レボーアップ ランク1
壁に挟まれたそこから先には錆びた配管や線路、むき出しの鉄骨、それに雨水タンクなんかよりもずっと大きなタンクと崩れたレンガの建物の残骸の数々、そして大きな水溜りの光景が広がっていた。
遺跡だろうか。とにかくここが何かに使われていたのであろう痕跡が点在しているが集落というような印象ではない。
そんな景色の中に、どうにも不自然なものが一つ。
地面そこかしこから突き出した配管だ。そしてその配管やら廃屋らしきものなんかは至るところに雑草が侵食していて、ここらが廃墟となったのが随分昔のことなんだと推測できる。
その中でも一番目を引くのは、たっぷりと水を溜め込んだ陽の光に輝く大きな水溜りだ。
「うわ……これどれだけ深いんだ?」
覗き見たそこは、水溜りとはいってもとてつもない量の澄んだ水が蓄えられた巨大な大穴だった。
光の届く範囲は壁面の全てに謎の配管がひしめいていて、なんともノスタルジックな雰囲気を醸し出している。だが、その先はといえば暗く、何があるのか窺い知ることができないため、やけに恐怖心を煽られるのだ。
不思議な大穴、遺跡。ここが彼の言うダンジョンなのだろうか。
だが、ダンジョンといえば迷路のことで、これだけ見通しの良い場所をダンジョンと呼ぶには少し印象が違う。それかぼくの認識が間違っているということでもあるのだろうか。
何を確認したとて生活の基本違うぼくが見ても新たに疑問が増えるだけなのだろうが、一応周囲を見渡しこの場所が何なのかのヒントを探す。
すると、一本の配管、地面から地面へと弧を描くそれの中で空気を含んだ液体がもごもご鳴る音が聞こえた。
「まだ動いている……。廃墟に見えるけど、そうじゃないのか?」
一体どこから伸びているのか、地面に突き刺さっている状況ではさすがにその先を追うことはできない。
ぼくは新たなヒントを探すことにした。
ここがゲームのような世界だとしてしかし、難易度が低いものではないようで、ぼくがこれからどうすればいいのかはおろかどこへ行くのがいいのかすら、そんなヒントも見当たらない。
適当に歩いてみるのもいいのかもしれないが、ぼくはゲーム内の人間になってそう時間が経っていない、慣れていないのだ。だからどうしても知らない場所での対処も現実的になる。
そしてぼくにとっての現実的行動というのが、見落としに対して臆病になる、つまりはきた道を戻り再々調査するということだ。
ミスに対してこれほど臆病になったのは、ぼくの人生経験によるもの。
何度も怒られ、何度も吐きかけられたため息の分ぼくは隅々まで気にする執念深さみたいなものが身に付いたというわけだ。
そうして忙しなく首を回しながら、廃屋を覗いたり通り過ぎた壁の裏を確認したりしている内、再び大穴のところまで戻ってきていた。
ここはさっき調べた。だが、それで何かを見落としていては困る。
そこでぼくは再度大穴に近付いた。
その時、地の底から唸るような地響きを感じ、そしてそれに呼応するようにして大穴から水が溢れだした。
恐怖への好奇心か、ぼくはその大穴の底を覗き込んだ。
思えばこんな行動を取るのはぼくらしくない。
なぜこんな行動を取ったのかと後悔するのは目に見えていたのだ。
「……あ」
ひしめく配管の大穴、その横穴から這い出してきた怪物。
それはウツボのような凶悪な顔をしていて、だが魚類には無いはずの太く大きな人の腕みたいなものが生えた緑色の体をしてる。そしてその怪物は器用に体をくねらせながら地上の方へ向かってくるようだ。
「どど、ど、どど……」
地面に這いつくばったまま首を四方八方へと振り回して回避の道筋を考える。
だが、何も思いつかない。
モンスターがどうのとマイクの男は言っていたが、ぼくはそのモンスターを獣だと思い込んでいたのだ。
二足歩行で武器を扱う奴とか、ドラゴンみたいな幻想的な生き物とかそういう生物として不可解じゃない、現実世界にいたとしてもそれなりに実感を持てるようなそんなものだと。
それでぼくはこれと戦うのだろうか。
確かにゲーム的であるこの世界でぼくはこのレジェンドアームズなる金属バットを作り上げるらしいが、それに対するやる気があったのは死ぬなんて情報がなかった時の話だ。
