第六話
五十嵐弥太郎が出てきた。あかねの父親であり、この国を支える貿易商の当主だ。
「あかね、今日は大事な用があるから早く帰ってきなさいと言ったはずだ。あと、着替えてきなさい。――部長殿、仕事の件ですが……」
弥太郎はあかねを一瞥して、稲垣と話し出した。
あかねは頷いて女中と一緒に部屋に言った。そのとき彼女は名残惜しそうに涼介の顔を見た。それに気づいた彼はうっとうしそうにしっしっと手を振った。
あかねはふくれっ面をして、行ってしまった。
ここで涼介は息を吐き、壁にもたれて部屋を眺めた。
弥太郎の姿が目に入った。稲垣と話し込んでいる。
涼介は弥太郎から目を離し、ふと自問した。
――何故助けた?
自分の性格は十分に知っている。気分屋だが、自分の利益にならないのならば何もしない。刀も振らない。行動もおこさない。
だが今日は、身体が勝手に動いた。他人のために。
そして、他人のために剣を振るったのは初めてかもしれない。
彼の頭の中に、村上の言葉がよぎる。
――これが、他人のために剣を振るうということなのか?
「ふぅ……」
ここまで考えて息を吐いた。
「こんなこと考えて何にもなんねぇな……」
「何考えてるの?」
突然声をかけられ、目を見開いた。見ると相変わらず華やかな袴姿をしているあかねがそこにいた。
「……なんだよ、アンタか。ん?」
涼介がまじまじとあかねを眺めた。
「な、なによ……」
あかねは涼介の視線に戸惑い、恥ずかしくて頬を赤らめた。
「着替えてたのか……」
「着替えたわよ。わからない?」
あかねは少しはにかみながら、体を左右に振った。なにか言葉を期待するかのように涼介を見た。
「馬子にも衣装ってヤツだな」
「はぁ――!?」
あかねの絶叫を尻目に頷く涼介。
「なんでそんなこと言うの!?」
少しでも期待した自分がバカだった。あかねは柳眉を逆立てて、涼介を問い詰める。
「なんだよ、うるせぇな。ほら、あっちも話が終わったから行くぞ」
涼介は稲垣たちのほうを見て言った。
「それではくわしくはこちらで……」
「わかりました。……よし、行くぞ」
稲垣が頷き、部下を促す。弥太郎が指した部屋は応接室のようだ。
「桜井、お前も来い!」
「へいへい」
稲垣に答え、歩きだした。
「ねぇ、仕事ってなぁに?」
あかねは袖を引っぱった。
「また袖を……。仕事はアンタに関係な……。いや、待てよ」
「え? わたしがなんて?」
あかねはわくわくしながら聞いてくる。
「いや関係ないな。うん」
遼介は独りごちた。
「なに? 聞こえないんだけど……」
「うるさい。さっさと歩け、バカ」
「なによそれ!?」
あかねはふくれっ面をして罵った。
「この鬼! 悪魔! 変態!!」
「なんだと!? 斬り刻むぞ!!」
「やってみなさいよ!!」
涼介とあかねが馬鹿みたいに問答を繰り返し、顔をつきあわせていると。
「桜井、貴様!」
「あかね………」
稲垣と弥太郎が声を上げた。前者は怒りに顔を真っ赤にし、後者は頭痛をおさえるように頭を抱えている。
