第1章 恋もまた実験対象
放課後の科学部部室は、相変わらずカオスだった。
机の上には試験管が無造作に並び、誰かが書き殴った化学式のメモも散乱している。窓際の実験台には、三日前から誰も手をつけていないカップラーメンが佇んでいた。
「研究テーマ募集中……か」
佐伯和美は、ホワイトボードに大きく書かれた文字を見つめてため息をついた。長い黒髪を後ろで一つに結び、白衣の袖をまくりあげる。
「和美、カップラーメンが冷める速度の研究ってどう?」
部員のルカが、問題のカップラーメンをボールペンで指しながら提案した。
「却下。それただの熱力学でしょ。ニュートンの冷却法則で終わりじゃん」
「はーい、学校の七不思議を科学的に証明するってのは?」
今度は男にしては小柄な部員の山田が手を挙げた。
「音楽室のピアノが夜中に突然鳴り出すとかさ、絶対に説明できると思うんだよね」
「それも却下。いろんな人がネットで説明済み」
和美はホワイトボードのマーカーをくるくると回しながら、ふと呟いた。
「量子力学で恋愛を解析できないかな」
カタン。
ルカがボールペンを落とした。山田は飲んでいたペットボトルのお茶を吹き出しそうになる。
部室がフリーズしたかのように静まり返った。
「はあああ!?」
部員全員の声が見事にハモった。まるで練習していたかのような完璧なユニゾンだった。
「いや、待って」
和美は振り返ると、目が本気だった。真顔で続ける。
「量子力学では、古典力学では証明できなかったミクロの世界を説明したでしょ。量子力学は世の中のすべてを解明する理論。」
「すべてじゃないよね。正確にはほとんどだよね……」
山田が冷静にツッコんだ。
「恋愛も世の中の現象の一つよ。絶対に解明できるって」
「面白いじゃん! やってみようよ」
ルカが賛成した。いや、面白がっただけか。
突然、ドアが勢いよく開いた。ノートPCを抱えた部員の鈴木が、息を切らせて入ってくる。
「遅れてごめん! あ、何の話?」
「和美が量子力学で恋愛を解析したいって」
「マジで!? それ最高じゃん!」
鈴木の目がキラキラと輝いた。すぐさまノートPCを開き、机の上の実験器具を乱暴に押しのける。
「最近話題の生成AIに聞いてみようよ。なんでも相談できるらしいし。Sociusていうんだけど、めっちゃ賢いんだって」
「生成AIに恋愛相談って……」
山田が呆れたような声を出すが、鈴木はもう画面に向かってキーボードを叩いていた。
「よし、接続完了。じゃあ最初の質問は……」
鈴木が一瞬考えてから、にやりと笑った。
「『恋愛で告白が成功する確率を上げる方法を、量子力学的に教えてください』」
画面に「考え中...」のアイコンがくるくると回る。
そして、Sociusの回答が表示された。
『告白の成功という現象を量子力学で説明することは、科学的に不可能です。量子力学は、原子や素粒子といったミクロな世界の物理現象を扱う学問であり、人間の複雑な感情や行動を記述するものではありません。』
部室はさっきよりさらにフリーズした。
「ダメじゃん!」
ルカが机を叩いて笑い出した。山田も腹を抱えて笑っている。
「聞き方が悪かったんだよ。プロンプトを最適化すれば大丈夫なはず」
鈴木は反論した。
和美だけが違った。
Sociusの回答には目もくれず、ずっと思案中だったのだ。
和美は振り返り、頬を紅潮させながら力説し始めた。
「恋愛って、結局は確率の問題でしょ? 成功するか失敗するか。でも、その確率を上げる方法があるなら、それを科学的に検証する価値はあるんじゃない?」
「いや、でも恋愛は理論で語れるものじゃ――」
山田の言葉を遮るように、和美はホワイトボードに大きく書いた。
『新研究テーマ:量子力学的恋愛術の実証実験』
「よーし、これで決まり! 私、この実験で絶対に結果を出してみせる!」
部員たちは顔を見合わせた。
和美が本気モードに入った時のあの目。論文コンクールで最優秀賞を取った時と同じ、狂気じみた情熱の炎が宿っている。
「まあ、面白そうだし、付き合うわ」
ルカが肩をすくめた。
「科学部らしい青春って感じ?」
山田も苦笑いを浮かべる。
「じゃあ、まずは実験対象が必要だよね」
鈴木がにやりと笑った。
「佐伯、好きな人とかいないの?」
その瞬間、和美の顔が真っ赤に染まった。
「いるけど、言わない」
「言わないってことは片思いだな」
鈴木が再びノートPCを開いた。
「Sociusに相談して、量子力学的アプローチで片思いを解決する。完璧な実験計画だ」
和美は迷った。好きな人を実験材料にするなんて、不誠実かもしれない。でも、このまま何もしないで見ているだけなんて――
「わかった。やってみる」




