第三話
桜井遼介は河川敷を歩いていた。左手の川は陽光を浴びてきらきらと輝き、右手には美しく咲く桜が風に吹かれひらひら散っていく。彼はそれを見て微笑んだかのように見えた。しかし顔を背けて、暗い目をして小走りで歩いていく。
「柄じゃない……、なんで」
などと呟く。だからか、うしろからの気配に気付けなかった。
突然、涼介の背中に何かがぶつかった。
「はうっ!」
素っ頓狂な声を上げて、彼は頭から落ちた。
「痛ぇ……、テメェどこ向いて歩いてんだ!」
涼介はうつぶせになりながら、顔を後ろに向けた。
すると、上から大きく高い声が聞こえた。
「お願い。助けて!!」
見ると年端もいかない娘がこちらを見下ろしていた。ぶつかった拍子に鼻の先が赤く涙目になっている。
「…………」
涼介は地べたに座った状態だ。対応に困った。正直、今自分を見下ろしている娘をどうすればいいのかわからない。
「ねぇ、聞いてるの? か弱き乙女が追われているの。男なら助けよ!」
娘は涼介の胸倉を掴んで金切り声で訴えてきた。
「いやおかしいだろ。まずはあやま――」
娘は涼介を揺さぶる。彼の声は届かず、彼女の高い声にかき消される。
「待ちやがれ! オイ、五十嵐のガキをこっちによこせ!!」
ヤクザものの男が二人、短刀を抜きながら涼介に吠える。
――なんだ、コイツら……?
涼介は訝しく彼らを見上げた。それから、いつのまにか涼介の後ろにいる娘を見た。彼女は目をうるうるさせている。「助けろ」という想いが強く感じられた。
涼介はそれを見て顔を思いっきりしかめた。
「たく……」
涼介は立ち上がって襟を正し、制服の砂埃をはたく。
「オイ、聞いてんのか?」
男が一人彼に訊ねる。それを無視して涼介はふと考えた。
――助けるってどうすんだ?
「死にてぇのか! テメェは!!」
痺れを切らした男が短刀を構えて、躍りかかった。
一瞬。
その一瞬で抜き放たれた刀の一閃が美しく孤をえがく。
短刀は涼介の脇腹手前で止まる。そして、男の首筋には陽光で鋭く輝きを放つ一振りの刀があった。
「ひい~っ」
男は悲鳴を上げ、地面に尻をついた。完全に腰が抜けてしまった。
「消えろ」
涼介の目は冷酷めいて輝いた。その一言で男たちの行動は決まってしまった。
「くそ、覚えてやがれ!」
もう一人が捨て台詞を吐き、仲間に肩を貸して逃げて行った。
涼介はそれが視界から消えるまで睨み続けた。視界からいなくなると、涼介は苛立ったように毒づいた。
「くそっ。無駄な労力使っちまったじゃねーかよ」
落ちていた短刀を見やり、刀を鞘におさめた。
振り向くと。
「なんだ。まだいたのかよ」
娘が今にも泣きそうな顔をして地面に座っている。涼介は彼女を蔑むように眺めた。
「お、起こしてよ」
娘が口を開いた。
「あ?」
「さ、さっきあなたのせいで腰が……、だから起こして!!」
彼女は顔を真っ赤にして、声を張り上げた。
「うるせぇな。いばれる立場かよ、ほら……」
涼介は手をのばした。しかし、途中で止めた。
「ねぇ。手貸してくれるんじゃないの?」
娘は咎めるような目つきで、こちらを見上げている。
「いや、なんだ……その」
「いいから、貸してよっ」
「おい……っ!」
彼女は涼介の手を引っ張って立ち上がった。
「ありがとう」
満面の笑みでそう言う彼女に涼介は茫然とした。そして、我に返ったように彼女から目を離す。
「……面倒ごとは勘弁してくれ」
涼介はがしがし髪を掻きながら、娘の恰好を見た。
つややかな黒髪をリボンで結び、大きく潤んだ漆黒の瞳に、今は土埃に汚れているが、ピンクとオレンジの格子縞の華やかな着物に袴姿をしている。見た目はどこかの令嬢だろうがそうには見えない。どこかぬけている気がする。
その娘は涼介を見つめて、何か言おうとした。
「あ、あの――っ」
「謝れ」
が、涼介の鋭い声が降る。
娘はびっくりして目を瞬いた。その表情に涼介の苛立ちは頂点に達した。
「オイ、俺にぶつかってきただろうが!」
娘はヒッと小さく叫び、首を縮める。
「いや、さっきは夢中で走ってて、その……」
涼介の顔がグッと落ちてきた。彼女は泣きそうで、また腰が砕けそうだ。
「言い訳はナシだ。さっさと、あ や ま れ」
涼介はドスのきいた低い声で言った。
「ご、ごめんなさい……」
娘はうつむきか細い声で答えた。
涼介はフンと鼻を鳴らし、娘の横を過ぎて行こうとしたとき。
「待って」
娘が涼介の制服の袖を引っぱった。
「なにすんだ、バカ」
涼介は悪態を吐き、振り返った。
「ねぇ、何で助けてくれたの?」
彼女の大きく丸い漆黒の瞳が彼を見上げた。その目はだんだん涼介の左腰に行きつく。
「なんでって……」
涼介は後頭部をがしがし掻きながら答えた。
「俺は一応警官だからな」
「刑事さん……?」
娘がきょとんとしていると、涼介は薄く笑った。
「こんなの下げていたら信じられねぇか」
涼介は刀の柄頭を叩いた。
「そんなことないよ」
声に涼介は顔を上げた。見ると、娘は明るく笑っていた。
「だって、それを持っている人がみんな悪い人ってわけじゃないもん。それにあなたはわたしを助けてくれたんだから、あなたは良い人よ」
涼介は驚いた。自分を一目見て、単純に『良い人』なんか言う人はいなかった。自然と笑いがこぼれた。それを見た娘は顔を赤くした。
「な、なにかおかしかった?」
「いや、なんでもねぇ」
涼介は否定するが口の端が緩んでいる。
娘は訝しく彼を見ていた。
「ねぇ、助けてくれたお礼に家に招待してあげる。わたしは五十嵐あかね。よろしくね、刑事さん」
娘――あかねが手をのばした。
桜井の眉がぴくりと動く。
「五十嵐か……。でもいいのか、俺みたいなヤツが?」
「大丈夫だと思うけど……」
あかねは一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑って。
「うん。大丈夫、ついて来て!」
あかねが涼介の手を握った。そのとき、彼は固まった。だが彼女は気づかず彼を引っぱって行く。
「オイオイ、ちょっと待てよ……」
涼介が呆れながらもあかねについていく。
春風に吹かれ、走るあかねの黒髪がふわっと舞う。
その後ろでついていく涼介の刀が鍔鳴りをした。