第三章 悪夢の娘 三
第三章 悪夢の娘 三
私は、麗冷とムクと別れ別行動を取り、砦へと向かった。だがあの二人は必ず私を追って来る。一時的に私と距離をあけていた方が安全性は高まるであろう。とにかく今は、本当に私の村の生き残りがいたのなら、それが誰かを確かめる。
しかし、死者の体を操る方法などは、今までの旅で見たことも聞いたこともない。昨日の白光石の件に続き、これまでの旅の中で得たことのない情報が、私達に吸い寄せられているかのように、集まってきている。
私が旅の中で得た情報は少ない。鍛錬によって得た武力と、生き抜くための知恵ならば、蓄積させてきた。だが旅の目的である太陽の情報は、二つしか得られていないのだ。
まず、かつてこの世界に太陽があったこと。次に麗冷にはまだ話しておらぬが、太陽を消したのは、東の果ての国だという伝承を得ただけだ。かつてこの世界には、方角、というものがあり、世界の方向を指し示す指針があったらしいが、それは太陽と共に失われてしまった。東というのは、その指針の中の一つらしいが、それがどちらの方向なのか、それがもう分からぬ。
なんの根拠もない話だが、東の果ての国というのは、まだ太陽があった頃、麗冷がいた国ではなかろうか。私が麗冷と出会ったことは、やはり偶然ではない。そうなることを、事前に定められていた運命。何者かの意図によって、導かれた結果だと感じている。そしてムクと出会ったことも。この先でもおそらく、新たな世の足がけとなる、子供と出会うことになる。
……世界が、動こうとしている。
そしてそれを成すのは、私ではなく、子供達なのであろう。私がここまで生きながらえ、経験を重ねてきたのは、その子達を導くためではなかろうか。新たな時代を築くのは、私のような老人ではなく、子供達であるべきなのだ。時代とはそれを変えたがらぬ権力者と、それを切り開く若人の終わりなき戦いだ。
この世界を闇に沈めたままにしようとする勢力と、闇を晴らし光をもたらそうとする勢力。その戦いが、本格化しようとしているのではなかろうか。そう考えるに至ったのは、昨日麗冷が話した、白光石をつくったのは、彼女の友だという情報だ。園子という名であったか。
白光石には危険な性質がある。人を死に至らせ、闇を吸収する石と化す。さきほどは死を待つだけの村人達に、苦しみのない終わりを与えるために渡したが、基本的に使われるべきものではない。だが麗冷いわく、白光石の中に魂は存在していないという。ロイ殿とアリーン夫人の魂は空へ登っていったと麗冷は言った。それがなによりの証明であろう。
ではその対極にあるものはなにか。闇の扉だ。あれに呑まれた者は、闇に魂を囚われ、闇人となってしまう。強硬手段であることは確かだが、白光石とは、魂が闇に囚われる前に、この世界から解き放つための手段なのかもしれぬ。
では、我らはそのどちらにつくべきなのか。当然、光をもたらそうとする側につくべきであろう。しかし、本当にそれでよいのであろうか。我らは生きている。麗冷は魂は死の後、生まれ変わるのだと言ったが、ならば今ある生を諦め、死を選んでもよいのであろうか。白光石による強制的な終わりを、人々にもたらすべきなのであろうか。
今ある生を否定し、己の気に入る世界と、人生が訪れるまで待ち続けることが、生きるということなのであろうか。否。それを自らの力で掴み取ろうと歩み続けることが、生きるということだ。
我らがこの世界で歩むべき道は、闇でも光でもなく、新たな三つ目の選択肢なのかもしれぬ。……三つの目。麗冷の顔が頭に浮かんだ。彼女こそが、この世界で歩むべき道を、象徴している存在なのであろうか。
こんな考え事をしていられる余裕があるのは、敵が一切攻撃を仕掛けてこないからだ。砦にはもう十分近づいている。たいまつを掲げ、私がここにいることを知らせている。しかし攻撃が行われない。人間と獣人との戦いの中で築かれた砦だ。弓矢はあるはずだが、矢が飛んで来る音がしない。どうやら、誘われているようだ。
私はあえて、その罠にかかってやることにした。もしもこの砦を築いた精鋭達が、全て死体になり操られていたとしても、それが大した数ではないことは、分かっている。さきほどの村で、砦の人間と獣人を全て合わせても、せいぜい三〇から四〇人程度しかいないと情報を得られている。戦う場所を選び、全方位から襲われることがないよう注意すれば、大きく警戒する必要はなかろう。
