アンデッドイズダイ
錆びた鉄の匂いが漂う、薄暗い工場のような空間。
ありそうでない、そんな近未来チックなこの場所を歩いていると、どうしてもあの映画を思い出してしまう。頭の長い黒くて艶のある食欲旺盛な化け物が出てくるあの映画だ。ぼくの記憶では、始まりから終わりまでそのほとんどの時間あのパーマの主人公は汗をかいているわけだが、それをただフィクション映画として見ている分には「なんでそんなに」なんて思っていたぼくが今、大量の汗で体をべたつかせている。それが体質なのかはわからないが。
そんな異様に不安を煽られる雰囲気の中、ぼくにはどうしても気になることがある。
それは、パイプの中を通るもごもごとする音なのだけど、どういうことか、中を何かが通過しているのにそれを送り出しているはずの機械音が聞こえてこないのだ。
これはあくまでぼく自身のイメージだが、こういう何かが作動している状態ならば少なくとも冷蔵庫のあのモーターの唸る音ぐらいは聞こえるものだと思う。
まあ、工場や機械の関係をよく知らないぼくがいくらそれを考えたとしても答えは出ないのだろうけれど。
「うーん……」
別にここを楽に進めると思っていたわけではない。だが、未知の地での三叉路を前にして悩まない者は考えなしかそれとも勇敢であるかのどちらかだろう。ぼくは少なくとも勇敢ではない、だからどうしてもどの道に進むべきかと悩んでしまうのだ。
こんな時、右利きは左、左利きは右を直感的に選ぶなんてどこかで聞いたが、本当に迷っている者にとってはそんなことどうでもいいのだと実感する。
実際、ぼくは右利きだが、それ故の反射的判断で左に行こうなどとは思わないし、それなら中央かそれとも右かという道の選び方をしようとは思わない。だってここはダンジョンだ。
ぼくの知る土地でない上に怪物まででてくるかもしれない。
その事実が違わない限り、ぼくはどの道を選んだってその選択に意味などないのだ。
選んだその道で何か不都合があれば逃げれば良い、でもそこで逃げたとしても、何かが起きた事実は時を遡りでもしない限りなくなったりはしない。そしてその起きた不都合な事実はぼくの記憶に焼きつき、次の選択肢に多大なる影響を与える。
つまりぼくにとって重要なのは進むこと。そしてその道を戻らないという覚悟だ。
ぼくが選ぶのは直進。
それがその覚悟という意味ではないが、なぜだかそう思ったのだ。
身をかがめて床と天井を這う配管によって遮られるような形になっているその直進の道の先を覗き見ると、その先にはやはり道が続いているし、それに明かりも見える。
他にちゃんとした道らしい道があるにも関わらず、ぼくはなぜこの見過ごしても良いような道を進むと決めたのか。そんな後悔めいたものを感じつつ、それでも一度決めたことと引くに引けない自己暗示の強力さを恨もう。
閉じかけの瞼みたいな狭いその管と管の間をくぐり抜けると、そこは外目に見るよりもずっと狭い。
「もしこの状況で……敵がきたら……」
そういうことを考えるべきではない。
そんなことぼくだって知っている。だが、どうしてかこういう良くないことになるとわかっている状況に限ってそう、余計なことを考えてみたくなってしまうのだ。
これを怖いもの見たさとはいわないないだろう、これはきっと、浮気相手を自宅に呼ぶ不倫妻の思考だ。
ぼくはぼくの知らないところでそういうスリルを楽しむ変態的な性質を持っているのか。一見地味な子に限って、なんてのは暗黙的に言われることかと思うが、もしもぼくが女の子だったら。
きっと世界は良くならないな。
「魔性の女……、ぼくが? ははっ、何をバカなこと考えてんだぼくは……」
馬鹿みたいなことを考えた罰だ。この不気味な雰囲気の中で最も出会いたくないと思っていたもの、きっとそれに間違いないと思われる下品に口を開けてものを噛むようなそんな音が向こう側から響いてくる。
ぼくはその先にいるものがアンデッドのそれだとわかってはいたが、なぜだか逃げようとは思わず、むしろ音のする方を警戒している。
一定の感覚で響く足音が徐々に近づいてくるのを感じる。
そしてそれが、天井からぶら下がる裸電球の下を通りかかる時ついにその姿を現す。
「うぇ……」
