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ーー逃げ場は、もうなかった。
赤黒い石畳の広間。その中央で、三つの首を持つ魔獣が低く唸る。
ケルベロス。
深層の番犬。討伐記録の残らない、絶望そのもの。
周囲を見渡すと、仲間だったものが転がっている。
リーダーのガルド、魔法使いのアンナは、ともにケルベロスの爪による一撃を喰らい、もう呼吸をしていない。
まるで枯れ木のように細く萎れた姿で虚空を見つめているのは、戦士のドルベだ。屈強だった頃の面影はなく、もはやその目に意思はない。
ーーパーティの中で無事なのは、俺と幼馴染で神官のサラだけ。
その事実が、じわじわと喉を締め付けてくる。
どう考えても勝機はない。
「……カイン」
背後から、震える声がした。
サラの顔色は真っ青で、立っているのもやっとの様子。回復魔法の使い過ぎによる魔力欠乏症だ。
ーーせめて、サラだけでも生きて帰したい。そのためには。
俺は、ドルベだったものが握っている「魔剣」に視線を移す。
「カイン!それだけはダメ!」
俺の視線に気付いたのか、サラが叫ぶが、その叫びを無視する。
そして、俺はドルベの「魔剣」に手を伸ばした…
◇◇◇
数刻前。
俺たちは、ダンジョン上層の最奥で足を止めていた。
「――倒したな」
リーダーのガルドが、短くそう言って剣を下ろす。
床に横たわっているのは、上層ボスのオーク。
身体はまだ痙攣しているが、もはや戦える状態じゃない。
「今回は早かったわね」
アンナが肩で息をしながら言う。
詠唱を連続で使った反動で、額には汗が滲んでいた。
「サラ、回復を」
「うん、今やる」
サラが杖を掲げ、淡い光が仲間たちを包む。
いつも通りの光景。
いつも通りの、上層攻略。
本来なら、ここで帰還する予定だった。
ガルドの判断は堅実だ。
無理はしない。深層には近づかない。
それが、このパーティ「蒼刃」が生き残ってきた理由でもある。
「……ドロップ、出たぞ!」
ドルベが、床に落ちていたものを拾い上げた。
剣だった。
だが、一目見て分かる。
漆黒の刀身に血のように赤い刃紋。
普通の剣じゃない。
「魔剣、か?」
ガルドの声が、わずかに強張る。
ダンジョンでは稀に、異常な魔力を含有する武器が落ちる。それを手にしたものは莫大な力を手に入れることができると言われているが…
「わぉ!これがあれば俺たちもっと上に行けるぜ!」
「ドルベ!」
「分かってるって。リーダー。どんな効果なのか分からない以上、まずはギルドに戻って鑑定してからってことだろ」
そう言いながらも、
ドルベの視線は、剣から離れない。
刃の奥で、赤黒い光が脈打っている。
――嫌な感じがした。
「今日は帰るぞ」
ガルドが即断する。
その判断に、誰も異を唱えなかった。
だが。
帰還用の転移陣へ向かおうとした、その時。
床の魔法陣が、淡く光った。
「――!?」
視界が歪む。
足元が、消えた。
次の瞬間。
俺たちは、赤黒い石畳の広間に立っていた。
◇◇◇
――ここは、まずい。
上層では決してあり得ない、あまりにも濃厚な魔力濃度。
「……深層だ」
ガルドが低く呟いた。
いつも冷静なガルドの声に、焦りが滲む。
次の瞬間。
広場の奥から、猛烈な存在感を纏った一体の獣が現れた。
三つの首。
地を削るほど太い四肢。
吐息だけで空気が震えるほどの魔力圧。
「…ケルベロス?」
サラが呟く。
図鑑の挿絵でしか見たことのない存在。
そして、討伐記録が残っていない理由を、ひと目で理解させる怪物。
「撤退戦だ!」
ガルドは、剣を構えたまま、即座に言った。
その判断に、誰も反論しなかった。
いや、正確には、反論できなかった。
三つの首が、こちらを同時に見た。
それだけで、胃の奥が冷える。
「アンナ、視界を塞げ。サラ、転移スクロール。残りはサラを全力で守れ!」
「ストーンエッジ!」