砦は二つあるが、予想通りそのうちの一つにしか、たいまつが掲げられていなかった。誘いに乗るのであれば、火が掲げられた方に行くべきだろう。砦の入口には、十人の死体が並んで立っていた。全員武器を持ち、一斉に襲い掛かってきたが、やはり統率が取れていない。数の利を全く生かせていないのなら、恐れるに値しない。相手が死体であるなら、配慮は必要ないであろう。各個撃破し、それぞれの四肢を切断し、動けないようにしてから、私は砦へと足を踏み入れた。
砦の中でも、何人かの人間と獣人の死体が襲ってきたが、私を本気で殺めるつもりはないようだ。私を砦の奥へと誘導するように、一体ずつ通路にそって死体が配置されている。あらかた死体の兵を片付けると、私は砦の中心部分の、中庭に出た。広く開けた空間のその中央に、何者かが立っている。周囲にたいまつを設置し、これ見よがしに自身の姿を、闇の中に浮かび上がらせていた。
……相手は最初から、私に会うつもりだったようだ。
「よぉ、やっぱり誘いに乗って来たな」
「久しいな、臆舌」
「もう少し驚けよ。オレの姿を見て、もっと他に言うことはねぇのか?」
「いるのならお前だろうと、予想はしていた」
そこにいたのは、私の村の、戦士の中の一人。全く歳をとっていない、若い姿のままの、かつての仲間がそこにいた。もっとも、やつは私を仲間とは考えていなかったであろうが。
名は臆舌。弁舌に長け、言葉巧みに人を惑わせ、奇襲を仕掛ける戦い方を得意としていた。その反面、気が弱く臆病で、正面から敵と向き合い戦うことの出来ない男であった。昔となにも変わっておらぬ。中肉中背だが、常に猫背で腕を体の前に垂らし、不健康な印象を人に与える。前髪が長く、その髪の隙間から、上目遣いで相手を見る癖があり、周囲の人間にいつも不快感を与えていた。体は瘦せていないというのに、頭部だけが不自然に痩せこけ、骸骨のような顔をしている。
「なんでオレがここにいるか、聞きてぇだろ?」
「聞けば答えるのか?」
「聞かせてやるさ、オレがお前を見つけたのは、狭い部屋の中だ。あそこは地下室かどこかか?獣人の男が一人いたな。お前を見つけてすぐ、ここを乗っ取らせてもらったから、その後のことは知らねぇが」
……ロイ殿と、研究所の地下室に行ったときのことか。そのときに私を見つけたということは、あそこにあった闇の扉の内側に、こやつがいたということか。
「オレたちはな、本部から闇の扉を通して、世界の好きな場所を見ることが出来るんだ。そうさ、オレは闇の力を手に入れたんだ。村が闇の扉に呑まれたとき、オレはあの方に選ばれたんだ」
「お前一人で行動しているわけでは、ないようだな」
「ここにはオレ以外いねぇよ。オレ一人で、お前を殺してやるつもりだったからな」
「私を殺めてどうする。なぜ私の命を狙う?」
「簡単な理由だ。てめぇのことが、大嫌いだった。殺してやりたいほどにな。まさかこんなところで再開できるなんてなぁ」
「ふむ。それで、私を殺してそれで気が済むのか?」
「それだけじゃあ終わらせねぇ。死体を兵隊にしてこき使ってやるさ。ひひひ……」
臆舌は見せつけるように両腕を広げると、その右腕の周りを闇が渦巻き始めた。闇は大きな塊となり、不自然に肥大化した、ハンマーのような形状となった。大きく緩やかな動作で、臆舌はハンマーを振り上げ、それを私に向かって叩きつける。当然それは避けたが、相手も当てるつもりがない攻撃だ。ハンマーは地面を叩きつけ、私がよろけるほどの振動と同時、大地に深い穴を穿った。
「ひひひ、どうだこの威力?オレはもう、昔のオレじゃねぇ。お前の正面に立って戦えるんだ!」
「他にも聞きたいことがあるのだが、話す意思はあるか?」
「聞きたきゃオレに勝ってみろよ!はははは!!」
どこまで正気なのか分からぬ。こやつの強気の態度は、本人の成長によるものなのか。それとも闇に囚われ魂に異常をきたしているだけなのか。
「進むべき道を誤ったようだな」
「てめぇの方だろうが!そんなジジイになって、なにが出来るよ!?」
「お前の長所は『舌』だったはずだ。それを捨て力に任せる戦い方をするのは、持って生まれた才を無下にしておる。私はお前の戦い方を評価していたのだがな」
