~二の章 義父と父 中~
少しばかり時を遡る。道雪逝去の知らせに先ず動いたのは筑紫広門だった。道雪が亡くなった翌日、広門は修験者を装った兵を使い、宝満城を占拠してしまった。筑前の拠点となる一つ、宝満城が建つ山は、霊山として修験者が常に出入りする場であった事から、不意を突かれた形で乗っ取られてしまった。城は統虎の弟・統増が留守居を預かり、母も滞在していた為、紹運、統虎共に一報を受け肝を潰したが、家臣が機転を利かせ、何とか二人を脱出させたという。大事は無かったとの続報を受け、不幸中の幸いだと安堵したが、道雪がいないと知れ渡った今、大友領が狙われるのは今回のみで済むとは思えなかった。兎に角今は勢力を延ばすより、領地を死守する事が目下の課題である。紹運は道雪を送ると息子夫婦とも別れを惜しむ間も無く、岩屋城へ帰城するしかなかった。しかし翌年になり広門は将来性を秤に掛け、島津よりも秀吉に就くが得策と判断、翌年、宝満城は和解の上、筑紫と高橋との相城となる。
加祢が古参の兵一人を連れ、紹運の元を訪れたのは、まだ寒さの残る如月の頃だった。額を床に付けんばかりに頭を垂れ、床に揃えて付かれた加祢の両手は少し震えていた。
「其の様に畏まらなくても良いのですよ。そなたは私の姪御なのですから」
優しく語り掛ける妻の向こう側に、紹運は複雑な表情を以て其の様子を見つめていた。此の筑紫広門の娘、加祢の母は、妻とは姉妹、つまり紹運にとっても姪にあたる。しかし此れ迄筑紫と大友は領地を巡り、絶えず争いを繰り広げてきた為、姪とはいえ紹運が加祢を見たのは初めてであった。現在も両家は緊迫状態に或るというのに、此の時期わざわざ筑紫の姫と名乗る女子が一人、我が城を訪ねてくるとは如何なものか。正直素直に信じて良いものか、流石の紹運も困惑していた。暫く重苦しい沈黙が続いた後、ようやく加祢が声を発した。
「筑紫広門が娘、加祢と申します。此度は此の様に紹運様、伯母上様の御前にお目通り叶い、嬉しゅう存じます」
震える手元とは裏腹に、真っ直ぐに透んだ声であった。
「私がこうして独り、恥を忍んで参りましたのは、高橋家と筑紫家の行く末、両家の存続を願っての事で御座います」
「行く末、とはまた大仰な。して、加祢とやら、そなたは一体何を願っておるのだ」
紹運の低く這う様な声は、一瞬加祢を怯ませた。退いてはならぬ。今まで女子である為に、父にも母にも御恩をお返しする機会すら無かったのだ。今は退けぬ。加祢はキッと顔を上げ、紹運を正面から見上げた。
「私を娶って頂きとう御座います」
流石の一言に紹運も一瞬呆気に取られた。
「まさか一人で其の様な戯れ言を申しに此処まで来た訳ではあるまい。悪い事は言わぬ故、己が城へとお戻りなされては如何かな」
若き女子が一人、使者も立てず書状も持たず、敵対する城へずかずかと上がり込んできたのだ、いきなり信じてくれと言うのも滑稽な話。此処は信じてもらえるだけの証を立てねばならぬ。加祢は懐から切り札を取り出し、膝の前にそっと置いた。
「其の短刀はどういう意味だろうか。まさか其の様な得物で、儂の首を取ろうというおつもりかな」
「滅相も御座いませぬ。もし、紹運様が私を実家へお返しになられる様な事あらば、おめおめと生き恥を曝す訳には参りませぬ。受け入れられぬと判ったならば、すぐにでも此の喉元を掻き斬るつもりで参りました」
ほほう。まさか此処にも此の様な心意気の女子武士が居ろうとは。思わず顎に手を添える。真剣そのものである加祢の目を見つめると、紹運の目尻は自然と下がった。
「父上、もう良いではありませぬか」
突如問答を聞き付け、広間に入ってきたのは統増であった。幼き頃、「千若丸」と名乗っていた、統虎の五つ下の弟で、統虎が立花に入った後、嫡男として高橋家を支えていた。助け船を出すのは、妻だとばかり思っていた紹運は意表を突かれ妻を見たが、こちらも驚いた顔で我が息子を見つめている。
「加祢殿、我が父が無礼な事を申したのではありませぬか。尊敬する父では御座いますが、些か武骨で御座います故、貴殿に辛く当たったのでは無いかと」
「これ、統増、殿に失礼ですよ」