「桜井! 貴様は護衛としての職務を果たしたらそれでいいのだ。よりにもよって貴様は……。自分の立場がわかっているのか!?」
稲垣の怒鳴り声がまた屋敷中に広がった。涼介は変わらずうっとうしそうな顔をしている。
そして、あかねはある単語を聞き逃さなかった。涼介がどのような仕事でここに来たのか、わかってしまった。
あかねはこの機会を逃さない。稲垣に訊ねた。
「あの、護衛ってなんですか?」
稲垣はその質問に固まってしまった。露骨に、しまった、という表情をした。
「あっ、それはですな……。とにかく貴女もこちらに。桜井も来い」
嘘はつけない人らしい。
「わかってる」
稲垣は早足と行ってしまい、思案顔のあかねに涼介がささやいた。
「もうばらしてもいいだろう。アンタの親父が頼みに来たんだよ。アンタの護衛をな。世の中物騒だろ? 娘思いだとは思うが、過保護過ぎるとも俺は思う。正直な話な」
涼介は歩きながら説明した。あかねは後ろで返事した。
「ふぅ~ん」
「なんだよ、その反応」
「別に……。それで誰が担当?」
「今の話聞いてりゃあわかるだろ?」
「えっ? あなたがするの?」
「あぁ。多分な」
涼介は生返事で返し振り向くと、あかねはにんまりと笑っていた。彼はそれに眉をひそめた。
「なに笑ってんだよ」
「わたし笑ってる?」
涼介は嘆息した。
「思いっきりな……」
あかねは顔を赤くした。
「桜井。早くせんか!」
稲垣の怒鳴り声に遼介は肩をすくめ、そそくさと応接室に入って行ってしまった。あかねもそれを追った。
応接室は調度品が少なく、質素に感じられた。部屋の中央に机があり奥の椅子に弥太郎が腰かけ、その右側の長椅子に稲垣が座っている。あと五人の部下は稲垣の後ろで立っている。
あかねは稲垣の向かいの長椅子に座り、涼介を見上げた。
涼介は遠慮もなしに手前にあった椅子に座り、足を組んだ。なぜかあかねはため息を吐く。机を挟んで弥太郎と面と向かった状態である。弥太郎は涼介の行動に顔をしかめた。
「それでは、弥太郎殿」
場の空気が険悪と察したのか、稲垣が話を始めた。
「貴殿の御息女の警護は、彼にしていただこうかと思います」
稲垣は涼介を指し示す。涼介は何の感慨もなさそうに静かに弥太郎を見つめた。視界の端であかねが目を輝かせているのに気になったが。
「やはり、そうですか……」
見つめられた弥太郎は呟いた。その顔は引きつっている。彼の目線は涼介の左腰にあった。
あかねはここでやっと事の次第に気がつき、自分の父親に目を向けた。
顔が青い弥太郎は稲垣に告げた。
「部長殿、申し訳ない。別の方にお願いしたい」
「えっ」
稲垣は声を上げた。
「し、しかし……生憎人手が足らないもので彼しか……」
「そこをなんとかせめて、あの方々から…」
弥太郎は稲垣の後ろにいた五人を指した。稲垣は慌てて、後ろの部下たちを見た。彼は訝しく思った。何故、彼らに任じさせるのか。別に桜井でもいいのではないか?