挑発を仕掛けてみた。こやつが罠に誘っているのなら、強い言葉で言い返してくるだろう。そうでないなら怯む。本気で臆舌が、弁舌を捨てたとは考えておらぬ。こやつの人を言葉で誘導する能力には、目を見張るものがあった。こやつは賢い奴であった。それを捨てるほど愚かでないことは分かっている。
「そう思うならかかってこいよ!一撃で虫けらみてぇに潰してやるからよお!村中から卑怯者扱いされていたてめぇに、そんな根性があるならな!」
やはり罠か。言葉で私が懐に飛び込むことを誘っておる。ハンマーによる連続の殴打も、意図的に小さな隙を見せ、私の反撃を誘導しておる。臆舌は最初に立っていた位置から動こうとせぬ。たいまつを周囲に掲げ、自身の位置を分かりやすく印象付けた点、これも小さな細工だが、こちらの心理に働きかけておる。あのハンマーの猛攻をかいくぐり、早く攻撃を仕掛けねばと、私を焦らせようとしておる。
……私は、自然とほほ笑んでいた。かつての仲間の成長した姿を見れて、嬉しかった。
「……てめぇ、なに笑ってやがる?」
「成長したな、臆舌」
「あ……?」
「かつてのお前は、臆病故に決して堂々と、敵の前に立たなかった。だが今のお前は、それをもって敵を罠に誘う術を心得ておる。言葉と態度、その両方を武器にしておる。そうなってくれればと、ずっと思っていたのだ。……昔のお前に、それをちゃんと伝えられればよかったのだがな。私とお前、双方の弱さ故に、それをしてやれなかった」
「……ふざけてんのか……?」
「かつてのお前は、自身に深い絶望を抱いていたであろう。お前は臆病な自分を嫌っておった。それ故に他人の言葉に耳を貸そうとせず、その反動から他人を言葉で操る術を生み出した。そんなお前にどんな言葉をかけても、届かないであろうと思っていた。……私はそう、決めつけてしまった。それは私の過ちだ。しかし今のお前になら、私の言葉が届くはずだ」
「……」
「お前が生きていて、私は嬉しい。だが、今さら同じ道を歩めるわけもない。それが悲しくもあるがな」
臆舌の顔は引きつっていた。上目遣いに私を見つめる視線に、憎しみと困惑の混合が込められている。
「……嫌いだ」
「そうであろうな」
「てめぇのその、人を見下したような態度が、昔から、大嫌いだった」
「あぁ、分かっておった。見下してなど、一切なかったがな。お前の自身を卑下した思考が、そう思わせていただけだ」
「うるせぇ!黙れ、黙れよ!お前だって臆病者の癖に!いつも戦いから逃げていたくせに!」
「そうか、では行かせてもらおう」
私は手斧を振りかぶり、臆舌がハンマーを振り下ろした瞬間に、やつの頭部に向け全力で投げつけた。人間が最も隙を見せるのは、攻撃の始動地点だ。私は本心しか話していなかったが、こやつはそれを盛大な挑発と受け取ったようだ。その憎しみを込めた攻撃の始めには、私を殺めるという一点に心が支配され、相手の攻撃に対応する余裕が失われてしまう。
手斧は臆舌の頭部に深く突き刺さった。臆舌はのけぞり、倒れるかと思われたが、急激に態勢を立て直し、天を仰いで奇声を張り上げた。
予想はしていたが、臆舌の体は、すでに通常の人間のものではなくなっていた。頭部に深く刺さった手斧は、即死させるに十分な傷を与えたはずだが、やつは手斧を抜き取ると、笑い声を上げながら、それを何度も自分の頭に叩きつけた。刃が突き刺さるたびに、頭蓋が割れる鈍い音が響く。しかし出血は一切なく、肉体にどれだけの損傷を与えたところで、臆舌を仕留めることは出来ないようだ。
「オレは無敵の力を手に入れた。闇の力と一緒に、あの方はこの力を与えてくださった」
「それは、私の知っている人物か?」
「お前があの方を知ってるわけねぇだろ。お前とあの方じゃあ、格が違うからな」
私の村が闇の扉に吞まれたとき、臆舌は「あの方」とやらに命を救われ、同時に闇の力を与えられたというが……。やはり闇に属している勢力が存在していることは、確定したと考えてよさそうだ。どこまでの情報を、このままこやつから引き出せるであろうか。臆舌の劣等感の強さを利用させてもらおう。自分が特別な存在なのだと、私に主張できるような質問をぶつけてみようか。
「何のために、お前は命を救われたのだ。通常であれば、お前の魂は闇人と化していたはずであろう」
