~序章~
「息災であったか。まさかこんなに永い歳月、逢えぬなどとは思うておらなんだが」
自ら切り出したにも関わらず、思わず苦笑いが込み上げてきた。墓を目の前に「元気か」とは、笑止千万だが、他にふさわしい言葉が見当たらなかった。きっとお主は「相変わらず愚鈍な彌七郎殿じゃ」と笑うのだろうな、誾千代よ。脳裏に浮かぶは凛として決して揺るがぬ、天女の如く気高く勇ましい甲冑の美姫。気付けばお前の倍も生きておったよ。記憶を手繰り寄せ、目の前の墓に其の姿を重ね見、緩やかに語り掛ける。隣の竹林から葉擦れの音が絶えず鳴り続け、晩年「立斎」を名乗るようになった宗茂の言葉を掻き消した。まるで、二人の語らいを、供の家臣の耳から遮る様に。
大人でも息切れを起こすような険しい山道。途中、獣道と見粉う様な難所を抜けると、目の前に現れる石垣。筑前の地・立花山に聳え立つ、「立花城」の石垣である。この立花城は商人の町・博多を始め、様々な要所を司る為、何度となく城を廻る攻防戦が行われてきた。其れが今、大友家の重臣、雷神を冠する戸次道雪が此の地を治めるに至る。が。
「なんだ、彌七郎殿であるか」
急に頭上から声がしたかと思うと、すっと目の前に影が落ち、気付くと目を逸らすことの出来ない程、美しい女童が立っていた。この女童が、雷神が一人娘、誾千代であった。戸次道雪は数々の攻防戦を経て此の地を治めるに至り、そして其の全てをこの誾千代に譲ったのである。無論、大友家宗主である義鎮も、道雪の要望に最初は渋った。誾千代の従兄弟筋にある男児との養子縁組を薦めてみたが、道雪は頑として折れることはなかった。そこで義鎮は正式に誾千代を当主と認め、家督を譲ることを承諾、ここに齢七つの姫城督が誕生した。道雪の一人娘として、生まれながらに家を継ぐ為に生まれてきた様な姫である。姿形は幼き頃から他国にも聞き及ぶ程の美姫ではあったが、内面は男にも負けず劣らずの文武を兼ね備えた、紛れもない武将であった。
「紹運殿、ようお越しくださいました。てて様がお待ち申して居ります故、ご案内致しまする」
我が父紹運には自分とは異なり、慇懃に案内する誾千代を目にし、彌七郎は呆気に取られる。
「なんじゃ、彌七郎殿。来ぬのか」
冷たく一別する誾千代を慌てて追いかける。どうも彌七郎はこの美姫が苦手であった。苦手ではあったが、決して嫌いではない。寧ろ、真っ直ぐな物言いの誾千代には好感を持っていたと言っても過言ではない。しかし、この次から次へと紡ぎ出される、誾千代の言葉の波状攻撃に応戦出来る得物を、彌七郎は持ち合わせてはいなかった。一方誾千代は、彌七郎との会話に苛立ちを感じていた。何故この者は即座に返答する事が出来ぬのか。紹運殿はあんなに聡明であられるのに。自らが怒涛のような言葉を発しているとは微塵も感じていない誾千代は、なかなか会話にならない彌七郎との掛け合いが苦手であった。しかし、裏を返せば穏やかである彌七郎の存在は嫌いではなかったし、特段会話以外に不便を感じたことはない。まあ、昔からの長い付き合いではあるしな、慣れたのだろう。のそりと後ろからする気配を感じ、誾千代は城へ歩を進めた。
「紹運殿、彌七郎を誾千代の婿にくれまいか」
突然の道雪の申し出に、紹運は言葉を失った。嫡男である我が子・彌七郎。文武両道に加え、真っ直ぐで物事に動じない、間違いなく高橋家を担うに十二分の器量である。いくら長年の同士でもあり、父の様な存在でもある道雪の望みとは言え、直ぐに首を縦に振ることは出来なかった。
「千若ではなるまいか」
彌七郎の五つ下の千若丸。歳は若いが、彌七郎に比べても何ら遜色は無い。しかし、道雪もなかなか退かない。
「無論、千若が悪いと言う訳では無い。きっと数年後には彌七郎に負けず劣らずの良き武将に為るであろう。ただ、その『数年』が、儂にとっても誾千代にとっても大きな差なのじゃ」
