第2章 重ね合わせの恋心
「じゃあ最初の質問。『どうすれば好きな人と距離を縮められますか? 量子力学的観点から教えてください。好きな人はミクロの世界の素粒子と仮定してかまいません』」
鈴木がキーボードを叩く。
Sociusの回答はすぐに表示された。
『量子力学では、粒子は観測されるまで特定の場所に存在せず、複数の状態が重ね合わさった「波動関数」として記述されます。好きな人とあなたが互いに意識し合う関係になるまで、お互いの関係性は「友達」でもあり「恋人候補」でもある、という不確定な状態が重ね合わさっていると考えることができます。この波動関数が崩壊し、関係性が確定した状態(=距離が縮まった状態)にするには、何らかの「観測」(=アクション)が必要です。
観測:相手に話しかける、メッセージを送る、デートに誘うといった積極的な行動が「観測」にあたります。
波動関数の収縮:あなたが行動を起こすことで、二人の関係性の不確定な状態が収縮し、「友人関係」や「恋人関係」といった特定の状態に定まります。』
「なるほど、つまり一緒にいる時間を増やせってことね」
和美は深呼吸した。
次の日の昼休み、和美は意を決して図書室に向かった。石川吾郎がいつも昼休みに図書室で勉強していることは、リサーチ済みだった。吾郎こそ、和美の憧れの人である。
窓際の席で参考書を開いている吾郎を発見した。陽光が彼の横顔を照らし、まるで映画のワンシーンのようだ。
和美は心臓をバクバクさせながら、隣の席に座った。
「あ、佐伯さん」
吾郎が顔を上げた。吾郎の深い茶色の瞳と和美の目が合った。心臓はさらにバクバクする。
「こ、ここ、座ってもいい?」
「どうぞ」
吾郎はにこやかに答えて、また参考書に目を落とした。
和美も早々に自分の教科書を開く。でも、文字が全然頭に入ってこない。隣に吾郎がいるというだけで、空気が変わっていく。
(何か話さなきゃ。でも何を?)
「あの、物理の勉強?」
思い切って声をかけた。
「うん。量子力学の章なんだけど、結構面白くて」
量子力学! まさに今、研究している分野だ。
「私も量子力学好き! 特にシュレディンガーの猫とか、観測問題とか」
吾郎が驚いたように和美を見た。
「へえ、科学部でも量子力学やってるの?」
「うん、今ちょうど面白い実験を……」
和美は話しかけて、途中で止めた。「量子力学で恋愛を攻略する実験」なんて言えるわけがない。
「面白い実験?」
「えっと、その……波動関数の収縮に関する考察、みたいな」
苦し紛れの説明なのに、吾郎は興味深そうに身を乗り出してきた。
「それ面白そう。今度、詳しく聞かせてよ」
「え、いいの?」
「うん。俺も量子力学の哲学的な側面に興味があるんだ。コペンハーゲン解釈とか多世界解釈とか」
会話が弾み始めた。緊張は少しずつほぐれ、自然と笑顔がこぼれる。
数日後、和美は調子に乗って次の質問をSociusに投げかけた。
「相手に自分を魅力的に見せるには? 物理学的に」
『エネルギー準位の遷移を利用しましょう。
原子内の電子は、エネルギーを吸収すると高いエネルギー準位に遷移(励起)し、その後、低い準位に戻る際に光を放出します。これが、物質が光る原理です。
人間の魅力も同様と仮定します。
外見的エネルギー準位(髪型、服装の変更)、内面的エネルギー(新しい知識、スキルの習得)を上げて、その後ふだんのあなたに戻ることにより、あなたは輝く存在になれます』
「物理っぽく言ってるけど、要は見た目と中身を磨いて、さらに普段の自分とのギャップで萌えさせるというわけね。Sociusってあざといヤツ」
ルカが感心した。
翌日、和美はいつもと違う自分で登校した。普段は無造作に一つに結んでいる髪を、高めの位置でポニーテールにして、前髪も丁寧に整えた。制服のリボンもアイロンをかけて、きちんと結び直した。
「おお、和美が女子力発動してる」
ルカが驚きの声を上げる。
「ふふふ」
廊下で吾郎とすれ違った。
「あ、佐伯さん」
吾郎が立ち止まった。一瞬、和美を見つめてから、優しく微笑んだ。
「雰囲気変わったね。なんか、明るい感じがする」
「え、あ、ありがとう……」
和美の顔が真っ赤に染まった。エネルギー準位、確かに上がったかもしれない。
(明日は、髪型を元に戻そう!)
部室に戻ると、ルカがニヤニヤしながら待っていた。
「進展あったでしょ」
肘で小突いてくる。
「『雰囲気変わったね』って言われた……」
和美が照れながら報告した。
「でもさ、本当に科学的なの? これって結局、普通の恋愛アドバイスを物理用語で言い換えてるだけじゃ……」
ルカの指摘に、和美はむっとした。
「科学的かどうかなんて関係ない!大事なのは、仮説を立てて、実験して、検証すること。恋も実験も、試してみなきゃ分からないんだから!」
「でも和美、一つ忠告しておくけど、Sociusに頼りすぎないでよ。自分の気持ちがいちばん大事なんだから」
「わかってる」
和美は頷いた。でも、心の中では少しSociusの力を過信していたのかもしれない。
それが後に、大きな混乱を招くことになるとは、この時はまだ誰も知らなかった。




