人生で初めて列車とホームの隙間に落ちました
朝、通勤ラッシュ。
空いていれば有能な移動手段も、今この状況ではとてもじゃないが動く牢獄というに相応しい。
そんなただでさえすし詰め状態の列車の中で、ぼくは人一倍スペースを多く占めている。
かといって別にぼくがその横暴な振る舞いで人より多くのスペースを使っているわけではないのだ。
なぜこうなってしまっているのか。その答えは、ぼくは人一倍食べることが好きで、いや、食べるのが好きというよりかは胃の中に食物を収めるのが好きで、塩気と甘みが大好物だということが原因だろう。
そのせいでぼくの体は平均的な日本人の体よりも一回り大きくさらに臭い、らしい。
らしいというのはぼく自身にその自覚がないということで、今隣に立っている金髪で短髪にピアスのチビが顔を渋くしかめて、狭い車内で無理矢理片手で鼻をつまみ、さらには顔を背けているからそうだと信じているわけだ。
無論、そんなこと信じるとか信じないとかそういう話ではないわけだが、本当に自覚がないのだから仕方ない。
なぜか。
それは、そばにいるぼくに対してこういう態度を取った人間は一人や二人ではなかったからだ。言ってみればデブなのだから、汗はよくかくし、その分臭いがするのは事実だろう。だがしかし、そんなことはぼくが高校生の頃に知った事実、つまり古い常識なのだ。
だからぼくは考えた。
どうすれば他人に不快だと思われずにいられるかを。
朝はきっと誰よりも一時間は早く起床、その後すぐに眠っている間に滲み出したであろうぼくの臭い脂を洗い流すためにシャワーを浴びる。必要以上の石鹸を使って。
そうしてシャワーを浴びたからには、当然汗をかくわけだが、ぼくの場合その滲みでた清潔なはずの汗まで臭い可能性がある。そこでぼくの部屋は目が覚める二時間前から設定温度を最低の状態で冷やされているのだ。だから風呂場から部屋に戻るとすぐ、ぼくの体はあっという間に冷え上がる。
もしここが実家だったら、まず間違いなく風邪をひくからやめろと母に言われるだろう。
だけどいいんだ。
デブだから、それでさえ嫌われる原因なのに汗と匂いではもう街を歩くことすら叶わなくなってしまう。
ぼくは誰の邪魔もしたくないし、あくまで無害な存在でいたいんだから。
そうして汗をかく間なく冷えていくぼくの体は、冷える間にも汗を絞り出し続ける。だからぼくはそれを何度も何度も拭いて、やっと汗が収まった頃にあの黒いボトルデザインが格好いい制汗剤を体の隅々に噴射するのだ。
脇も首周りも、それにたるんだ腹の裏側にも。
そこまですればさすがに、というか最早ぼくの体臭すら感じられないほどグレープフルーツのいい香りが部屋丸ごとに充満している。
そしてぼくはその香りごと包み込むように衣服に袖を通す。
家から出る前からもうすでにぼくはぼくでもその体臭がわからないほど量産された制汗剤の柑橘系の香りってやつでコーティングされているはずなんだ。
だからぼくにはぼくが臭いのかどうかという自覚が持てない。というわけだ。
それなのに、こうして満員電車に乗る毎日、ぼくは誰かに疎まれ嫌われる。
結局ぼくはそういう自尊心が強いやつというか、自分の正当性のために自分の価値観の中で劣ると判断できる他人を探してそれを貶し、優越感という方法で自尊心を愛でる。
ほんとつまらないやつらだ。
「おいデブ。くせえから息吐くなよ」
「あ……す、すいません」
なんでこう見た目で不良ぶっている輩は本当は弱いくせに調子に乗るのか。
実際、タイマンでやりあえば確実にぼくの方が強いはずだ。なにせ体格が違う。
それなのに、ここが公共の場でぼくから反撃されないからって相当強気になっていやがるようだ。
雑魚のくせに、だ。
どこからともなく湧き上がる悔しさ、それはきっとそれこそぼくの自尊心と弱き者を傷めつけるわけにはいかないという正義心との鬩ぎ合いだ。
ぼくはその崇高な葛藤を見せまいと少し俯くと、ちょうどぼくの正面に座っているやけに明るい茶髪の女がわざとらしく後頭部を見せて肩を震わせているのが目に入った。
(次はー……)
これもまたわざとらしい滑舌のアナウンスが聞こえた。
もう降りる時間だ。
そしてこの時ばかりはぼくがデブであることがあまり意味を成さない。
これまで貯めこまれていた人々という空間は、その容量に比べればとてつもなく小さな出口から一気に吐き出される。