でも、人の姿ではなくてよかった。このご時世において生き物の死骸を見たことがないなんてことはありえない。だからぼくは当然死骸というものを見たことがあるわけだが、捕食されたり、皿に並べられている肉片を見るのと、同種族である人が死んだ姿を見るのとではどうしてか目を背けたくなってしまうものだろう。かといって視線の先をちらつく怪物の死体が人でないから見つめられているということでもなく、なぜぼくがそこを歩き回る死体を見ているのかといえば、それはそいつが明らかに見たことのない生物だからだ。
「な……なんだよあいつ。マーマンってやつか?」
見るのは初めてだ、とはいっても、こういう生物を目の当たりにした経験のある人なんていうのは河童伝説を作り上げた伝導師とかよくよく大悪魔に憑依されたりする人くらいだろう。
それにも関わらず、ぼくがそんな得意な経験者でないにしてもこれをマーマンだと判断できるのは正しくそんな人々の伝説やそれを視覚化してくれたイラストレーターのおかげだ。
光をいなすような滑らかな印象の緑色の肌、それは美しいものといってもいいのかもしれない。だがあちこちが削げ、皮膚の裏側に隠されているはずの肉や骨が露出しめくれ上がった唇なんかがそれを全て台無しにしている。長い間放置されていたのだろうと思えるが、それにしても肌艶が良すぎる。
しかしなぜこんなところをうろついているのだろうか。
今またいできたこの通路の入り口の形状を考えると、どう見たって運動神経の鈍そうなアンデッドがくぐってくることは難しいように思える。
「っと、そんなことよりあいつをどうするべきか……」
そうこう考えている内に、少しの間電球の下をうろついていたアンデッドは踵を返して奥へと戻っていった。
こう言っては何だが、初めから逃げるつもりなどない。だったら背を向けているはずの今こそ敵に不意打ちをかけるチャンスなんじゃなかろうか。
「……よし」
この期に及んで動物を殺すのは嫌だなんて考えまい。というかむしろ敵はすでに死んでいるのだから、そんなに気に病むことも初めからないのだ。
ぼくはどこぞから込み上げてくる敵殲滅の勇気とともに金属バットを構え、身を隠していた壁の配管からゆっくりと姿を晒した。ぼくよりも数メートル前を歩くアンデッド、奴らの生態がどういうものなのかは知らないが、こういうものにはセオリーというものがある。
足音を極力抑え、息を殺す。そうやってできる限り音を隠すことで対処するのがアンデッドへのセオリーだ。誰が考えたのかは知らないが、ぼくはそれが正しいと信じている。
一メートル、二メートル。少しずつ敵との距離が縮まっていく。するとぼくの集中力か、それか勇気の限界で、縮まる距離に比例してぼくの焦りが心拍数を上げるのだ。
(振り返る前に、後少し、気づかれる前に……急げ、急げ)
だからそういうことは考えるべきではないのだ。結局焦ったぼくはそれまで順調に縮めていた距離のことなんか忘れて、気づかれる前の行動を取ってしまう。
それが致命打には後一歩足りなかった。
焦ったぼくの雑な行動が鈍感なアンデッドにすら勘づかれ、バット振り下ろした瞬間にその動きが変わってしまったのだ。順調にやっていれば脳天に一撃という攻撃が、アンデッドの振り向き行動によってずれ、頭をかすめただけの首と肩の付け根への一撃に変わってしまった。
するとアンデッドは予想外に悲痛な叫びを上げ、まるで痛みを感じているかのように仰け反ってみせた。
だが、その悲鳴がぼくに植え付けたのは、罪悪感ではなかった。
致命打ではないにしても、痛恨の一撃ではあったぼくの一撃によって脆くなったアンデッドの体は裂け、今や敵の左腕は首筋からだらしなくぶら下がっているだけだ。
これを見てぼくが感じるのは嫌悪感。魚を捌く時にギャアギャア騒ぐ少女のように、ぼくはアンデッドのその姿を単純に気持ち悪いと思うのだ。
怒ったのだろう、アンデッドは痰の絡んだガボガボいう奇声を上げると、上がらない左腕からどす黒い液体を撒き散らしながらぼくに向かってくる。そしてぼくがその突進に防御の姿勢を取るか否かというところでアンデッドは何かを口から吐き出したのだ。
見た目にどろりとしたスライムを思わせるそれは、ぎりぎりのところで顔を覆ったぼくの腕や体に飛び散った。
「うぐっ!」