今はあの手紙のおかげで油断できたり、当たって砕ける勝負なんてとてもじゃないがする気はない。
「逃げなきゃ殺される……!」
あの怪物がぼくを追ってくるとも限らないが、先程の黒鳥のこともある。
ぼくは一番に近く、そして姿を隠すのにうってつけな廃屋の残された壁の裏に大慌てで這いずりながら飛び込んだ。
できればあそこから出てきたりしないで欲しい。
そんな五分の願いは崩される。
背にした廃屋の壁の向こう側から流れる水の音、そして水の撥ねる音が聞こえる。その感じから、溢れでた水はバケツ一杯や二杯じゃ足りないだろうということがわかる。
ふと見ただけであれが大きいことはわかったが、それがどれだけ大きいのかまではわからなかった。しかし溢れた水の量が知れたところで、ぼくの想像はきっと奴の実寸大ほどまでは膨らんだだろう。
そしてたぶん奴はあの穴から這い出して外に出ている。はずだ。
はずだ、というのもあれだけの巨体にも関わらず奴の呼吸らしいその音が何も聞こえないのだ。
水を生きる生物だからだろうか。あれが魚類なのだとすれば、当然肺を使っての呼吸をしないため、器官を通った空気が鳴らす音が出ないのも納得できるが。
この時、またぼくは普段ならあり得ないことを考え始めるのだ。
それは恐怖に対する確証か、それともただの好奇心か。
ぼくは、この壁の向こう側にいるであろう怪物の正体をこの目で確かめようとしている。
やめておけという自分、やってみようぜという自分、前者はぼくだという自覚があるのだが後者は別だ。
一体誰の思考回路だというのか。ぼくであってぼくでないようなそんな選択肢。
どうやら現状のぼくは後者の人格に従うらしい。
恐る恐る、できるだけ壁からはみ出す面積が小さくなるようにして大穴の方角を覗き見る。
水棲生物らしく水を纏ってつやつやした姿の怪物は、両腕を使って大穴を跨ぐ格好で外に飛び出していた。その大きさたるやぼくの膨らんだ想像よりも遥かに大きく感じる。
結局、想像は想像だということか。
ぼくはそのあからさまな怪物を目の当たりにして、人生初の失禁の感覚を得た。
全身の力が入れようにも入れられないというより、体が力を入れることを拒むような不思議な感覚はなぜそうなるのか。
その答えは、想像だにできない恐怖に対して、それを現実と認識するためにぼくの脳が必死になることで他のことに気が回らなくなるからだ、というのがぼくの見解になる。
なぜそう思うかといえば、それは、今ぼくの体が異常なまでに震えているからだ。
下腹部の力、肩の力が抜けているのに、それでも奴の視界から再び姿を隠さなければと体が体同士でせめぎ合っているのだ。
だが、ぼくには体以外に意識というものがある。
震える体とは別に、そんなことしている場合じゃないと理解するこの意識というものが動きの悪い二の足文の臆病者に対して苛立ちを覚えているのだ。
これが我に返る、ということなのか。
意識を意識した途端、ぼくの体には血流が戻り、力が蘇ってきたのだ。そうして再び壁の裏に体を隠したぼくは、冷えた頭でここを動くべきではないこと強く体に焼き付ける。
意識に支配された体は、もう暴走することはない。
最小限に抑えられた呼吸、これぞ座禅の心、無の想像。今のぼくこそまさに気配を収めた野生、自然だ。
二度目に響いた水の撥ねる音、それは奴が再び穴の底へと戻っていったことを示している。
先程よりもスムーズに壁から向こう側を覗く。
「なんだよあれー……」
象やキリンの衝撃ではない。ぼくの世界もとい地球では、さすがに生きたクジラを水族館で見ることができるわけがないわけで、だからあの怪物が実寸で見るクジラくらいの大きさだとしてもそれに実感が湧かないわけで、やっぱりあんな気味の悪くて大きな生物はあり得ないわけで。
とにかくぼくはあれに出会うよりも先に自分が弱いのだと気づけたことを幸運に思う。
もしあの太った体のままだったらきっと、あの場から走って逃げていただろうから。まあ、そうして逃げたところで何か問題が起きたのかといわれれば、そんなのわからないのだが。
なんにせよ安心だ。辺りにあの黒鳥の姿もないし、それにあれをやり過ごせたことでなんだか体の力が抜けてしまった。
「こいつは、あのグミの……」