俯瞰で見れば噴射されるスプレーのようにも見えるだろうが、実際その中で感じるのは心太の気持ちだ。
しかし、そうして圧迫された空間から開放されたものの、結局辺りはすれ違うのにぎりぎりなほどの人で溢れている。
デブでありながら常人と同等の扱いを受けられること、それは決して喜ばしいことではないのだ。
人一回りの大きさを誇るぼくの体で、エスカレーターの動かない側に並ぶことはエアリーディング的に許されていない。
だからぼくは、人一倍負担の掛かる膝を使って階段でホームを後にする。
それが嫌なら痩せればいい。
そんな意見、というよりかはくそったれなエゴをぶつけられたことはいくらでもある。
だけど、ぼくは言いたいのだ。
うるせえ黙ってろ、お前たちは自分の好きなことの代償が他人を優雅に生かすための気遣いであるべきだと言われてなっとくできるのか、と。
そうやってもっともらしいアドバイスめいたことを言いながら自分が気持ちよくなれるように他人を操ろうとする。それが所謂マインドコントロールだろうが。
人類は長い年月を経て何を学んだかといえば、それは天文学や物理、化学みたいな実生活上の文明の進化だけでなく、言葉を使って自身を優位に生活させる土壌を作るという他者愚弄のテクニックをも進歩させているらしい。
だからぼくは時々考えるんだ。
バベルの塔の崩壊で生じたのは言語の混乱ではなく、記憶に対しての忘却ではないのかと。
人類が揉める原因は言葉とか行動が原因なのではなく、自分のしたことを逐一覚えていられないことだと思うからだ。
間違いなく自分以外の人間と関わるという状況で自身の行動を忘れてしまうというのは致命的だろう。
だから水掛け論なんてことが起きるし、イタチごっこなんて言葉も残されている。
結局他人の言ったことと自分の言ったこと、起こされたことと起こしたことをそれぞれ見直したりできないから自分への正当性とかそういうことばかりに目がいく結果を生むんだ。
そりゃあ揉めるだろう。
だって皆が皆自分が間違っていることの指摘よりも正しいことの方を聞いて欲しいはずだから。
ほらみろ、ぼくはただのデブなんかじゃない。
そこらの無神経なデブとは大違いで、ちゃんと自分の自由と責任を理解しているんだ。
だからぼくは自分の無害性をもっと評価して欲しい。
駅舎から出た途端にぼくの体を圧迫する陽の光。
そうして押し付けられるほどにぼくの額や脇から汗が吹き出す。
見上げるビル、その中にぼくが務めている会社が入っている。
「お、おはようございます……」
当然、返事はない。いつものことだ。
しかし春先の今、ぼくには挨拶の返事を気にするよりもよっぽど重要な事があるのだ。
ぼくは自分のデスクに一直線に向かうと、真っ先に手に取った団扇で体を冷やすことに専念する。
これがとても心地良い。
「よう、太田君。今日もいい汗かいてるね」
「あ、あの課長……。太田じゃありません……」
「あれ? そうだったっけ。まあいいじゃない、見た目は真実よりも正しだよ。だってそっちの方が似合ってるんだもん、太田君さ。ほら、いちいち人に紛らわしいことさせたら悪いと思わないの? ね?」
「は、はあ……」
このハゲは痩せている。きっとそれだけの理由でぼくを「太田」とわざと間違え、自分を優位にみせたいんだ。ハゲ、てるくせに。
「ところで……。後で話あるから会議室ね」
「……はい」
言いたいことは大きく二つある。
まず、ぼくはお前が言いたいことがもうすでにわかっているからわざわざ朝一であることに気を使う必要はないということ。
そしてもう一つ、ぼくは太田じゃない。ガリガリハゲ課長。
時代遅れの茶色いカーディガンの背中に一瞥をくれてからぼくは目の前のノートパソコンを開く。
太田ではないぼくが「太田」になったのは、ある一人の生意気なキツネ目の年下新卒入社の先輩社員様のせいだ。
初めてここに派遣された時、当然ながらぼくは本名で自己紹介をしたわけだが、そのクソガキはぼくの本名を真っ向から否定したのだった。
「あー、なんつーか。細田っつーより太田じゃね? お前」
敬語でもないし、何の捻りもないクソみたいなアダ名だった。しかし、本来ならスベってもおかしくないそのくだらない零点のボケに辺りは大爆笑。
どうせ皆笑いたかったんだ。自分が気持ち良くなるためにぼくを。
