第32話「噂と、最悪の想定」
王都からヴァルナー領までの道は、来た時と同じ街道だった。
違うのは、頭の中だけだった。
馬を進めながら、会議を振り返っていた。
ワイバーンの素材。法的根拠のない要求。「おかしいと言ったらおかしい」というクロイツの締め方。あれは圧力というより——時間稼ぎに近かった。会議に呼び出している間、別の手が動いている可能性がある。
(ドルフが懐に手を当てた)
廊下での一瞬。無意識の動作だった。小さな膨らみ。何が入っていたのか。確認する手段はない。ただ、引っかかっていた。
「アシュくん、また考えてる顔」
エリーゼが馬上から言った。
「……会議の話だ」
「ずっと考えてるね。帰りまで」
「考えることがある」
エリーゼが少し間を置いた。「ドルフって、何がしたいんだろうね」と言った。
「それがわからない」
「え、アシュくんでもわからないの?」
「わからないから引っかかっている」
エリーゼが「そっか」と言って、それ以上は聞かなかった。しばらく、馬の蹄の音だけが続いた。
王座を狙うなら、今の宰相の立場で十分に近い。神話級スキルを欲しがる理由も、まだ見えない。帝国の傀儡になれば自分が損をするだけのはずだ。それでも動いている。何かがある。
(まだ、見えていないものがある)
ライが街道の先を見ながら走っていた。耳が時折動いた。
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ヴァルナー領に入ると、空気が変わった。
鉱脈の土の匂い。見慣れた山の稜線。屋敷の門をくぐると、カルロスが中庭に立っていた。
書斎で報告した。会議の一部始終を話した。
「承りました、と頭を下げてきた」と言うと、カルロスが「それでいい」と言った。
「ドルフとクロイツが連動していました」
「知っていた」
「いつから」
「随分前から」
それ以上は言わなかった。腕を組んで、窓の外を見た。
「お前が王都で動いていた間、俺も手を打った」とカルロスが言った。「古くからヴァルナーと繋がりのある貴族に話を通した。向こうも動き始めている」
アシュレイは黙って頷いた。
カルロスが「それだけだ」と言って立ち上がった。
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翌朝、セレスティアが出発した。
玄関で荷物をまとめているセレスティアに、エリーゼが「また来てね」と言った。セレスティアが「研究が進んだら来る」と答えた。
出発前、アシュレイと短く話した。
「学院に戻ったら、介入申請の動きを調べる」とセレスティアが言った。「会議が時間稼ぎなら、別の手が動いているはずだ」
「頼む」
セレスティアが「珍しく素直」と言った。
「……うるさい」
セレスティアが小さく笑って馬に乗った。エリーゼが手を振る。ライが見送った。
馬が遠ざかっていく。王都の方角へ。
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セレスティアを見送って間もなく、門番が来た。
「若様、お客様がいらしています。ブラックウッド侯爵家の令嬢様と——もうお一方、フードを被った方が」
エリーゼが「え、リーシャさん?」と言った。
門に出ると、リーシャがいた。旅装姿だった。深紅ではなく落ち着いた色の外套で、黒髪の縦ロールが外套の中に収まっている。隣の人物がフードを外した。
ルーカスだった。
「急で申し訳ありません」とリーシャが言った。感情の乗らない声だった。「ただ、急ぐ必要がありました」
「構わない。入れ」
エリーゼが「ルーカスさんも久しぶり」と言った。ルーカスが「また世話になる」と返す。ライがルーカスを一度見て、それからリーシャを見た。
リーシャがライを見た。「……大きくなりましたね」と静かに言う。ライがリーシャを見た。しばらく、二人が視線を合わせる。リーシャが先に目を逸らした。「……読めない」と小声で呟いた。エリーゼが「ライのこと?」と聞く。「……いえ」とリーシャが答えた。
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応接室に通した。
イザベルが茶を持ってきた。リーシャを見て「まあ、リーシャさん、また来てくれたの」と嬉しそうに言う。リーシャが「お邪魔いたします」と一礼した。イザベルがルーカスを見た。「こちらは?」と聞く。「……ハイネマンと申します」とルーカスが答えた。イザベルが「ゆっくりしていってね」と言って出ていった。
リーシャが茶に手をつけた。
「兄から情報が来ました」
「カイル殿から」
「はい。兄は以前から独自のルートで帝国の動きを追っていました」リーシャが少し間を置いた。「噂の段階です。ただ——兄が念のためと言う時は、ある程度確度があります。兄は感情で動く人間ではありませんから」
「内容を」
「帝国が犯罪囚人を使った魔物化実験を、秘密裏に行っているという噂があります」
室内が静かになった。
「魔物化」
「はい。詳細は不明です。ただ——兄はこれを掴んだ時、すぐ私に連絡してきました。『ドルフと帝国の繋がりを考えると、最悪の事態を想定すべきだ』と」
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ルーカスが口を開いた。
「……父が、関わっているかもしれない」
静かな声だった。
「今の段階では噂だ」とアシュレイが言った。
「わかっている」ルーカスが手元の茶を見た。「ただ——父ならやりかねない。帝国と密約を結んでいるなら、その技術を使おうとしても不思議じゃない」
少し間があった。
「……俺には、止める力がない。だからここに来た」
しばらく誰も何も言わなかった。
リーシャがルーカスを横目で見た。「あなたがここにいること自体が、力になります」と静かに言う。ルーカスが答えなかった。ただ、少し顔を上げた。
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アシュレイは廊下でのドルフの姿を思い出した。
懐に当てた手。小さな膨らみ。あの瞬間——今になって、別の意味を帯びてくる気がした。
確信はない。噂は噂だ。
だが最悪を想定するには、十分だった。
「二人はここにいろ」とアシュレイが言った。
リーシャが「最初からそのつもりで来ました」と言った。
「カルロスに話を通す」
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑ではない。いつでも動ける状態にしておく方がいい」
リーシャがアシュレイを見た。何かを測るような目だった。「……ありがとうございます」と言う。
エリーゼが「私の部屋の隣が空いてるよ、リーシャさん」と言った。リーシャが「……エリーゼ様と隣は少し落ち着かない気がします」と静かに言う。エリーゼが「なんで!」と言った。
ルーカスが初めて、少しだけ口元を緩めた。
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カルロスに話を通した。
「リーシャ・フォン・ブラックウッドとルーカス・ハイネマンをしばらく置かせてほしい」
カルロスが少し間を置いた。「ハイネマン——宰相の息子か」と言った。
「はい。帝国の動きを考えると、ブラックウッドに置いておくより、こちらにいてもらった方がいい」
カルロスがもう一度間を置いた。腕を組んだ。「宰相の息子を匿うのは、それなりの覚悟がいるぞ」と言った。
「わかっています」
「……好きにしろ」
それだけだった。
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夜、庭に出た。
ライが後からついてきた。並んで歩く。石畳の向こうに夜空が広がっていた。
屋敷の中に、リーシャとルーカスがいる。セレスティアは王都に向かっている。カイルはブラックウッドで動いている。カルロスは領内で手を打っている。
一人ではない。それだけは確かだった。
「噂が本当なら——厄介なことになる」
ライが何も答えなかった。隣に座る。
アシュレイはしばらく空を見ていた。
ドルフの最終的な目的が、まだわからない。王座も、神話級スキルも、帝国との密約も——全部が何かに向かっている気がする。その先が、まだ見えない。
ライが鼻を鳴らした。
「……そうだな」
答えのない夜だった。
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