「オレは選ばれた存在だったのさ。心に深い闇を抱える人間を、あの方は求めていた。この世界をさらなる闇に沈めるためにな。オレが心の底に抱える闇を、絶望を、あの方は受け入れてくださった。見せてやるよ、オレがあの方から与えられた力をなあ!」
砦が震え、風が吹き荒れる。暴風の中を、一筋の稲妻のような閃光が煌めき、その数が瞬きする間に増えていく。
「この閃光がなにか分かるか。かつて魂だったものだ。魂から抽出した高濃度なエネルギーの塊。オレはそれを操る力を与えられた。魂を奪われた人間や獣人は、干からびた死体の兵となり、オレの意のままに操られるようになるのさ」
「お前自身の肉体はどうなっておるのだ?」
「どうせお前には、どうにも出来ないから教えてやるよ。オレの魂、いわばオレの本体は、この体から分離させ隠してある。魂が無事な限り、オレの肉体は不死身ってわけだ。見えるか?どこにオレの本体がいるかお前に分かるか?ひひ、分かりやしないだろう」
麗冷の闇視に似ている力だ。だが臆舌は自身のみならず、他人の魂をエネルギーへ変換し、操ることが出来るようだ。しかし他者の魂を操るためには一度肉体の活動を停止させ、死体にする必要があるのであろう。
「なぜこの世界を闇で覆うのだ。そこになんの目的がある?それはお前でなければ果たせぬことであったのか?」
「オレはただ、てめぇみたいに気に入らない奴を、力でねじ伏せるだけだ。それでいいのさ、それだけでな!オレたちが暴れるほど、闇が広がる!それが楽しくて仕方ないだけだ!」
周囲を暴れ馬のように跳ねる閃光が、臆舌の肉体へと吸い込まれていく。今まで死体を操るために使用していたエネルギーを、自身に注入したようだ。ここまで一本しかなかったハンマーが、増殖を始めた。臆舌の肩から、胸から、背から、闇が伸び腕の形を取り、それぞれにハンマーが握られている。合計で八本。この程度の数なら回避は容易だ。しかし私の体力がいつまでもつか。
「オレはもう、臆病者じゃねぇ。てめぇみたいな卑怯者でもねぇ。だから戦いを公平にするために教えてやる。オレの魂は闇の力で磨かれ、物理的な影響力を持つようになった。つまり、お前の攻撃はオレの魂に当たっちまう」
「魂に、攻撃が命中するのか?」
「鍛え抜かれた魂は、そうなっちまうもんなんだ。ま、仕方のねぇハンディキャップってところだな。そしてオレの最大の弱点は、オレの魂は自分で移動することが出来ねぇ。肉体から出した場所に固定されちまう。お前に攻撃されても、それを避けることが出来ねぇわけだ」
「そんなことまで教えてよいのか?」
「問題ねぇよ。てめぇは、絶対に、オレには、勝てねぇ!それが分かってるからな!さぁ、始まりだ!」
臆舌はそう言うと、手斧を私に投げ返してきた。わざわざ武器を返してくるか。よほど自信があるのか、それともなにかしらの罠なのか。
「てめぇはどこかで野垂れ死んだと思ってたよ。てめぇは弱虫の卑怯者だったからな。どこかで闇人に襲われて死んだと思ってた。まさかこんなジジイになっても、まだ死んでなかったとはな。一目見て、てめぇだと分かったよ。その目だ。てめぇのその目は、六〇年前と、何も変わってねぇ!」
「お前もな」
「ずっと心残りだったんだ。闇の力を得る前から、出来ることなら、てめぇを殺してやりたいと思ってた。なぁ、これは運命だろ?まさかその願いを叶えられる日が来るなんてな。天命がオレにそう言っているんだ。てめぇを殺せってなぁ!」
「お前にそこまで憎まれていたとはな。かつての私の態度が原因ならば、ここで謝罪しておこう。しかしただの逆恨みに思えてならぬ。私は異端者扱いを受けていたが、実力を評価されてはいた。お前は自分が評価されないというのに、私ばかりが評価されていた怒りを、憎しみに転換しているだけではないのか?お前が評価されていなかったのは、お前の卑屈な態度が原因だ。戦士らしからぬその人格が、評価を著しく低下させていただけだ」
「……うるせぇ。うるせぇ!黙れよてめぇ、殺してやる!!」
無数に飛び交うハンマーの群れ。私はその中を駆け回り続けた。動きを止めれば一瞬で命を取られる。八方向から襲い来るハンマーを回避し続け、臆舌の魂、本体はどこにいるのか、死線の中でそれを探り続ける。