彌七郎と弟の千若丸は齢にして五つの差がある。誾千代から見れば、千若丸は三つも歳下にあたる。年齢を重ねれば大した差では無いが、この頃の三年はかなり大きく、女子から見ればかなり幼く思えてしまうだろう。ましてや相手は誾千代である。あの姫城督の手綱を千若が握れるかと問われれば、紹運の気持ちにも揺らぎが生じる。
「儂もこのような歳、出来れば早いうちに誾千代を任せられる婿を取りたいのじゃ。優れた娘とはいえ、されど娘。誾千代一人を置いてなど、死んでも死にきれぬ」
頭を床に擦り付けんばかりに下げて懇願する道雪のこの言葉に、紹運は返す言葉が無かった。誾千代は道雪が齢五七にしてやっと儲けた一人娘。道雪がどれだけ誾千代を慈しみ育んできたか知っている紹運には、この申し出を断るだけの理由が見つからなかった。
「道雪殿、どうか面をお上げくだされ。解り申した。この縁談、きっと大友の為にも成りましょう。戸次と高橋の絆が強まれば、きっと大友家の安泰にも繋がるに違いない。誠にめでたき話ではありませぬか」
彌七郎と誾千代。若き二人はきっと今後の大友を支える礎となろう。紹運も腹を括った。
「父上、今何と仰いましたか」
彌七郎は耳を疑った。
「彌七郎、お前は戸次家に婿に入れ。そして誾千代殿と夫婦となるのだ」
改めて紹運の口から出た言葉。しかし、到底理解し難いものだった。私は高橋家の嫡男として、父紹運の後を継ぎ、大友家をお支えするのではなかったのか。其の為に今までありとあらゆる学問を学び、武芸に励みここまで来たのではないか。
「父上は、私がお嫌いなのですか」
子供染みた問いだとは重々承知している。しかし尋ねずには居られない程に、彌七郎は混乱していた。
「何故そう思うのだ。お前も知っての通り、道雪様は大友の魂とも言われる名の有る武将。誾千代殿に至っては今や正式に戸次家の家督を継がれた城督ぞ。何ら問題があろうか。寧ろ、此の様な両家にとっても、勿論大友にとってもこれ以上めでたき縁組みはなかろうて」
そうだ。冷静に考えれば其の通りだ。筋が通ったものの考え、雷を斬ったが為に、脚の自由を奪われて尚、あれほどの強さを誇る道雪に畏怖と尊敬の念を覚えなかった事は無い。軍神・道雪が自分を婿に、と望んでくださるなどこれ以上誉れ高き事は無い。しかし、手放しで喜べる程、彌七郎は大人ではなかった。其れに誾千代。
「誾千代殿、誾千代殿は何と」
僅かばかりの期待を抱き、彌七郎は再度紹運に問うた。
「『てて様がお望みになります通りに』と」
もしかしたら誾千代が拒んでくれるのではないか、そうすればこの縁談は破談になるやもしれぬ。そう思った彌七郎だったが、微かな光は掻き消された。私は此の家を出て、戸次の義父の元で暮らすことになるのだ。
ごとり。
音のする方へ目を移すと、そこには一振の刀があった。紹運が常に肌身離さず帯びていた「長光」であった。
「彌七郎、此れからお前は戸次家の者となる。もし、戸次と高橋の家が敵として相見える事となったら如何致す」
「無論、父上のお味方に馳せ参じ…」
「戯けたことを申すでない」
彌七郎が応え終わる前に鎮種の怒号が飛んだ。
「今一度言うぞ、彌七郎。お前はもう高橋の者ではないのだ。もし戸次と高橋の家が敵同士と為ることあらば、お前は先陣を切り、この長光を抜いて儂の首を取りに参れ。其れがお前の進む道ぞ。道雪殿の期待に応え、戸次の家の為に生きるのだ。知っての通り道雪殿は厳しい御方。望んでお前を迎えてはくださるが、もしその怒りに触れ、この家に返される様なことあらば、高橋には戻ろうなどとは思わず、腹を召す覚悟を以てお仕え申すのだぞ」
父の厳しく、然し言葉の端々に自分への愛と願いが籠った言葉の重みに、彌七郎の目からはらはらと涙が流れた。戦国の世、ともすればこれが今生の別れとなるやも知れぬ。背中を追ってきた父紹運。父の覚悟は我が覚悟。此度の言葉は生涯我が胆に命じて生きよう。