それからぼくは「太田」になった。
ぼくは本名を呼ばれることもなく、ただ雑用だけを押し付けられていく毎日を送っている。
なぜぼくはこんな風に馬鹿にされなきゃいけないんだ。
太っている、痩せている。それがどうしたっていうんだ。
政治家だって皆デブだ。
ぼくは痩せていることで胸を張って生きている迷惑な奴らよりもよっぽど優しい行いをしてきている。
街頭募金にだって応じるし、コンビニの募金箱にだってお釣りをちゃんといれている。
何もしないで格好つけてるばかりの奴らよりもずっと、ずっとぼくは良い人間なのに。
なのにぼくは、なぜ。
「ちくしょう……」
幸福ではない人のため息、これにも幸せが含まれているのだろうか。
ありもしな幸せを無駄撃ちしながら幾つかの雑用をこなしたところで昼食を知らせるチャイムが鳴る。
まさに運命の鐘だ。
「……太田君。会議室ね」
「はい……」
再びダサいカーディガンの背を見送ってからぼくは席を立つ。
言われることはわかっているのに、それでも体の力が抜けていくのがわかる。
ぼくは残念なのだろうか。こんなクソ会社なのに。
こうして落ち込もうとする自分をぼくは無理矢理上向きにさせる必要がある。
こういう時に便利なのは極論ってやつだ。
金さえ稼いでいれば死ぬことはない。今が落ち目なだけ、だから頑張れぼく。
そういう考え方で自分を守りながら、ぼくは会議室の冷たいドアノブに手をかける。
「太田君。お疲れ様、今月いっぱいでお終いね」
ぼくが扉を開くなり、開口一番ハゲはそう言った。
「……はい。今までお世話になりました。残りの時間、精一杯やらせていただきます」
「はいはい。じゃ、後、会議あるから。そこちゃんと閉めてってね」
どうも。
扉を閉めた途端、どうしようもなく湧き上がる憂鬱感。
この感情は一体ぼくをどうしたいのかといつも思う。
ぼくの体で、ぼくの頭で考えていることなはずなのに、どうしてぼくを動けなくするようなことをするのか。できることなら記憶なんて全部失くしてしまいたい、この邪魔な感情が失くなるならぼくは全てを。
ぼくはこうしてなんども落ち込み、その度に俯こうとする頭を持ち上げてきた。
だからきっとぼくの首周りの筋肉は幸福な奴らよりもよっぽど太く鍛え上げられているはずだ。
まるで何事もなかったかのように振る舞いながらデスクに戻ると、あのクソ野郎がぼくの隣に椅子を滑らせてきた。
「ねえねえ太田っち。終わり? 今月でお疲れ様なの?」
「……はい、今までお世話になりました」
厭らしい笑みを浮かべながら、鬱陶しいくらいにぼくの肩を叩き続けるクソ野郎。
できることならこいつをぶっ飛ばしてから会社を去りたい。
「えー、マジ残念なんだけど……。ぶっちゃけ俺、太田っちのこと気に入ってたんだけどなー」
「あ、ありがとうございます」
「マジでー……。お前いなくなったら誰に雑用やらせりゃいいのよー。俺に振られたらお前どう責任取ってくれんのー? マジうぜえんだけどー。臭えんだけどっ……!」
そういい捨てたクソ野郎の最後の一発は拳だった。
臨界点ぎりぎりまでぼくの何かが込み上げている。
でも、それでもぼくはこの会社に残りたいと思っているんだ。
稼ぎ口を失うのが怖い、それだけの理由でぼくはこんなクソ野郎と同じ空気を吸いたいと願っている。
不安から逃げるため。
ぼくの大切なものは、ぼくがぼくであるということよりも稼ぎ口を失わないことの方が重要だと考えているんだろう。
なんだか脳に無視されているような気分だ。ぼくは世間にも、ぼくの体にも嫌われている。
こんなことならいっそ。そんなことはいつだって頭を過る。
人は、生まれた瞬間から持っている二つの選択肢。
生か死か。
片方を得れば片方が失われる極論でありながら、これだけが誰の意も介入できない純粋な選択だ。
生きていても辛いし、死ぬのは怖いなんてどちらもネガティブな意見もあるが、それはぼくたち人類が猿の頃から継承されている遺伝子の情報にすぎない。だってそれはぼくの意見じゃないから。
この選択が頭を過る時、ぼくはいつもどこか遠く、気温が十五度くらいの涼しめで天気が良くて水が美味しくて空気が綺麗なところへ行きたい、と考えている。
でもそれは、生きていくための希望としての発想ではなく、そこに行けば人生を悲観することなく気持ち良く死ぬことができるんじゃないかと思うからだ。