「部長。アンタ、馬鹿か」
稲垣は涼介を睨んだ。涼介は相変わらず椅子にふんぞりかえっている。
「今の問答で気づけよ。今回は政府官僚の人間からの仕事依頼じゃないんだ。俺を見て納得できるのはそいつら――維新志士だけだ。けれど今は、一財閥で商人の、ただの一般人だ。だから、俺を見て不愉快に思うのは当然だと思うが……」
涼介は頬杖をつき半目で稲垣と弥太郎を眺めた。彼の顔は青ざめている。
「でも、今のは聞き捨てならないなぁ」
涼介は挑発的な笑みを浮かべ、弥太郎に向かって続けた。
「俺が受け入れられず、こいつらに頼むのかよ。ふざけんなよ」
彼は稲垣の後ろにいる部下を指差す。彼の目はだんだんと見下しているそれになり、声が低くなっていく。
「こいつらもサーベルや鉄砲持ってんのに、俺みたいな刀持ちだけを否定すんのか、えぇ?」
「……」
弥太郎の顔は険しくなる。
「桜井、もうやめろ」
「刑事さん……」
稲垣は涼介を制した。あかねは不安そうに涼介と弥太郎を見つめる。
「侍など滅べばいい……!!」
弥太郎は吐き棄てるように言った。この場にいる全員が息を呑んだ。
「貴様みたいな輩を娘の側に置ける訳がなかろう! 外道が!!」
涼介を指差し、叫んだ。彼はそれを意に介さず、受け止める。
あかねは膝の上で拳をつくっている。彼女は父親に向き合い、無駄だと思いながら聞いてみた。
「お父さん、何でこの人はダメなの?」
「あかね、黙ってなさい」
弥太郎はぴしゃりと言い放った。負けじとあかねは言い返した。
「でも、刑事さんはわたしを助けてくれたんだよ」
「助けただと!? 何が目的だ!」
弥太郎の顔が驚愕で歪み、涼介を睨んだ。
涼介は深くため息を吐く。
「別に。俺は気分屋だからな。報酬が欲しいと思って助けた訳じゃないし、そもそもコイツを助けたとは思ってねぇ」
「えっ!」
あかねは声を上げて振り返った。
「なんだよ……」
「誠心誠意で助けてくれたんじゃないの?」
「ハッ! なんでアンタをそんな理由で助けなくちゃいけねぇんだよ。俺が刀を振るうときは自分の利益になるときだけだ」
涼介は鼻で笑った。あかねは落胆している。そんなことどうでもいいかのように涼介は彼女から目を離し、弥太郎と向き合った。
「しかし、アンタの刀嫌いはどうしようもねぇな。正直ここまでとは思っても見なかったよ」
涼介は含み笑いを浮かべながら言った。
侍という存在を根本的から否定するのは、理屈でどうこうという問題ではないくらい涼介にはわかっている。それは弥太郎にとって一生、忌み嫌うものかもしれない。なぜなら、彼の大切なモノ、つまり最愛の妻を失ったのだから。もちろん、遼介に彼の妻がどのような死を遂げたかなど知ったことではないが、その目で妻の死を見届けたのならなおさらのこと、彼にとっては大きな傷となっている。これを簡単に払拭などできはしないのだから。
「出て行ってくれ」
弥太郎は冷たい視線が涼介を貫く。彼はその視線を真っ直ぐ受け止めた。
「あぁ。わかった」
涼介は立ち上がった。あかねは声を上げた。
「待ってよ!」
「あぁ? なんだよ」
涼介は立ち止まり、凄みがある眼差しであかねを睨んだ。
それだけであかねは足がすくんでしまう。何か言わないと彼が出て行ってしまう。だけど、何を伝えていいかわからず、その場で立ち尽くしうつむいてしまった。
すると、弥太郎が後ろから言った。
「あかね。こちらに来なさい」
だが、あかねは動かない。
「何をしている? このような男は私利私欲で動いている碌でもない輩だ。早くこちらに来なさい」
あかねは目を見開いた。
その言葉に彼女の感情が爆発した。
「なんで、そんなこと言うの……?」
声が震えている。
「あかね……?」
「…………」
弥太郎はあかねの声色が急に低くなったことに驚いた。涼介は相変わらず無表情のまま黙っている。
「お父さんはわたしの言うことが信じられないの? 刑事さんが碌でもない人? そんなこと言わないでよ!」
あかねは声を張り上げた。全員は突然の発言に茫然としている。
あかねは続けた。自分の父親に向かって。
「刑事さんはわたしを助けてくれた。だから、私利私欲で動いている訳がない! 絶対……。刀を持っている人が全員悪い人だなんて思わないで……。お父さん、この人を外見だけで、判断しないで……」
懇願するように言い募った。それを見ている弥太郎はたじろぎ、娘を人と思えないような目つきをしていた。
「お父さん、お願い………」
彼女は頭を下げた。唇を噛み締める。目尻に涙が浮かんだ。
「あかね」