何がどうしてそうなるのか、振りかかった粘液は異常なまでに重い。いくら服が水分を含んだとはいえ、これほど重たくなることはあり得ない。
だが、今のぼくにはそれを解いたりそんなことをしている暇はなかった。
目前まで迫るアンデッドに対してぼくは咄嗟の一撃を放つ。
次はしっかりと狙った場所に命中、アンデッドの脳天にぶち当たったバットはそのままその頭部を砕き、そしてアンデッドは最後の悲鳴を上げることなく溶けて消えた。
すると、アンデッドの溶けた中にその体の緑色と同じ色の小石大の結晶を見つけた。
「……砂金じゃないんだ」
研磨される前のエメラルドのような濁った色味の結晶は、ぼくには砂金よりも価値のあるもののように見える。それを仕舞おうと財布を開いた時、思ったのだ。
これがこの世界のマネーだとして、一体どこに使い道があるのか。
あの砂漠を渡ることすらできないぼくが、今ここでダンジョンを踏破し地上に戻ったとて、あそこを渡れない限り稼ぐことすら意味がない。俯瞰で見るゲームの世界ならば長くてもせいぜい数十コマくらいの移動なのだろうが、およそリアルなこの世界で数十コマは一歩ではなく、だからぼくは命をかけてあの砂漠を渡るか、もしくはこのダンジョンで砂漠を渡る方法を見つけなければマネーの使い道どころか餓死することになるわけだ。
「餓死か……。生きるためにあれだけ必死に働いたのに、こんなの嫌だな……」
このまま餓死なんてことになればぼくもあのアンデッドのようになってしまったりするのだろうか。
そう考えると一つ疑問が浮かぶ。
あのアンデッドは、半魚人の姿をしていたが、それはつまりここらに半魚人が生活していたということだ。そして半魚人といえば水場だろう。だが、このダンジョンに入ってからというもの水場らしいものは特に見かけてはいない。
「今はないけど、このまま下に進めばいつかはあいつに……」
ぼくはあの大穴の水溜りを思い出していた。
地下深くへ続いていたあの幾つもの大穴はこのダンジョンの周りに張り巡らされているのだろう。だとすればぼくがこのまま下へと進めばマーマンの水場とかち合う時がくるはずなのだ。
見た目にマーマンとはいえないあのインパクタスも水棲なのだから、マーマンの水場までいけばきっと奴と再び対峙することにもなるだろう。
「い、胃が……」
縫い針で何度も刺されるような痛みを感じながら狭い道を進むと、そこから先は床から捻り上げられた配管がぎっしりと詰め込まれた、行き止まりだった。
「行き止まり……」
まさにお先真っ暗だ。これが偶然だとしても、こういうのは心的にダメージが大きい。
だが、それが絶望というわけでもなさそうだ。
道の行き止まり、そこを意味もなく塞ぐようにして狭い道に不自然に傾いた一つの大きなカプセルが目についた。そしてそのカプセルが半開きになっていることから考えられるのは、今さっき殴り倒したマーマンがそこに入っていたのかもしれないということだ。
そうなるとこの中にはもう何もいない。それがわかっていて躊躇するほど臆病ではない。
ぼくはそのカプセルの隙間に手を差し込んで蓋を開けた。中にはしわくちゃのダンボール紙みたいなものが敷き詰められていて、その何だかわからない材質の生地はカラカラに乾いていた。ニ、三歩離れて見てみると、これは棺桶かああいうのを運ぶためのコンテナに思えないこともない。
至って普通の、とはいってもそれはぼく基準での普通だが、とにかくそういうありきたりなカプセルだ。
しかしなぜあいつはこんなものの中に入っていたのだろうか。ここから出た時すでに死体だったのか、そとも生きた状態で、というよりかは正常な状態でここに入っていたのか、そんな若干にして巨大な疑問だが浮かんだ。
もし正常なままここにいたのだとすれば、なぜ腐るまでこんなところを徘徊していたのか。そう考えてみれば答えは簡単だった。
「これに入ったまま死んだんだ……。死ぬまでこの狭いカプセルの中に……」
しかしそれとアンデッド状態とでは話が違う。違うというのも、それは死体が歩きまわるということに説明がつかないからだ。よくあるゾンビ映画の背景にはいつからかウィルスなんてことが言われ始めて、最早それが定番になっているが、あのマーマンが死ぬまでこのカプセルに詰め込まれていたのだとすればウィルス説もおかしいことだと言える。カプセルが感染者を外に出すためにここに置き去りにされたのだとしても、これは外から持ち込まれたと考えるのは不自然で、むしろここの地下から持ち運ばれたと考えるべきだ。