だが、いくらこうして美しいものに想像を膨らませたとて、現実とは今目の前にあるタイムカードである。
五時十三分、タイムカードを切る。
今日最後の仕事はなんだったのか、もう忘れてしまった。
「お先します。お疲れ様でした」
当然返ってこない挨拶の虚に会釈をしてぼくは会社を後にする。
全くもって無駄だと知りながら、それでもぼくは礼儀を行う。
そうすることで嫌われないようにという意識、そう信じたくはないが、きっとそうだ。
陽も落ちて、ぼくを締め付ける邪魔なものはない。
次の稼ぎ口のことを考えながらも帰宅を嬉しく思ってみたりしながら、どこへ寄ることもなく駅を目指す。
残業しない、余計に働くことができないことのメリットはラッシュに巻き込まれるのが一日一回ということだ。辺りを見渡しても、スーツの人々より私服の人の方が目立つ。
そんな朝よりもずっと人の少ないホームに立って電車を待つ。
しかし、到着した列車の中にぼくが座るスペースはない。
いつものように扉側に立って何気なく視線を送った窓に車内が映りこむ。
座ってくつろぐ大勢の人々、そして立っているぼく。なんだか椅子取りゲームに負けた感覚だ。
ただ席がないから立っているだけだというのに、情けないような、悔しいような、自分が惨めに思えて仕方ない。
動き出す列車は、明るいホームからすっかり暗くなった街の中へと景色を切り替えていく。
ネオンの看板が魚群のように目の前を過ぎ、巨大なビルの前を通り過ぎる時、外の景色に浮き上がるぼくの姿を見た。
半開きで閉じかかった瞼。ぶくぶくとして頬肉が垂れ、顎と首の境がついていない。さらには明らかに目につく汗ジミのついた襟、だらしなく撚れたネクタイ。
汚い顔、薄汚れた不細工な姿。何が認められたいだ。
こんな汚いもの、誰が快く受け止めるっていうんだ。
「うぜえんだよ……デブ……」
ぼくがこんな醜くなるなんて、きっと母ちゃんは思ってなかったはずだ。あんなに可愛がってくれたのに、あんなに愛されていたのに。
自分の姿を見ていると、溢れ出しそうになる涙を堪えるためにぼくは窓から顔を背けた。
振り向けばゲームの勝者、窓に映るのは恩恵を食い漁った醜いブス。
どこを見てもぼくはきっと納得できない、そう思ったから強く目を閉じた。
(次はー……)
アナウンスだ。
雑音の多いマイクを通して聞こえてくる妙に鼻につくこの声によってぼくは絶望的ネガティブ思考から引き上げられた。このこなれたわざとらしいアナウンスに救われる日がくるなんて全く思っていなかった。
降りる準備と下車後に買おうと決めていた晩飯の食材のことに考えを切り替えることでぼくはなんとか二つの選択の内選ぶべき一つを選ぶことができたわけだ。
ぼくが好きなことは胃の中に食物を収めること、そして塩気と甘みが大好物なんだ。
たまにはビールでも買ってみるというのもいいかもしれない。それにポテトチップスを買わなきゃならないだろう、あれこそ塩味お菓子の王様だ。それと甘いものだ、シュークリームもいいけれど、今日は敢えて普通の唐揚げではなく甘辛の唐揚げにして、デザートは小洒落たものに。
「うわっ!」
「邪魔だ、デブ。っせーんだよ!」
つんのめるぼくの脇を無理くり通り抜けていったのは、金髪で短髪にピアスのチビ。
態勢を立て直そうと体を起こした瞬間、絡まった足が体重を支えきれなくなり、ぼくは両足からホームのコンクリート手前、その十数センチの隙間に滑り込んでいった。
この光景が珍しいんだろう。
手に持っていたケータイで撮影を始める奴がいる、それを見て慌ててケータイを取り出す奴も指をさして笑うやつも。
なんで、なんで笑うんだ。なんで。
最早膝のあたりまで滑り込んでいたぼくの下半身をぼくの上半身の重さが押し込んでいく。
垂れた腹がホームに支えてめくれ上がるが、それでもぼくの体は落ちるのを止めない。
その時、腹の肉が引きちぎれるような感じたことのない痛みを感じた。
激痛。痛いなんてもんじゃない。
声も上げることができず、大口を開けて出もしない空の叫び声を上げた瞬間、周囲の好奇に満ちた目がぎょっとした驚愕の目に変わり、嘲笑のざわめきが違うものへと変わった。
痛みに目が開けられない。
ぼくの体はどうなっているんだ、もがく度にぼくの体は隙間へとずり落ちていく。
そしてぼくは、列車とホームの隙間に落ちた。