慌てて逃げ込んだために気づかなかったが、すぐそばにタンクがある。そしてそれから伸びる一本の管、それを通ってグミの素は出てきているみたいだ。締め損なった蛇口から滴る水滴のように、先程みたものよりかは幾分小さなグミの素が一定の感覚で出現してくる。
これを千載一遇のチャンスと心得るべきだろう。
あんなに美味しい不思議なグミになるモンスターがおよそ無制限に溢れ出てくるということは、腹が減った時のことも考えて幾つか調達しておくのが冒険者としての得策だといえよう。
今度は迷うことなく足元で蠢くモンスターをバットで叩きつけた。
そうして一つ、二つ、三つとモンスターをグミ化させてバットを振る内に自分が筋肉疲労で腕に力が入らなかったことを思い出した。思い出した、というのもそれまで何も感じていなかった腕の疲労感が今頃になってやっと腕が疲れてきたと感じ始めたからだ。
どうやらこのグミは、美味いだけでなく、疲労を回復する効果まであるらしい。
なるほどありがたい。これぞまさしくご都合主義といえる。
そらならやっぱりここはゲーム宛らの世界だ。
疲れた体を癒やすため、早速一つグミを齧る。
「うん、美味い……」
こうして晴れ空の下、廃墟とはいえいい雰囲気の場所で食事をしていると遠足でもしているような気分になる。一人ぼっちの遠足。
小学生の頃から、ぼくは一人ぼっちを寂しいと思わなかった。中学も高校も大学もどれだけ人の多いところへ行ったとてぼくに友達なんていなかった。
でも、それで良いと思っていた。
初めから誰かと一緒にいたいなんて考えてすらいなかったのだから。
ぼくに悪気があろうとなかろうと、結局生きているだけで横暴を振るってくる者はいる。独りでいるぼくを毛嫌いし、いちいち馬鹿にしてくる者もいる。
認められたいなんて思いながらもぼくは、孤独に飢えていた。
一人になりたいと、孤独を欲していたんだ。
そう気付いた途端、肩の荷が下りたというかなんだかほっとして、思わず息が漏れた。
その時、再び一通の封筒が空から舞い降り、それはぼくの膝の上に落ちた。
(レボーアップ、ランクウーヌス)
レボーアップという言葉に覚えはない。
それにこれを書いたのは鉛筆でだろう。雑で、殴り書きのような適当な字体だ。
「レベルアップだろ……。あいつだな、これ書いてるの」
それで、突然レベルアップを告げられたとて一体何が起きたというのか。
たった一文書かれているだけで、裏を返してみても力が上がったとか魔力が上がったとかそんな意味のある情報は書かれていない。
たくさんこの金属バットを振り回したおかげで握力やら腕力は落ちたばかりの時よりは向上しただろうが、そんなもの実感できるレベルではない。
拍子抜けだ。
初めてだ、人生初めてのレボーアップが何の変哲もない筋肉痛だとは。
「それにしても、この格好はなんだよな……」
レベルアップの確認がてら自分の体を改めて見つめてみると、随分廃れていた。
よれよれのスーツに汚れた金属バット、そして乱れた天然パーマ。
これがいつもの世界なら間違いなく職質ものだろう。
誰が見ているわけでもないのに、ぼくは自然と手櫛で髪を整え、乱れたスーツの皺を伸ばしていた。
どれだけ広いのかすらわからない廃墟地帯。
いつまでもここでグミを齧っていたってまた太っていくだけだ。前に進まなきゃ。
あの怪物は地上の足音を聞きつけて出てくるのかもしれない。だからぼくはあの大穴には近寄らないルートで落ちた場所の先へと進むことにしたのだが、眺める景色の構造がどこもかしこも似ているため、それとあまりの恐怖に出くわしたためにぼくは自分がどっちからきたのか忘れてしまっていた。
こうなってしまっては計画もくそもあったもんじゃない。
結局ぼくは闇雲に歩き始めた。
そうして歩き回る内、さっき見たのと同じような大穴が幾つかあることを知った。大規模なものだったから一つだけだと思いこんでいたが、どうやらありふれたものだったようだ。
「まさかこれ全部にあいつが……?」
もしあんな化け物がモグラ叩き宛らに大穴それぞれから飛び出してくるのでは、もうこの廃墟地帯を安心して歩くことはできない。
むしろ、ここを歩くのにレベル一の状態であるぼくは早過ぎるのではないだろうか。