そうしてこの後答えがわかるのかどうかすらわからないことを真面目に思案していると、半開きのカプセルの隙間から何かが零れ落ちた。
「青い胸当て? なんだこれ」
なんだこれ、とは口に出したものの、これはどう見ても防具だというのは頭では理解できている。それに何も身につけず徘徊していたあのマーマンの死体を思えば、この防具は一つではないはず。ぼくはあるかもしれない他の部位を守る防具を探した。
するとどういうことか、カプセルの裏、道を阻む配管の束の隙間の奥に両腕の小手とブーツがまるでその配管に飲み込まれるようにして挟まっているのに気づいた。
「なんであんなところにあるんだ?」
確かにおかしなことだが、それでもこのくたびれたスーツ姿よりはずっと心強い。ぼくはこれを天からの思し召しと思いそれらを隙間から無理矢理取り出した。それによって捨てるかどうするか悩んでいた二年前に買ったばかりの上下セット三万五千円で買ったスーツの粘液で汚れたジャケットを捨てる決意をした。
こういう状況だからか、普段ならば洗って使おうと思うようなものだが、ぼくはそのジャケットを取っておこうなどと考えることもなく、自然に、ごく自然に何の執着もなくそれを捨てたのだった。
ジャケットの代わりに不慣れな手つきで初めての防具を胸につけると、不思議と体の芯から暖かくなるような気がした。
そういえばと思うのもなんだが、地上に比べて圧倒的に寒々としていて、そしてきっとそうだと思えるこの地下空間においてぼくは地上からの温度変化をまるで感じていない。
よく考えなければわからなかった時点でそうなのかもしれないが、自律神経とかもろもろの神経系が駄目になってしまったのだろうか。でも目はよく見えているし、体はレベルアップのせいもあってか軽いし、つまり体調は万全にして最高だ。これで神経系の異常なんてとてもじゃないが感じられない。
そうして自分の体をそっと撫でてみると、細いが確かに引き締まって固くなった腕だ。とにかく、体調に異常が感じられないのであれば心配無用、ぼくは全ての防具を身につけて再び三叉路へと戻った。
心細い合成繊維でできた防具を捨て、新たに何の素材かわからないにしても身を任せることのできる防具に変えたことでぼくの気は大きくなっていた。
しかし、三叉路を前にしてぼくは悩むのだ。
アンデッドという言ってみれば会いたくないビジュアルナンバーワンのモンスターにはすでに出会ったので、第一階層においてそれほど凶悪なモンスターもいないだろうということはわかっている。それに三叉路の内一本は潰したにも関わらず、だ。
これもまた一つの本能と言って良いだろう。しかし本能とはいってもそれは先天的なものではなく後天的本能だ。生まれたばかりの無垢な状態であればまず、選ぶ、ということ自体しないだろうというのは持論で、それは選ぶという基準を受け継いでいたとしても実際には、その一択の未来がわからないからどれをやるかは選ぶ意味がない、と思うからだ。そしてそれはきっとぼくが三叉路で迷ったのと同じような感覚なのだけれど、ぼくは道の先に何かがあると知った上で迷っていて、何があるかわからないの、在る、がそうであるかないかというのが重要だ。
「……うん。左だ」
未来に何が在るかはわからない、でも、何か在るのだ。
結局はそれを選ぶ基準が直感であるのはぼくが名探偵ではないから、ということだろう。
そして、ぼくが直感で選んだ左の道は真ん中の道よりもずっと道幅が広く作られている。それに天井や壁に相変わらず張り巡らされている配管も道の邪魔にならない程度だ。
「ここはきっと、メイン通路ってことか」
そうして通路を進んでいくと、ふと物音を感じた。
「足音……」
一つではない、二つかとも思うが、混ざって聞こえない足音がある時点で少なくとも二人ではないだろう。それにここがメイン通路だということを考えれば、最悪の想像としては十数体ということもある。そしてその全てがアンデッドだろう。
ぼくはそれを確認するために慎重に足を進め、道の前方の様子を探る。
「……カプセル」
