第5話「旅路の剣と、城門の銀」
出発の朝は、やけに早く来た。
夜明け前から屋敷が動いていた。馬の準備をする厩舎の音、荷物を運ぶ使用人たちの足音、厨房から漂ってくる焼きたてのパンの匂い。俺は夜が明ける前に起きて、書斎で最後の荷物を確認していた。
地図。王都の貴族名簿。宰相府への返書。それから——前世の記憶から書き起こした、王都での立ち回りのための覚書。紙に書いたものは旅の途中で燃やす。頭に入れてしまえばいい。
「アシュくん、もう起きてた?」
扉を叩かずに入ってくるのはエリーゼだけだ。
騎士用の旅装に身を包んでいる。動きやすさを優先した作りだが、それでも隠しきれないものは隠せない。腰に剣を差した姿は凛としていて、それでいて朝の光の中でどこか輝いて見えた。
「準備できてるか」
「もちろん。アシュくんこそ、ちゃんと寝た?」
「少し」
「少し、ね」
エリーゼは苦笑して、俺の手元の覚書に目を落とした。
「……全部頭に入ってるんでしょ、どうせ」
「大体は」
「ほんとにもう」
呆れた顔をしながらも、エリーゼは俺の隣に来て荷物の最終確認を手伝い始めた。何も言わずに動いてくれる。こういうところが、エリーゼという人間の本質だと思う。
しばらくして、ゴードンが扉口から告げた。
「馬の準備が整いました、アシュレイ様」
俺は覚書を暖炉の火にくべた。
紙が燃えて、灰になった。
「行くか」
「うん」
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玄関前に出ると、父が立っていた。
いつもの無表情だが、今日は少し違う空気がある。
俺が近づくと、父は短く言った。
「気をつけて行け」
それだけだった。
俺も短く返した。
「行ってきます」
父は頷いた。それ以上何も言わなかった。
言葉が少ない分だけ、重かった。
馬に乗り、屋敷の門を出る。
振り返ると、父がまだ玄関に立っていた。見送っている。あの父が。
(帰ってきたとき、少しくらい変わって見せないとな)
前を向いた。
王都まで、十日の道のりだ。
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旅の序盤は穏やかだった。
ヴァルナー領を抜けると、街道は徐々に整備されていく。辺境特有の荒れた道から、石畳の敷かれた王道へ。すれ違う旅人の数も増えていく。それだけで、王都という場所の規模が伝わってきた。
「ねえアシュくん、あれ何?」
エリーゼが馬上から指差した先に、見慣れない大きな農場があった。魔法で温度管理された温室らしく、真夏にもかかわらず中で様々な作物が育っている。
「魔法農業だ。魔力を使って気候を制御して通年栽培できる。うちの領地にも導入したい技術の一つだ」
「へえ……アシュくんってそういうとこまで見てるんだね」
「見とかないと困る」
「王都に行くのに領地のこと考えてるの、アシュくんらしいな」
エリーゼはくすくすと笑った。
馬上で揺れるたびに、蜂蜜色の髪が風に流れる。旅装越しでも伝わってくる豊かな体のラインが、馬の動きに合わせてゆるやかに揺れていた。
(……前を向いていよう)
俺は意識して視線を街道に戻した。
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三日目の夜、街道を外れた林の中で野宿をした。
宿場町まであと半日の距離だったが、日が落ちるのが予想より早く、無理に進むより安全な場所で夜を明かす方が賢明だと判断した。
焚き火を起こして、干し肉と固パンの夕食を済ませた。
エリーゼは見張りを買って出た。
「アシュくんは寝て。私が起きてる」
「交代する」
「いい。護衛の仕事だから」
有無を言わせない目だった。
俺は毛布を引き寄せて、目を閉じた。
どのくらい経ったか。
「——来る」
エリーゼの声で、目が覚めた。
低く、静かな声だった。普段と全く違う、戦場に立つ人間の声だ。俺が起き上がるより早く、エリーゼはすでに剣を抜いていた。
暗闇の中に、複数の目が光っていた。
緑色の、ぎらついた光。
数えると——四つ。いや、五つ。
「ダークウルフ、五体か」
エリーゼが静かに呟いた。
ダークウルフは夜行性の魔物だ。群れで獲物を囲い、じわじわと追い詰める。成体は大型犬の一・五倍ほどの体格で、牙には微弱な毒がある。一体なら熟練の騎士でも手を焼く相手だ。
それが五体。
