第一話
朝早く、警視庁の前に一人の男の姿があった。詰襟の、警察の制服を着て腰には刀が下げられている。桜井涼介だ。
先刻、士族たちを駆除して数時間しか経っていない。彼はあくびをかみ殺し正面玄関から中に入った。
右側に受付があるが、誰もいない。まだ、朝の六時だ。
涼介は真っ直ぐ前を向いて正面の階段を上がり、一目散にある部屋に向かう。
「はぁ……」
一つのドアの前で足を止め、彼は大きくため息を吐いた。これから憂鬱だ。面倒臭い。だが行かねばもっと面倒臭くなる。
ぞんざいにノックして返事をまたずに室内に入る。
簡素な部屋だ。隅には服掛け、本棚。調度品もぼちぼち。部屋の中央には来賓用の机と長椅子がある。奥の窓を背にして大きな机に中年の男が座っていた。
涼介が着ている制服よりも上等そうなそれを着て、頑固そうな顔に口髭を生やしている。いかにも頭が固く、融通が利かなそうな人だ。彼は眉間のしわを寄せてぼやいた。
「声くらいかけろ。桜井」
「別にいいだろ、長い付き合いだ」
涼介はドアを閉めながら答えた。
「……お前は私が上司だということを忘れているだろ」
「へぇ。俺はアンタの部下だったのか」
「ええい、もういい……」
彼――稲垣は頭を抱えた。
稲垣は元維新志士である。現在の役職は警視庁の幹部だ。
涼介とは幕末以来の付き合いで、彼を警察に誘った本人である。だが、いつも涼介の言動に振り回され苦労が堪えない。そのせいか、最近髪が薄くなってきたのが気になる。
「んで、なんの用だ?」
涼介は眠たそうな顔をして稲垣に訊ねた。彼は椅子に腰かけ、足を机に投げ出す。
「ああ、そうだった」
涼介に何を言っても無駄なのは昔から知っている。だから、稲垣は話を進めた。
「実は頼みたいことが……」
「あっ。その前に一つ」
涼介は稲垣の声を遮った。彼は顔をしかめる。
「なんだ?」
「昨夜の殺しの話はナシで……」
涼介の言葉に稲垣は立ち上がった。稲垣は今まで忘れていたことを思い出した。彼の顔はどう考えても怒っている。声を荒らげて叫んだ。
「お前! 全員始末したそうだな!! よくも……!」
「うるせぇよ。朝から」
涼介はうっとうしそうに耳に指を突っ込んだ。
「ふざけるな! 殺人は罪だ。今は昔と違うぞ!」
「はいはい」
「お前、聞いているのか!?」
「聞いてるよ」
涼介は耳をほじくりながら答えた。稲垣はがっくりと肩を落とした。
――こいつは全然変わらんな……。
彼は嘆息した。
十年以上の付き合いだが涼介は何も変わらない。いつも研ぎ澄まされた刃のようにぎらぎらしている。それが稲垣にとって悲しくも思えた。
そんなことを考えていると、涼介がこんな事を言い出した。
「だいたいアンタがもっと早く来ないのがいけない」
稲垣はがばっと顔を上げた。
「貴様ッ! 責任転嫁する気か!?」
「今度から気をつける。わかったから本題に入ってくれ」
「ぐっ……」
まだ言いたいことは山ほどあるが、もういい。こいつを相手にしていたら胃に穴が開きそうだ。身体が持たん……。
稲垣は息を整えた。
「次の仕事だ」
彼は座りなおし、引き出しから書類を取りだした。そのとき涼介は片眉を上げた。
「午後にはここに来い」
書類を手渡す。
涼介は受け取ると、顔をしかめた。
「オイオイ、これは俺の分野じゃないぜ」
それは依頼人からの手紙、護衛の頼みだった。別に護衛の仕事はしている。しかし涼介がいつも受けるのは政治家の警護だ。しかし、今手渡された書類の依頼人はただの貿易商の名前だった。
「仕事に文句を言うな。今のお前は警察官だ」
涼介は不服そうに頭をがしがし掻いた。
「やってくれるな?」
稲垣は脅迫じみた声で促した。
涼介はじっと彼を見つめた。稲垣は厳しい顔をしていたが口元は笑っていた。
「俺に拒否権はないんだろ……」
はぁ、とため息を吐いた。