それは倒れかかっていたあれとは違ってあくまでそこにそうしたというように壁に立て掛けられている。
壁のパイプに体を埋め込むようにしてその隙間から覗き見た前方の道には三匹のアンデッドマーマンがうろついているのが見えている。
この世界がゲーム的だとしても、ここがダンジョンという場所だとしても。そのどちらにしても出会うモンスターがアンデッドだけというのはおかしいだろう。
もしここには健常なマーマンが住んでいて、彼らが何かしらの原因によってアンデッド化する事態になった、という背景でもあろうがものならそれはその原因がこのダンジョンに残っている可能性があるということにもなる。
「マジかよ……ヤだなあ……」
いや、そんな悠長なことを言っている場合ではない。僕が忘れちゃいけないのは、マーマンが云々、ダンジョンが云々ではなく、ぼくが死ぬこともあるということだ。それは戦闘によってかもしれないし、あるやもしれないアンデッド化する何かが原因でもあるのだ。とはいえアンデッドでは死んでるのか生きているのか説明がつけづらいが、それでもぼくはそれを死んだとする。
「ほんっとに、それは嫌だ……」
小さなため息を吐き出しながら再びその隙間から三匹のマーマンを窺うと、それらは道幅三メートルをいったりきたりしているようだ。
そしてもう一度その立て掛けられたカプセルに目をやった時に思ったのだ。それは、このカプセルがどうして道端に立て掛けられているのか、ということだ。
ここが健常なマーマンの生活空間だとして、あのカプセルがベッドか何かそういう生活必需品だとすればもっとたくさん、それに道端なんかじゃなく部屋の中にあるべきだろう。
それなのになぜ。
「もしかして……、これを運んでいる奴がいる?」
そう考えれば合点がいく。カプセルから出てその場をいったりきたりするか生物を襲うくらいの知能しか残っていないアンデッドマーマンがあんな狭い道にいたことだって誰かが運んで置いたのだと考えれば。
それならいるんだ。
ここには健常なマーマンか、それともモンスターらしくない知能の発達した何か生物が。
その時、何か重苦しい感じの液体が天井から視界をかすめて床に落ちた。
反射的に首を振り上げた僕の目の前にいたのは、幾つもの触手を天井のパイプに絡ませて僕を見下ろしているのであろう口だけの化け物。
まるで首を切り落とされたメデューサの顔が口になったような感じの姿をしたそれは、人の犬歯のような尖った歯が無数に並ぶ大きな口を開き、涎を垂れ流していつの間にかぼくの頭上を陣取っていた。
「なっ!」
ぼくは即座に飛び退いたが、その行動がまずかった。
慌てて飛び退いたために金属バットが辺りに擦れ、思いの外大きな音を立ててしまったのだ。
「くそっ!」
ふと嫌な予感がして頭上のメデューサから視線をずらし、三匹のアンデッドマーマンへと向けると、手前二匹のアンデッドマーマンの動きがぴたりと止まった。
頭上には口の化け物、正面からは二匹のアンデッドマーマン。
万事休すとまでは言えないが、とにかく逃げる余地がある今逃げるべきだ。
ぼくはニ匹の体が再び動き出す瞬間には振り向いて走りだしていた。行く先はどこにするか、どこに逃げ込むか。きた道に逃げ込めるような部屋らしいものは見つからなかった。それならどうする。
考えながら走る内、ぼくはもうすでに三叉路まで戻ってきていた。
「真ん中か、それとも右の道か! ああっ! 悩んでる暇なんてないだろ!」
こんな時、ぼくはいつまでも走り逃げるということはできないらしい。
即座に真ん中の道に体を滑り込ませると、道を塞ぐように、人の瞼のように天井と床から邪魔くさくはみ出した配管の隙間からぼく自身が眼球となってその先を覗き見ていた。
入ってから気づくのは、知能の低いアンデッドマーマンはここにぼくがいることに気づいたとしても入ってこれないんじゃないかということと、あの口の化け物だってこの瞼の隙間から入ってくることしかできない、つまりこの隙間さえ注視していれば対処できるということだ。
ビギナーズラックかそれとも怪我の功名か。
そうして身を低くして外を眺めていると、すぐに二つの足音が聞こえ出した。遅いながらも軽快に響く二つの足音。それは三叉路の真ん中辺りで止み、隙間からはアンデッドマーマン二匹分の下半身が見えている。しかし二匹はどちらも身動ぎせず、まるで即座に生命を持たないマネキンにでもなったようにそこに佇んでいる。
