような布陣である。
「筑紫殿は既に島津の手に落ちたと聞く。敵兵が此処に辿り着くは時間の問題かと思われまする」
思うたよりも早かったな。もう少し粘るかと思うたが。紹運は苦虫を噛み潰した。筑紫広門が出城、猫尾城は僅かに三日で陥落、広門は島津方の手に落ちていた。筑紫の兵が半数を占める宝満城は、猫尾城陥落の報を受け恐らく混乱の真っ只中、まともに交戦出来るとは思えなかった。残るは統虎の護る立花城のみ。すまぬ、苦労を掛けるな、統虎。儂の命在る限り、そちらには蟻の子一匹通さぬ故、後は頼むぞ。
「紹運様、敵襲で御座います」
「来たか、島津。皆の者、儂に力を貸してくれ」
カッと眼を見開き、紹運は薙刀を手に立ち上がった。
岩屋を囲む島津の総攻撃が始まったのは、文月の半ば夏の十四日の事であった。
「撃ち方止めい」
戦場に声が響く。発した主は城外にあった。砂埃が納まると、中央に佇む一騎の武将があった。「蔵人」と呼ばれる、新納忠元であった。
「我は島津家が家臣、新納忠元と申す。此度は話したき事あり、見ての通り一騎で参った。是非とも高橋紹運殿にお目通り願いたい」
「相解り申した。では此方へ参られよ」
新納忠元の武功は大友にも名が通っていた。忠誠心は高く、仁の高き武士であると言う。よもや約束を違え騙し討ちを行う様な輩でもあるまい。しかし紹運は己の真の名を偽り、忠元と接見する事にした。
「折角参って頂いた折、誠忝ないが、只今殿は奥で休んでおる。すまぬが貴殿には某がお相手させて頂こう」
高橋紹運とも在ろう者が此の様な戦場で、敵軍から遣いの者が来ておる中、休んでおる様な愚将で在る訳がない。ただならぬ眼力を備えて対峙する男は、自らを「麻生外記」と名乗った。
「左様であるか。さすれば残念ではあるが致し方無い。麻生殿、とやら、無礼を承知で申す。此の戦に貴軍が勝つ道は最初から途絶えておる。秀吉の兵が着く迄の時間稼ぎにもならぬであろう。此の様な無益な戦など止めてはどうか。伴天連を重んじ、神仏を愚弄し、墜ちる一方の大友など見限り、我ら島津に就いてはどうだ。貴軍にとって悪い話ではなかろう」
依然周りは静まり返ったままである。此の状況で寝返りを問うか。ふっと軽く笑うと、外記は口を開いた。
「ならば問う。主君が順風満帆な時にはどの家臣も忠義を尽くし、喜んで功名を争うであろう。だが主君が衰退の一途を辿り、報償さえ充分に貰えぬと判った時貴殿は如何致すか。主君を棄て、命乞いを為さるか」
忠長は息を飲んだ。
「己が主と認めた者を裏切る様な真似は、武士どころか鳥獣にも劣る。其の様な者が此の場に居ると思われるか」
此の返しを聞いた者達から、敵味方に関わらず感嘆の声が漏れた。負け戦の中にあって尚も味方のみならず、敵の武士の心をまでも掴むか、高橋紹運。貴殿は誠に戦神の様じゃ。
「愚問、であったな。茶番はもう良いであろう、紹運殿。貴殿が間違いなく高橋紹運殿であるとは判っておる。貴殿から其の言葉を聞けて良かった。此れが敵軍の将の応えとあらば、我が軍も全身全霊を以て相対するのが礼儀というもの。此度は大変失礼仕まつった」
踵を返しながら、忠元は改めて思った。「何と気高き武士の魂を持つ者で或る事か」と。
思わず目を背けたくなる光景であった。何度も凄惨な場面に遭遇した忠元でさえそう思うのである。ましてや若い兵や経験の少ない者等が無論耐えられる筈もなく、或る者は込み上げてくる胃液と戦い、また或る者は泡を吹き、気を失っていた。此処に、此の岩屋の城には人足るものの生の息吹は無かった。戦の早くから命を落とした者だろう。夏の暑さで腐敗が進み、屍には蛆が湧き、肉はずぶずぶと腐り果てていた。かと思えば、目を背けた先には、反対に未だ生きているのではないかとも思える、眠ったような真新しい屍もあった。若い者も年老いた者も、身分の高い者も低い者も、今は大差無かった。びくとも動く事はない。
「忠元様、高橋紹運殿の亡骸が御座いました」
「うむ、参ろう」
新納忠元が家臣に案内させ、向かった先で目にしたのは、間違いなく先に目通りした麻生外記、高橋紹運であった。然し其の頸には先日の姿とは異なり、ざっくりと頸元に大きな傷があり、其処から溢れた血がどす黒く変色した塊がこびり付いていた。
「介錯を頼んだか。然し何と穏やかな表情であろう。天に恥じぬ生き方を貫き、主君を裏切らず、息子を護り、思い残す事無く穏やかに逝ったか」
通常腹を斬った武将の表情は苦悶に歪み、此の世を怨み、其の表情には未練が見て取れる。が、高橋紹運の表情は仏門に入ったとはいえ、正に悟りを開いたかの様な静かなものだった。
「忠元様、紹運殿の書状に御座います」
紹運が死の直前目前に置いたのであろうか、家臣は足元に或る血染めの書状を拾い、忠元へ差し出した。忠元は一瞬此れに目を通すべきか躊躇したが、合掌をすると血で貼り付いた紙を丁寧に剥がし拡げた。
「此れは」
息を飲んだ。主君か、若しくは息子達への伝令かと思い開いた書状には、我が敵軍への言葉が綴られていた。流れるような筆捌きで記された言葉。
「此れは忠長様へ献上すべき書状じゃ。儂が預かろう。御主は紹運殿の首を持って参れ」
忠元は家臣へ命じると、書状を握り締め踵を返した。
「なんと。此れを高橋紹運が持っておった、そう申すか」
此度の戦の総大将である島津忠長は新納忠元から此度の岩屋城攻めの報告を受けつつ、城主である高橋紹運の首実検を行っていた。戸次道雪亡き後、大友は高橋一族のみと言っても良い程、風前の灯となっていた。此度の戦に挑むまでは、大友を落とすのは赤子の手を捻るようなもの、そう思っていたが。
「岩屋城では事の他、いや、尋常で無い程の被害を受けてしまった。此れは高橋紹運、敵ながら天晴れ、と言うしかなかろう。敵としてでなく、味方として出会いたかった。なあ、蔵人よ、盃を酌み交わす友と生れたであろうにな」
「其の通りで御座います。戦の最中、よもや我らの事迄考えおった等とは思いも寄りませなんだ。誠に素晴らしき御仁で在られました」
忠長は徐に立ち上がり、そして首に向かい首を垂れた。忠元以下家臣も此れに倣った。血染めの書状ははらりと舞い落ちた。
―此度の戦は偏に義在るが故―