「アシュくんは——」
「俺は出ない」
エリーゼが振り返った。
「見てる」
一瞬だけ、エリーゼの目が揺れた。
それからすぐに、前を向いた。
「……わかった」
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最初の一体が、飛びかかってきた。
エリーゼは動じなかった。
右に半歩ずれながら剣を横薙ぎに振る。ウルフの前足が地面を蹴る瞬間を読んでいた。刃がウルフの首筋を捉えて、一閃。絶命するより先に次の動きに移っていた。
二体目が左から来た。
エリーゼはすでにそちらを向いていた。剣先を前に突き出して、飛び込んできたウルフの勢いを利用して深く刺す。手応えを感じる前に引き抜いて、後退。
三体目と四体目が同時に動いた。
挟み撃ちだ。
(まずい——)
俺の内心が動いた。
手に力が入った。雷を集める感覚が指先に走る。
だが——エリーゼは下がらなかった。
焚き火の光に向かって一歩踏み込んだ。明暗の境界線上に立つことで、片方のウルフの視界を奪う。眩んだ三体目がわずかに動きを止めた、その刹那。
エリーゼの剣が、三体目の頭を打ち抜いた。
返す刃で四体目の突進をいなし、すれ違いざまに胴を薙ぐ。ウルフが地面に転がった。
残り一体。
最後のウルフが、じりじりと後退した。仲間がすべて倒されたことを察して、本能が警戒を叫んでいるのだろう。エリーゼはゆっくりと間合いを詰めた。逃がさない。追い詰めて——最後の一撃を、迷いなく振り下ろした。
静寂が戻った。
焚き火が、ぱちりと鳴った。
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エリーゼが剣の血を払い、鞘に収めた。
全部で、おそらく一分もかかっていない。
俺は立ち上がることもなく、毛布の上に座ったまま、その一部始終を見ていた。
(……本物だな)
内心で、静かにそう思った。
副団長との模擬戦で確認したつもりだった。だがあれは訓練場だ。夜の暗闇の中、不意打ちに近い形で、しかも複数を相手にして——あの動きは、もう「素質」の話ではない。
十年間、毎日剣を振り続けた人間の、本物の強さだ。
エリーゼが振り返った。
「終わった」
「ああ」
「アシュくん、手に力入ってたね」
俺は無言だった。
「出ようとしてたでしょ」
「……していない」
「してた」
エリーゼはにやりと笑った。
「でも出なかった。ありがとう。信頼してくれてるってこと、ちゃんとわかったから」
俺は何も言わなかった。
毛布を引き寄せて、また横になった。
「次の見張りは俺がやる」
「……うん。じゃあ少し寝る」
エリーゼが隣に腰を下ろす気配がした。
焚き火の音だけが、静かに続いていた。
(敵わないな、本当に)
心の中だけで、もう一度そう思った。
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そして十日目の朝。
街道の先に、王都アルデナの城壁が見えてきた。
「……でかい」
エリーゼが思わず声を上げた。
無理もない。ヴァルナーの城下町とは比べ物にならない規模だ。高さ二十メートルを超える石造りの城壁が、地平線の端まで続いている。城壁の上には旗が何本も立ち、衛兵の姿が豆粒のように見えた。
「王都だ」
「本当に来たんだね」
エリーゼの声に、少し緊張が滲んでいた。
俺も同じだ。ただそれを表情には出さない。
「行くぞ」
「うん」
城門に向かって馬を進める。
街道には旅人や商人の列ができていた。門前には衛兵が立ち、通行証の確認をしている。俺たちも列に並んで、順番を待った。
そのとき——
「ちょっと待ってください」
馬上から、凛とした声が飛んできた。
声のした方を見ると、魔法学院の紋章が入った馬車が街道脇に停まっていた。御者が困った顔をしており、馬車の扉が開いて——
銀髪の少女が降りてきた。
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年は俺と同じくらいか、少し上か。
ショートカットの銀髪が朝の光を反射して、ほとんど白に近く輝いている。切れ長の紫の瞳が、まっすぐにこちらを向いていた。魔法学院の制服は細身の体にきっちりと着こなされているが——それでも胸元の膨らみは制服越しにはっきりとわかる。
少女は手に分厚い手帳を持ち、俺を見て迷いなく近づいてきた。