「どっか行け……どっか行けよ……!」
何が怪我の功名だ、ビギナーズラックだ。まさか、動かなくなるなんて。
これは推測だが、こうなった原因は奴らの知能の低さにあるのだろう。単純に複数の選択肢の中から最善というものを選ぶことができなくてそこで止まっているんだ。
だとすればぼくがここから出るか、もしくは奴らにここを知らせなければ動くことはない。
「……参ったな。これじゃあ袋のネズミだ」
完全に動かなくなった二体のアンデッドマーマンを覗き見てぼくは自分の浅はかさを後悔していた。思わず腹の底から息を漏らす。
この場を知らせて隙間からバットで叩きのめすか、そんなことを考えていると突然二匹が動きだした。
一匹が振り返り、もう一匹と向き合うようになる。そして、周囲に気味の悪い音が響きだしたのだ。
「まさ……か……」
一匹がもう一匹に覆いかぶさるようにして僕の視界から見えなくなった。四つん這いになり、下に倒れているであろうアンデッドマーマンの上でもぞもぞと蠢くその背中の動きから想像できるのは。
「た、た、食べてる……」
共食いか。
こんなのは見たくない。だが、ここで目を逸らせばその後に何かあった場合に一手遅れを取ることになるだろう。ぼくは生存率を上げるという意志のもと振るい立ち、それが抱えた膝を伸ばした。ぼくはその最悪な絵面を高い位置から見下ろす形で微かに見える重なった二匹のアンデッドを見つめていた。
やがて、覆いかぶさったアンデッドマーマンの動きが止み、何事もなかったかのように立ち上がる。喰われていたマーマンはその姿こそ見えないものの、立ち上がることもなく、ただ無残にちぎれた腕だけが道に投げ出されているだけだ。
そしてその立ち上がったアンデッドの頭部が変わっていることに気づいた。
「あれは……!」
ドレッドヘアーのようにも見えるその蠢く頭部は、天井に張り付いていた口の化け物に違いない。
「あいつ、寄生……」
今のアンデッドの行動が寄生した口の化け物の仕業だとすれば、あの時あれが天井に張り付いてぼくを見ていたことの理由がわかる。
咄嗟の判断とはいえ、ぼくは逃げていて正解だったのだ。
凄惨な光景の上に立つ寄生されたアンデッドの背中を眺めながらぼくは鼓動が早くなるのを感じていた。
言ってみればそれはスロットのリーチの時感じるものかもしれないし、初めて見た女の子の裸に感じるものかもしれない。きっとぼくは人生初めての正解を選んだ感覚に高揚しているのだ。
こんな時にそんなこと感じている場合じゃないとは思いつつも、自然と頬が釣り上がる。しかし、そんな余裕は持つべきではない。
ぼくの気配が知れたのか、立ち上がったアンデッドの体は勢い良くこちらへ捻られた。
緊張した頬の筋肉が一瞬にして緩む。そして代わりにまた鼓動が早まるのだ。
「バ、バレた……?」
慌ててパイプの陰に身を隠したが、これでは向こうの様子がわからない。そうならないためにわざわざあんな光景まで見る羽目になったのに、これじゃあ全く意味がない。
一瞬とはいえ未知と変わってしまった視線の先を再び窺うため、ぼくはまた眼球となった次の瞬間。
ぼくが見られていたのだ。天井と床の配管の隙間から覗きこむようにその大きな口がぼくを。
「ひえっ!」
口をついて出たのは、悲鳴とも言えない叫びだった。声を出すのではなく、声を飲み込んだ。
眼球を持たないその頭部がこちらを向いているという状況が尚ぼくの不安を煽る。後ずさりしてぶつかった縦に伸びるパイプの乾いた音が狭い廊下にこだまする。
すると、それを合図に飛び出す眼球宛ら、こちらを覗き見ていた口の化け物がその乱雑に並ぶ牙を鳴らして隙間から這い出してくる。
どう考えたってホラー映画のその状況だ。まさか体験することがあるなんて思いもしなかったが、このホラー映画の記憶がぼくを一瞬冷静にさせたのだ。
そういうものを見ている時、それに慣れている者も慣れていない者もきっと考えるはずである「なんでそっちに逃げるんだよ」という感覚。「もうそこでぶっ飛ばせばいいじゃん」なんてそれをぼくは実践する。
「ああああ!」
渾身の力を込めて隙だらけの頭部へバットを振り下ろしたのだった。