「父上。この彌七郎、この先天に恥じぬ様に生きて参ります。どうか御武運を」
この後、彌七郎はほぼ単身で戸次家に入ることに為る。これは高橋家への未練を断ち切ることでもあり、戸次家の家臣と確執を生まぬ様にとの心遣いであったとも言われる。戸次統虎、十五歳。此れから数々の伝説を残す若武者の誕生であった。
さっきから何も喋らぬ。いつもの覇気は何処へ逝ったのだ。小半時、ずっと目の前に誾千代が俯いて鎮座していた。一族総出で三日三晩、祝言と言う名の宴が催され、やっと解放された若き統虎と誾千代だったが、その後、二人だけとなった途端、この状態である。最初は逆鱗に触れ、噛み付かれては堪らんと、そっとして於いた統虎だったが、流石に飲み過ぎた。酒は強い方ではあったが、三日も続くとなると別である。そろそろ床に着かせて欲しいのだが。
「誾千代殿、拙者、もう休むからな」
ドサッと褥に横になると、其れまで微動だにしなかった誾千代の躰がビクッと動いた。
「な…何じゃ、急に。お主は休まんのか」
誾千代の顔を覗き込んだ統虎であったが、その顔を見てぎょっとした。
「な…泣いておるのか」
否、正確には泣くのを「堪えて」居た。あの、ー人を射ぬく様な瞳は、溢れんばかりの涙で一杯だった。
「泣いてなど居りませぬ。彌七郎殿は、誠に可笑しなことを言う」
震える声で応える誾千代は一向に下を向いたままである。
「何じゃ、何か有るのなら言うたら良い。今更気拙者に気遣いなど無用じゃろ」
初めて目にする誾千代の様子に、流石に酔いも冷めた。躰を起こし、誾千代の正面に座する。
「ほら、どうしたのじゃ。誾千代殿らしくない」
すると誾千代はやっと顔を上げた。其の拍子に珠のような涙が溢れ落ちた。
「『私らしい』とは一体何なので御座いましょうか。今まで私は私らしく一所懸命に生きてきたのです。其れをいきなり全て彌七郎殿に譲れと言う。私が家督を継ぐことは無理だと仰るのか。私が女子で有るからならぬのか。此れから皆は私に何を望まれるのか。私は、私はどうすれば良いのか解りませぬ」
矢継ぎ早に言葉を吐く誾千代を、統虎は不謹慎にも初めて可愛いらしいと思った。隙を見せず、何時も凛とした誾千代。あの姿は仮の姿で、本物の誾千代はこんなにも葛藤の中で苦しみ生きてきたと言うのか。あの言葉で、武芸で固めた誾千代の「強さ」は、この葛藤を眩ます為の武装であったのか。
「誾千代殿、否、誾千代。お主はこの先どうありたい。何を望む」
統虎はゆっくりと問いかけた。すると暫し考え、しっかりした声で誾千代は応えた。
「無論、立花の家を、家臣を護り、導きとう御座います」
「うむ、ならば拙者と同じじゃな。拙者もこの立花家を護りたい。其れが延いては大友を支える事にも為る。ならば誾千代と拙者は同じ行く末を見つめておるということになるな。ならばどうじゃ、こう考えてはみぬか。二人で一緒に、この立花を護って行かぬか」
誾千代の大きな瞳は一層大きく見開かれ、涙で潤んだ瞳は、半信半疑な、けれども小さな光を宿し、統虎を見つめた。
「一緒に」
「そうじゃ、一緒にじゃ。拙者は未だ元服したばかり、加えて昔からよう参っておったとはいえ、立花の家には入ったばかりじゃ。誾千代、お主が一緒に立花を盛り立ててくれるのならば、拙者は心強いのだが」
私は彌七郎殿に望まれておるのか。私が必要なのか。ならば…気持ちは決まったも同然だった。
「無論、私の立花で御座います。彌七郎殿が居らぬとも、一人でも護ります故」
統虎は苦笑した。やっと何時もの誾千代に戻った様子。まあ良い、相変わらずのじゃじゃ馬具合だが、其れで誾千代らしく生きられるのならば、悪くは無かろう。統虎は此の時、誾千代の「護る」の中に自分も含まれたことまでは見抜けていない。気付くのはもう少し先の事になる。