僕はどうしてしまったんだ
一体どういう構造なのか。
ロードバムと呼ばれるこの乗り物は、二足歩行型のロボットのようだが、乗っている僕らは脚部が踏み出される際に生じるはずの揺れをほとんど感じない。
まるで空中を滑るように移動していくように非常に快適だ。
僕はソファのリクライニングを倒し、そこにマーマンを寝かせている。
恐らく眠っているのであろうマーマンの子供は、胸当てを抱くようにして身じろぎ一つせずに目も口も閉じたままだ。
「この子、生きているんですよね……?」
「大丈夫よ。マーマンだって伊達にモンスターなんて呼ばれてないわ。私達よりもずっと野性的で丈夫なのよ?ちょっとやそっとじゃ死んだりしないでしょ」
セーレは前を向いたまま、振り返らずににそう言った。
セーレの前には、コックピットらしく計器らしいものや操縦桿として使うのだろうというものがずらりと並んでおり、セーレはその突き出した二本の操縦桿と足元に伸びる何やらペダルのようなものに手足を突っ込んで起用に機体を操っている。
それにしても妙なのは、彼女のマスクだ。
あの重厚なガスマスクをなぜいつまでも着けているのか。
初めて彼女を見た時からそれは身に着けられていたが、それでもおかしいと思わなかったのは、あそこが未知の場所でそれをダンジョンだと知っていたからだった。
まあ、今更そう考えるのもアホらしいことだが、あそこには有害なガスが満ちていたり、そういうことに出くわす可能性はあったわけで、だからガスマスクなんて普通だと思っていた。
時に客観的な視点は自分を見失う結果になる、ということか。
人のことばかり気にしていて、それは実は余裕なんかではないのに、自分は大丈夫だと前提して物事を考えてしまう。
そういう条件反射のような思考回路が、自分はガスマスクをしていないという状況に焦りを感じさせなかったのだろうか。
「あの、セーレさん」
「なーにー?」
「そのマスク、外さないんですか?」
「ああ……これ、すっごく便利なのよ。瞳孔の開きを抑制してくれる効果とか通信もできるし、とにかく被っておけば余計なこと気にしなくていいしね」
「町に行けば、そういうのあります?」
「そうねえ……。これと同じものはないだろうけど、何か別のヘッドガードはあるわよ。まあ、君はその変な格好でトープしているくらいだから、後で色々おすすめ教えてあげる」
「トープって何ですか?」
「ダンジョン潜り、のことよ。常識でしょ」
そうだったのか。
僕は本当に、全然この世界の常識を知らないんだ。
トープ。
意味はダンジョン潜りで僕にも理解できることなのに、それが特別な用語に変わるだけで気分が高揚してくるのはなぜだろうか。
それに、新しい装備だ。
トープして手に入れたアイテムを使って自身を整えていく。
それはつまり働いて賃金を得ることと意味は変わらないのだろうけど、それでもやっぱりわくわくする。
「そういえば、お金ってどうすれば……」
「えー、なんか言った?」
「あ、いえ。僕、モンスターを倒した時に砂金みたいなのとか手に入れたんですけど、それで買い物ってできるんですよね?」
「できるわよ……って。君、買い物したことないの?」
「え、あ、え?いや、ま、まあ」
「……ねえ、君さ。なんであそこでトープしていたの?」
言われてみればそうだ。
僕はこの世界に急に落とされたわけだけど、ここにはもともと世界があったんだ。
トープすることが文化であるこの世界において、無知のままあんな危険な所にいるのはおかしいと思われて当然。
しかし、なぜと聞かれるとなぜか疚しいことをしているようなそんな追い詰められた気持ちになる。
「え、と。気付いたらあそこにいたんです」
「気付いたら? どういうことよそれ」
「マイクの男がいて、レジェンドアームズを作れと……」
「レジェンド? 何それ。わけわからないわね……」
それも当然。
僕だってわけがわからないのだから。
だが、僕はまた一つ知識を得た。
レジェンドアームズはこの世界でも聞き知られていないものだということだ。
じゃあ、一体レジェンドアームズは何のために作られる必要があるんだろう。
不安にも似た漠然とした疑問。
僕は、立て掛けた金属バットに目を落とした。
そして、今まで忘れていた大切なことを思い出したんだ。
「セ、セーレさん……」
「何でしょう?」
「あの、ちょっと停めてもらってもいいですかね?」
「なんでよ。どうしたの?」
「お、おしっこが。その、したいんです……」
は、恥ずかしい。
人の車に乗せられていると、尿意を伝えづらくなるのはなぜなのか。
試験中に手を上げてトイレに行く行為の重苦しさみたいな、そういう気まずさが僕を襲うんだ。
「おしっこ?何それ?」
嘘だろ。
そこまでこの世界と僕の世界で常識がズレているのか。
小便だぞ小便。
そこはいいだろう、どの世界も共通でいいだろう。
「えと、あの。おしっこというのはですね。排尿行為のことでして、膀胱に溜まった体内に不要なものを体外に排出する生理現象のことで。そのあ、あそこから水分を放出する……」
「へー。なんだかよくわからないけど、生理現象なのね。それってそこら辺でできるの?」
「でで、できます! ちょっと外に出てじゃーっとするだけですから!」
「えっ、そうなの? ってなんで君そんな状態になるわけ?」
「え、あ? さ、さあ?とと、とにかくお、お願いしますよ!」
「何なに? ……なんだかよくわからないけど、とにかくまずい状況なのね。オッケー」
そして僕は、セーレに失敬して停められたロードバムから飛び出した。