アンナが即座にケルベロスの顔面に石礫を放つ。
…しかし
ケルベロスの右首に魔法陣が浮かび、石礫が掻き消える。初めから存在しなかったように。
「ファイアボール!」
間髪入れずに、ガルドが魔法を放つ。魔法の専門職であるアンナほどではないが、ガルドの魔法もそれなりの威力があるが、ケルベロスには届かない。
「準備完了!転移スクロール発動!」
サラが叫ぶ。しかし…
「転移魔法陣が…消滅した…?」
唖然し、硬直するサラ。そこに、ケルベロスの爪が襲いかかる。
「サラっ!」
俺はギリギリのところでサラを突き飛ばす。
だった一撃。その一撃で頑丈なはずの石畳の床に大きな爪痕が付いた。
「魔法無効化する右の首を落とす。それしか活路はない。ドルベ、カイン、俺たちで行くぞ。アンナはサポートに回れ!」
「「「了解」」」
「散開ッ!」
ガルドの叫びに、反射的に身体が動いた。
俺とドルベが左右へ跳ぶ。その直後、爪が石畳を抉り、赤黒い破片が宙を舞った。
——直撃していたら、即死だ。
「ドルベ、行け!」
「任せろ!」
ドルベが吼え、戦斧を振りかぶる。
筋肉が軋み、渾身の一撃がケルベロスの胴へと叩き込まれ——
次の瞬間。
斧の刃が、見えない壁に叩きつけられたように弾かれた。
金属音が広間に響き、ドルベの身体が後方へ吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
着地と同時に膝をつくドルベ。
斧を握る腕が、痺れたように震えている。
「……物理も、通らねぇのかよ」
呟きが、重く落ちた。
ケルベロスの左の首。
その前方に、空気が歪んでいる。
魔法とは違う。だが、確実に“防がれている”。
ケルベロスの三つの首が、同時に動く。獲物を定めて。
「サラ、下がれ!」
ガルドが叫び、前に出る。
だが、ケルベロスの動きはそれより早かった。
中央の首が大きく口を開き、一直線に飛びかかる。
ガルドは剣を突き出し、真正面から受け止めた。
一瞬、拮抗したように見えたが——
次の瞬間、嫌な音がした。
骨が砕ける音。
そして、ガルドの身体が宙に浮き、壁へ叩きつけられる。
「ガルド!」
サラの悲鳴。
リーダーは、もう動かなかった。
空気が、完全に変わった。
指揮を失った戦場は、あまりにも脆い。
「アンナ、下が——」
「魔法を無効化している間に別の魔法を叩き込めば!」
アンナは退かなかった。
2つの魔法陣を同時展開し、時間差で放出する。無理矢理な魔法発動の反動でアンナの目や鼻から鮮血が流れ落ちる。
「これなら!」
魔法が、発動する前に消えた。
ケルベロスがアンナに肉薄する。アンナの身体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。アンナはピクリとも動かない。
「……くそ……!」
残ったのは、俺とサラと、膝をつくドルベだけ。
ケルベロスは、まだ無傷だ。
いや——違う。
ドルベの視線が、足元に落ちている。
そこにあったのは、禍々しい赤を放つ剣。
上層のボスを倒した際に現れた、例の魔剣。
「……これしか、ねぇか」
ドルベが、苦笑する。
「やめろ! それは——」
俺の制止を、ドルベは聞かなかった。
剣を掴んだ瞬間、魔剣が唸りを上げる。
ドルベの魔力が、強引に引きずり出されていくのが、離れていても分かった。
「時間は稼ぐ。……逃げろ」
「ドルベ!」
返事はなかった。
ドルベは、一歩踏み出し、剣を振り上げる。
魔剣の一撃が障壁を貫き、ケルベロスの胴を裂く。
初めて、ケルベロスが苦悶の咆哮を上げた。
「……やった……?」
だが、その希望は、すぐに踏み潰される。
中央の首が、ゆっくりと動いた。
裂けた肉が蠢き、傷が塞がっていく。
同時に、ドルベが崩れ落ちた。
一瞬で、命そのものを削り取られたかのように。
——終わった。
残っているのは、俺とサラだけ。
そして、地面に転がる魔剣。