「あなたがヴァルナー伯爵家嫡男のアシュレイ・フォン・ヴァルナー……ですか」
「そうだが」
「確認します。適性鑑定において【天雷の才覚】神話級を取得。石板にひびを入れた。先日、領地北東にてストーンゴーレムを単独一撃で討伐。これは事実ですか」
淀みない口調だった。感情よりも情報処理が先に来る話し方だ。
「事実だが、どこで知った」
「情報収集は研究の基本です」少女は手帳を開いた。「私はセレスティア・アムレイン。魔法学院より、神話級スキルの調査のために派遣されました。あなたの【天雷の才覚】を研究させてください」
俺はしばらく、セレスティアを見た。
研究対象として見ている目だ。品定めではなく、純粋な学術的興味。それはわかる。ただ——
「今は門を通るのが先だ」
「……っ、それはそうですが、先に確認を——」
「あなたも王都に入るんだろう。話は中でしろ」
セレスティアが口をつぐんだ。
紫の瞳が、わずかに細くなった。反論を探しているような目だ。
「……わかりました。ただし、入城後すぐに時間を取ってください」
「状況次第だ」
「状況次第、では困ります。私のスケジュールが——」
「俺のスケジュールは俺が決める」
また沈黙。
セレスティアは手帳に何かを書き込んで、ぱたんと閉じた。
「……覚えておきます」
俺の横で、エリーゼが馬上からセレスティアを見ていた。
笑顔だ。いつもの明るい笑顔。ただ——目が、笑っていなかった。
「アシュくんのお知り合い?」
「今会ったばかりだ」
「そう」
エリーゼはにこりと、セレスティアに向き直った。
「エリーゼ・クロードといいます。アシュくん——アシュレイの護衛です」
セレスティアはエリーゼをちらりと見た。
「……セレスティア・アムレイン。研究者です」
「知ってます」
短い沈黙。
二人の間に、目に見えない何かが張られた気がした。
エリーゼが「護衛」と言うとき、普段よりわずかに声のトーンが低かった。
(やれやれ)
俺は前を向いた。
「行くぞ、エリーゼ」
「はーい」
いつもの声に戻っていた。
セレスティアが後ろから早足でついてくる気配がした。
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城門をくぐると、王都の喧騒が一気に押し寄せてきた。
石畳の大通りに、馬車と人が溢れている。両側に立ち並ぶ建物は三階、四階建てで、ヴァルナーの町並みとは規模がまるで違う。屋台の呼び込みの声、荷馬車の車輪の音、どこかで魔法が発動する光の瞬き。
「すごい……」
エリーゼが目を輝かせていた。
「王都に来たら絶対においしいもの食べるって言ったよね」
「覚えてる」
「約束だからね」
「わかってる」
後ろからセレスティアの声がした。
「……宿はどちらに取っていますか。研究の打ち合わせ場所を決めたいので」
俺は振り返らずに答えた。
「今夜は宿に着いたら休む。明日の朝、時間を取る」
「……朝の何刻ですか」
「六刻だ」
「早い」
「嫌なら断れ」
少し間があった。
「……六刻で構いません」
エリーゼがこっそりと俺の袖を引いた。小声で言う。
「あの子、なんか気になる」
「研究者だ。気にするな」
「そういう意味じゃなくて」
エリーゼはまた前を向いた。
その横顔に、普段とは少し違う色があった。
俺はそれに気づきながら、何も言わなかった。
王都の空は、高く青かった。
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宿に荷物を置いて、俺はひとり窓から王都を眺めた。
これからここで、何が始まるのか。
宰相府。国王。貴族派閥。そして——魔法学院から来た銀髪の研究者。
(想定より、早く動き始めたな)
セレスティアが門前で待ち構えていたのは偶然ではないはずだ。俺たちの到着を把握していた。情報収集は研究の基本、と本人が言っていた。それが学術的な動機から来ているのか、それとも別の誰かに動かされているのか——まだわからない。
(明日の朝、見極める)
扉をノックする音がした。
「アシュくん、夕ごはんだよ。せっかく王都に来たんだから美味しいもの食べに行こう」
扉越しに、エリーゼの声がした。
俺は思わず、小さく口元が緩んだ。
「今行く」
カクヨムで先行公開しています。
頑張って執筆していきますので面白い、続きが気になると思っていただけた方は応援して頂けると嬉しいです。




