序章
「終わった」
男は呟いた。
現在、箱館山の山頂には菊章の大きな旗が掲げられ、新政府軍は鬨の声を上げている。
男は箱館山から五稜郭を見下ろしていた。
あたりには幾条もの煙がたなびいて、すけた臭いが立ちこもっている。
明治二年五月十八日。
五稜郭は開城された。旧幕府勢力が武装解除し、無条件降伏に応じたのだ。
慶応三年十月十四日。徳川慶喜は政権を朝廷に返上。翌年、一月三日。この大政奉還に不満を抱く旧幕府勢力が、新政府に対して兵を挙げた。後に言う鳥羽伏見の戦いから、一年と四カ月。
やっと、戦争が終わったのだ。
「終わったのか……」
男はもう一度呟いた。今度は口惜しそうな声だった。
そう、口惜しいのだ。現に、元新選組副長土方歳三と剣を交えたかったが、それは叶わなかった。聞くところによると彼は戦死したそうだ。
――いや違う。
こんなことは些細なことだ。
彼の心の中を埋め尽くしているのは、別の思いだ。
今、幕末という動乱が終結した。明治という新しい時代がやって来る。平和な世の中なのだろう。
ならば、その平和な時代に戦いはない。剣を振るう必要もなくなる。新時代には、自分みたいな剣客は必要ないのだ。
――そうなるのならば……
俺は、これからどうやって生きていけばいい?
剣を振るうことしか能がない自分はどうすればいいのだ?
これから、俺は――
そんなことを考えながら、彼は青く輝く空を見上げた。
そして。
時は流れ。
明治十一年。四月。
東京――。
政府官僚の屋敷が建ち並ぶ通りの路地裏に男が四人潜んでいた。刀、槍、それぞれ己の得物を携えている。先頭にいる男が他の男たちを見回し、言った。
「これから田村莞爾を討ち取るぞ……」
「おう!」
男たちは一斉に頷く。
彼らは士族だ。十年前まで徳川幕府に仕えていた武士である。現在、士族の居場所はなくなっている。さまざまな特権が廃止され、没落する士族が増える中、彼らのように明治政府に反発を持っている者も少なくないのだ。
田村莞爾はいつもこの道を馬車で抜け、家路につく。男たちはそれを待ち伏せているのだ。
「来たぞ……!」
先頭の男が小さく声を上げた。それを合図に男たちは刀を抜き放った。それがぎらりと月光に反射する。彼らは布で口まで覆った。
二頭馬車が音を立ててこちらに向かってくる。
「よし、行くぞ! 続けッ!」
そう高らかに告げ、路地裏から飛び出した。
「東京士族、石川亀蔵!」
「同じく、鶴谷勘吉! 奸賊、田村。覚悟!!」
馬が嘶き、前足を上げる。馭者は慌てて手綱を引いた。
「まずは馭者をやれ!」
「おう!!」
そう言って、槍を持った男が馭者に向かって槍を突き出した。
馭者の左胸に必中したと確信した。
しかし――。
男の槍は、馭者の持つ棒状の何かに阻まれた。
「なっ!?」
槍の男は瞠目する。その瞬間に馭者は一息で棒――いや、刀を抜き放つ。そして男の顔に突き刺した。
声も上げられず、男は絶命した。
「な、なんだ!?」
ほかの男たちは目を剥いた。
「き、貴様! 何者だッ!」
動揺する彼らを馭者は睥睨し、嗤った。
「警官だよ」
馭者――桜井涼介は駆けた。
彼は御者台から飛び降り、瞬く間に男たちに肉迫する。そして眼前の男の頭を斜めに斬り裂いた。
「なっ!?」
涼介は続けざまに返す刀で二人目を斬り伏せた。
「この野郎!」
一人が彼の頭目掛けて刀を突き出した。しかし、刺突の先にいたはずの標的が消える――否、消えたと錯覚させるほど深く身体を沈ませていた。涼介はほとんど這うように近い体勢から肉体を跳ね上げ、刀を逆袈裟に斬り上げた。
「ぐああぁ――っ!!」
男は苦痛の叫びとともに血飛沫があがる。
あと一人。
すぐさま刀を振り下ろした。
「クソッ」
男は毒づき、刀で受け止めた。刀身がぶつかり甲高い音が闇夜に響いた。
涼介の刀にはべっとりと血がついている。
「うぐ……っ」
ごくり、と男は唾を飲み込んだ。
男は押されつつも必死に拮抗した。しかし、涼介に腹を蹴り飛ばされる。
「がっ」
吹き飛ばされ、煉瓦の壁に頭を打ちつける。その拍子で得物を落とした。男は咳きこみ顔を上げた。
血塗れになった涼介は蔑んだ目で男を見下ろしていた。その目にはまったく感情がなく無慈悲に輝いている。それはまさに――。
「……鬼」
男の呟きに、涼介は口元を吊り上げた。
「いいね。その『鬼』ってヤツ。気に入った」
男は殺される覚悟をして質問した。
「おまえ……警官とか言ったな?」
「それがどうした?」
ついさっき政府と新聞社に斬奸状を送ったばかりだ。これほどまでに追手が早いとは思わなかった。
「鼻の利く鬼だな……」
男は感心したように言った。
「しかし、何故それを持っている?」
男は涼介の刀に目を向けた。一般人の帯刀は法で禁じられている。政府の者――軍人や警察官は許可されているが、それでもサーベルを佩いているのが普通だ。
維新が起こり十一年。そんな時代に、刀を下げている者など新政府に不満を持っている輩だけ。
「なんだよ。持ってちゃ悪いのか」
「政府の犬でありながら、武士の魂は捨てられないのか?」
男は鼻で笑い、吐き捨てた。
「遺言は、それでいいのか?」
涼介の冷徹な目に男は息を飲んだ。
「おしゃべりは終わりだ。さぁ、仲間のところに送ってやる」
彼は刀を振り下ろした。
「さすが、稲垣の部下だ!」
しばらくすると、田村莞爾が悠々と馬に乗って現れた。
ウィングカラーにネクタイ。上等そうなスーツに身を包んだ中年男性だ。元維新志士の田村は現在、内務省の人間だ。
涼介は首を向ける。
「幕末の頃、噂には聞いていたがこれほどとは……。腕は鈍っていないのだな」
嬉々とした様子で喋る田村に、涼介は無関心そうに答えた。
「どうも」
彼の返答に田村も興味がないのか、死体に向けて吐き捨てた。
「まったく。何もわかってない侍共だ。我々がいるからこその明治の泰安だ。これもわからんとは……屑にも劣るな」
「旦那様、そろそろ……」
後ろから秘書が耳打ちした。
「ん、そうだな。君、稲垣によろしく伝えといてくれ」
田村は軽く会釈して去って行った。
「ふぅ……」
涼介は田村の姿が見えなくなると息を吐き、刀をおさめた。
あたりは死体と血の海。それを一通り、目を通してから誰に言うでもなく呟いた。
「帰るか」
血塗れの外套を脱ぎ捨て、涼介は闇に消えた。