それならば、低レベル者が鍛錬するのにうってつけな土地があるはずだ。もしそうでなければ、そこらを飛んでいるあの黒鳥とグミの素を倒し続けることであの怪物を倒せるレベルまで鍛えろということになる。
実際のレベルアップが筋トレ程度の上昇だと知った今、あんな怪物を倒せるようになるためには人生一回分じゃ足りないほどの時間が必要だろう。
「……やっぱり。他の土地があるんだ」
いつかはあれと戦うのかもしれないと筋肉隆々スーパーマッチョメンな自分を想像しきれずにぼんやり歩いていると、突然目の前は真っ赤な砂の砂漠に変わった。
さすがにこの廃墟地帯が延々と続くとは思っていなかったが、まさかその先が砂漠だとは。
目の前に広がる広大な砂漠、これよりも廃墟の方が難しいステージだっていうのか。
そんなのあり得ない。
「こんなの、どうすりゃいいんだよ……」
未知の、しかも砂漠だ。先に進むにはリスクが高すぎる。
進むことも叶わず。
「でもまだ、ここらを探索することはできる……か」
そろそろ独り言も虚しく思えてきた。
振り返っても似たような風景が続く一つとして建物らしい姿を残していないこの廃墟をあの怪物に怯えながら細かく探索。時間はいくらでもあるのだが、どうにも心が空虚になる。
少しでも気を紛らわせようと足元に広がる赤い砂を足で踏みしめた瞬間。
「なんだ!?」
突如砂の中から飛び出したのは一匹の犬。
狼のような姿をしたそのベージュ色の犬は、出てきて早々ぼくに対して威嚇の牙をむき出しにしている。
そして、ぼくが身構えるのとほぼ同時、狼はその発達した後ろ足で地面を蹴ってぼくに飛びかかってきた。
「うわっと! なんだってんだこいつ!」
ぼくの反射神経も捨てたものじゃない。くるとわかっているものをかわせないほどくたびれてはいなかったようだ。
サンドウルフとでも呼ぼうか。どうせ誰も見ていないんだ、恥ずかしくなんかない。
だが、この咄嗟の発想こそがぼく自身がこの世界で生きていくための重要な発想だったのだと思う。
敵の名前が明らかになったところで途端にぼくのやる気に火が着いたのだ。
「か、かかってこいよ! やってやる!」
殴れば地面に溶ける。これはゲームの世界なんだ、いつまでも常識的なことばかり考えていたんじゃグミを食って死ぬことしかできやしない。
ぼくの覚悟、それがこの一匹のモンスターに通じたか、それともぼくが野生の覚悟を受け入れたのか。
今のぼくにはこいつが敵というよりもライバルに見える。
鋭い眼光を向け、低い姿勢を取るサンドウルフは、溜め込んだ後ろ足の力で再び突っ込んでくる。
だが、この犬の動きをぼくは知っていた。
実家で飼っているラブラドールのゴン。あいつとじゃれあう時はいつだってぼくが優勢だったのだ。
直線的に突っ込んでくるサンドウルフに対し、ぼくは体を半身に構える。
チャンスは奴が飛びかかるために踏み込む一瞬。
その低い姿勢から地面すれすれまで体を落とし込んだ瞬間にぼくは一歩前へ踏み出し、蹴りの間合いに捉えたその脇腹を思い切り蹴飛ばした。
体を捩りながら吹っ飛んでいくサンドウルフ。
柔らかな内蔵を無理矢理押しのける革靴越しの感覚、とてもじゃないが爽快ではない。だってそれは、ぼくが足の甲に感じたその柔らかさは、ぼくの知っている動物と変わらないものなのだから。
なぜあの黒鳥の時はそう感じなかったか、それはきっとバット越しだったし、ぼくが必死だったからだ。
だから今の一撃こそが、命の破壊、自己中心的な欲望のために死を実現させる運命の一撃だった。
あの時、ショックで感じることのなかった罪悪感が一気に込み上げる。
「……ぼくは犬好きなんだぞっ! ちくしょう! ああああ! 来いよぉぉぉ!」
でも、やらなきゃやられる。
不自然な偽善、ペットを愛しながら焼き肉を食べるぼくはやはり生命に公平になんかできないんだ。
諦めと覚悟、そして全てを受け入れるための一撃。
それは空気をいっぱいに入れたバスケットボールを叩きつけたような感覚だった。
案の定土に溶けたモンスターのその後に残されているのは、黄金の粒だ。
拾い上げてみると、それがきっと砂金であることがわかった。
ぼくが殺したのは、ぼくと同じく生きることに必死だったもの。
終えたのは真の競争だったのだ。だからこの砂金は初めての戦利品。
ぼくはそれを財布の中にしまった。