今度は嗜める母に詰め寄る。
「母上も母上で御座います。加祢殿は母上の妹君の娘御で御座いましょう。誰もお味方が居られず、女子独りで心細いであろうに、母上が庇って差し上げなければ、加祢殿は一体誰を頼れば良いのでしょう」
驚いた。大人しいと思っていた統増が此の様に声を荒げるとは。
はっはっは。紹運は突然声を上げて笑った。
「どうやら我が息子達は心強き姫にご縁があるようじゃ。其の様子ならば、統増、お主は此の婚礼に異論は無いのだな」
「は…」
「何じゃ、その鳩が豆鉄砲喰らった様な顔は。まさか、儂が加祢殿を娶るとでも思うとったのか」
加祢の対象が自分だと気付いた瞬間、統増の心臓はドクドクと早鐘を打ちだした。先程はか弱き姫が、独りでさぞ辛かろうと、助ける事に必死で、事の本題を失念していた。改めて自らの立ち振舞いを思い返すと、統増の頬は上気し、目は泳ぎだす。私は何という恥知らずな事をしておったのだ。まるで、初めて逢うた加祢殿に執着している様ではないか。然し、其の目が加祢と合った途端、統増の心は決まった。
「無論、御座いませぬ」
「と言うことだ、加祢殿。まだ童の様な処も多い伜故、苦労を掛けるが宜しく頼みますぞ。では統増、今宵は加祢殿に二の間をお使い頂こう。お主が案内致せ」
「承知致しました。加祢殿、此方へ」
しかしいくら待っても加祢は腰を上げようとしない。
「何か御座いましたか」
怪訝な顔で尋ねる統増に加祢は応えた。
「…した」
「え」
「腰が抜けました」
願いが聞き届けられ、気が抜けたのか、加祢の足腰はいくら立とうとしても全く言うことを聞かないのだった。情け無い、たかが此れしきで動けなくなるとは。泣きたい気持ちを必死で押さえていると「失礼仕ります」という声と共に、加祢の身体が宙に浮いた。
「ひゃっ」
気付けば統増の顔が目の前にある。どうやら歩けない加祢を抱き上げてくれたようである。
「失礼かと存じましたが、此のままにする訳にもいかぬ故、暫しご辛抱くださりませ」
良く見ると統増の顔は赤らんでおり、少しも加祢の方を見ない。加祢は真面目そうな統増の横顔を見ながら、
「此の御方が私の旦那様」と心の中で呟いた。
「然し、驚きました」
二人が出て行った部屋に残った夫婦はほっと息を吐いた。
「まさかあの様に女子が身一つで此処まで来るとは」
妻が安堵の表情を見せたのを確認し、紹運も微笑んだ。
「短刀で喉元を掻き切ると言い出した時には、思わず統虎を立花へ送り出した日を思い出してしもうた。あの娘も腹を括って家の為に闘っておったのだな」
あの日、長光で腹を切る覚悟をせよと送り出した我が息子、統虎。加祢も武家の覚悟を以て、敵陣である此の地に足を踏み入れたのだ。紹運はそんな我が姪御の武士の魂を信じようと思ったのだった。
「ふふ。私は統増に若き日の殿を見ましたよ」
嬉しそうに話す妻に、紹運は珍しく表情を強張らせた。
「なんじゃ、今更。其の様な昔の事を申すな」
「いえ、私は生涯忘れませんよ。殿が我が兄上に進言してくださった日の事は」
袖で口許を隠しながら微笑む妻を見て、思わず一つ、咳払いをした。
「儂はもう忘れた」
長く続く戦の為、婚姻の約束は交わしていたものの、なかなか妻に迎え入れる事が叶わず、其の最中、疱瘡にて生死の界をさ迷わせてしまった。一命は取り止めたものの、容貌が醜く変わってしまった、と兄、斉藤鎮実は紹運に妹との破談を申し入れてきたのだが、紹運は断固として受け入れなかった。
「私が妹御を妻にと思うたのは其の見目の美しさの為では或らず、其の心根の美しさの為に御座います。例え見目が変わってしまったとしても、其の心根まで醜くなるはずは御座いませぬ。私は決して浮いた気持ちで妹御を妻にと望んだのではありませぬ故、是非とも妻に迎えたい」
そう応えた紹運に鎮実は涙したという。
「其の時の殿のお言葉に私はどれだけ救われましたことか。言葉では言い表せませぬ。きっと、今の加祢にも、統増の言葉は救いだった事と思いますよ」
「それはまあ、そうかもしれぬな」
若き二人の行く末、紹運にとっては其れは見る事の叶わぬ物語となるのだった。