しかし、辺りは砂漠地帯。
隠れる所もないので、ロードバムを背にパンパンに膨れていた膀胱を開放する。
久し振りの開放感。
「あっぶなかったー」
安堵しいつもの様に、砂の上に溜まっていくそれに視線を落とすと、僕の心拍数は急上昇する。
「う、嘘だろ!」
これはまずい。
小便が濁っている、灰色に。
なんで僕の体からそんなものが出るんだ。
「びょ、病気……?」
ブルーグミを食べ過ぎたんだ、未知の食物で僕の体はおかしくなってしまったんだ。
まさかモンスター以外の理由で普通に死ぬかもしれない事になるなんて。
どこまでこの世界はリアルなんだ。
今、すぐそこにある死への恐怖といずれ来るとわかっている恐怖。
そのどちらが真に恐怖だといえるのか。
僕は、落ち込み、漏れ続けるため息を堪えられないままロードバムの中へと戻る。
「へいへいボーイ。スッキリしたかい?」
「え? あれ、セーレさん。おしっこ知らないって……」
「んなわけないっしょ! あはは。どう見てもギリギリっぽかったからちょっと焦らせてやったのよ。君何も知らないみたいだから、と思ったけど。まさかこんなに見事に騙されるなんてねー」
そう言って、僕をからかうようにケラケラ笑うセーレだが、今の僕はそんなことにまともなリアクションができない精神状態だ。
灰色の小便、一体何の病気なんだ。
こんな事なら家庭医学の本でも読んでおけば良かった。
「ねえ、ちょっと……。そんなに落ち込んで、どうしたのよ?漏れちゃったの?」
「僕、セーレさんのお手伝いができないかもしれません……」
「え?」
「その、おしっこが……灰色のおしっこが……」
「はあ? それがどうしたのよ」
「僕、ブルーグミを食べ過ぎて……」
「だから何言ってんのよ。小便が灰色って普通でしょ。きったないわね」
「え?」
「……君、本当に何者?鉄骨人類の尿が灰色なのは体組織の九割がカルシウムと鉄だからだって習わなかったの?」
「てっこつ?」
「……呆れた。随分若いからおかしいとは思っていたけど、君、何か違うわよね?」
鉄骨人類ってなんだよ。
僕は人間だ、その鉄骨とかっていうのじゃない。
何か違うってそりゃあそうだろうよ。
ここに来て急に彼女に対する不安が込み上げてくる。
「レジェンドアームズがどうのって言ってたけど、そんなの聞いたことないし。トープのことだって、君は何も知らなすぎる……。詳しく聞かせてもらえる?」
きちんと説明すれば、セーレが僕に抱く疑惑は解消されるのだろうか。
成り行きで、でもそれはとても自然に僕は彼女と一緒にいる。
そういうのを運命とでもいうのか。
運命なんて起きた出来事を理由なく捉えられない者のための理由、ただの熟語だ。
自分に起きる出来事、そういうあり得ることで絶対的なことに結果の理由なんて必要なのだろうか。
想像だにできること全てをまるでドミノ倒しのように結果は前の事柄の連鎖の終結だなんて思ってもいいのだろうか。
始まりと終わりが、同じ線で繋がっているなんて限らない。
だって僕は、列車とホームの隙間からこんなところまで落っこちたんだ。
因果もクソもあったもんじゃない。
じゃあ、なんで僕はここにいるのか。
避けられないことだった。
そういうことだと思えというのだろうか。
何が避けられなかったんだ。
太ったこと、列車で突き飛ばされたこと、ホームとの隙間に挟まってしまったこと。
一体どの時点で避けられない運命に陥ったというのか。
じゃあ、生まれた瞬間からこうなる運命だったのですね。
「へー。聞いてみたもののぜんっぜんわからないわ。……まず、君がわかっていないんだもの、わかるはずもないんだけど」
「はあ、すいません……」
「なんで謝るのよ。よくわからないけど、君は人間という種族で、平成という時代から来て、日本という場所に住んでいて、名前は忘れたと……名前は忘れたと」
「ほ、本当ですって。ちょっと前までは覚えていたような気はするんですけど……、どこからか急に忘れてしまって……」
「ふーん。まあ、そういうこともあるのね。にしても、そのバット。レジェンドアームズだっけ?それが一番気になるわ……。私はトランスポーターっていう仕事柄、レアアイテムなんかのことはそれなりに詳しいつもりだったけど、そんなの聞いたことも見たこともないんだもの。……私もまだまだねぇ」
セーレは僕の話を聞きながら、頭を指先でぽりぽり掻いている。
セーレに話しながら、僕自身も自分の身に起きた出来事を整理してみたが、やっぱりわけがわからなかった。
今更そんなことを考えても意味が無いのかもしれないけれど。
「で、その。僕はセーレさんから見て、鉄骨人類ってやつなんですか?」
「まあ、そうだけど。そんなに気になるなら自分の顔、見てごらんなさいよ」
セーレはそう言って鏡を投げてよこした。
白目が赤い目、鼻筋の通った唇の薄い、はっきりとした顔立ち。
よくよく見てみれば、肌は薄いグレーで、確かに言われてみれば幼いような雰囲気はあるが、そんなことはどうでもいい。
これは誰だ。
いや、僕だ。
そうなんだろう。
この世界は未知だ、見たことのないものもあるし、価値観も違うし。
でも、これは僕だろう?
なぜ、知らない人になっているんだ。
僕は、母ちゃんにどんな顔をして会いに行けばいいんだ。
これじゃあ、絶対に信じてもらえない。
垂れた瞼を素敵な笑顔に見えると言ってくれていた母、丸い頬をつねるのが好きだった父、僕の天然パーマを齧るのが好きだったゴン。
僕は、どうしてしまったんだ。