……絶対に私を近づかせぬように、かばっている場所がある。巧妙に隠しているが、臆舌自身のハンマーによる攻撃も、その地点を避けている。臆舌の背後、わずかに左に寄った、三光ほどの地点。しかしそれに気付いた瞬間、ほんのわずか、意図的につくられたであろう攻撃の隙間の中で、臆舌と目が合った。
歪んだ笑顔、その目が私に語っていた。「おぉ、よく気付いたな」と。
これだ、これが臆舌という人間の真骨頂だ。そこに見えた隙が、本物の弱点なのか、それとも罠なのか、その判断をつけられぬ状況を敵に叩きつける。相応の実力者でしか気付かぬであろう、ごくわずかな隙。それが意図せず見せてしまった失敗なのか。あえて見せてやった罠なのか。巧みに敵の思考に揺さぶりをかける。
それを一重に、二重に、さらに重ねて相手を猜疑の迷宮へと誘い込む。攻撃することが罠なのか、攻撃させぬことが罠なのか。こうして迷い、時間をかけることが罠なのか、そうと焦り攻撃させることが罠なのか。
本当に、強くなった。かつての言葉に頼るだけの臆舌ならば、しかしその迷宮にほころびがあった。だが現在の完成されたこの罠を破ることの出来る者が、世にどれほどいるであろうか。
「どうした卑怯者!お前はいつもそうやって、戦おうとせずに逃げてばかりだな!」
「分かっておる。『逃げろ』と言いたいのであろう。私が逃げるよう誘導しているのであろう。この状況下で取るべき最も合理的な手段は、逃走だ。優れた戦士ほど逃走を選択する。砦の外に出てから、火を放つのが効率的かつ、確実な方法なのだ。お前の本体がどこに隠れていようが、それで始末出来る。しかし、そんな分かりやすい誘導をしてくるということは、それも罠なのだろうな」
「それで、てめぇはどうするつもりだよ!?オレの背後を目指すのか?それとも逃げるのか!?」
臆舌は二択を迫ってきておる。私が攻めるか、逃げるか。逃げた場合、どういった罠を仕掛けているであろうか。やつの本体が、本当はこの中庭の入口、その上部に隠れている可能性。ここから逃げ出そうとした私に、奇襲を仕掛けてくるであろう。
しかし他の罠を仕掛けている可能性も、もちろん考えられる。例えば奇襲にわざと失敗し、私がそのまま砦を出ようとしたところを狙う方法もある。最初にここまで来たとき、通路にいたのは死体の兵隊のみだった。通路にそれ以外の罠など、設置されていないはずだと、私にそう無意識化で認識するよう仕掛けていたのかもしれぬ。その油断につけ込み、実際は設置していたなにかしらの罠を起動する。そういった策もある。
この砦に私が踏み入ったそのときから、臆舌の策略はすでに始まっていたのだ。では逃げるという選択肢を捨て、やつの背後に本体がいると信じ、攻撃を仕掛けてみようか。否、無謀だ。この中庭のどこに罠があるか。落とし穴か、仕掛け矢か、鬼が出るか蛇が出るか。
私がさきほどから移動しているのは、臆舌が最初にハンマーを叩きつけて出来た、穴の周囲だけにしている。この穴が穿かれた際の強い振動が、周囲に罠がないことを教えてくれた。なにかしらの罠があるなら、振動でそれが起動してしまっていたはず。臆舌はこの穴の周囲は安全地帯だぞと、私にそれを教えるため、わざとハンマーを叩きつけていたのであろう。
「楽しそうだな、臆舌よ」
「楽しいさ!最高にな!てめぇはそうやって、逃げ回ることしか出来ねぇ。オレが仕掛けた罠を警戒して、なにも出来なくなっちまってなぁ!」
「お前の弱点は、昔から変わっておらぬな。その卑屈な人格が評価を下げていたのだと、さきほど言ったばかりであろう。お前は敵を堂々と打ち倒す、晴れやかな勝利を望まぬ。自分は安全な場所に隠れ、ゆっくりと弱っていく敵を見て、その苦しむ姿に愉悦を感じておったな」
「弱点?違うな、これがオレの武器だ!オレだけの戦い方、オレの才能、オレの生きがいだ!」
「否定などしておらぬ。その通り、この戦い方がお前の才だ。だが、やはり、それがお前の弱点なのだ」
「さっきから意味分からねぇこと言ってんじゃあねぇ!何が言いてぇんだ、てめぇはよお!」
「お前の本体は、最初からここにおらぬ」
「え……?」
臆舌の攻撃が止まった。その表情は無であった。
「お前の策は素晴らしい。敵から反撃の機会を奪い、お前だけが一方的に攻撃出来る状況をつくる。それだけならよかったのだ。そのまますぐに敵を仕留めてしまうのならよかったのだ。だがお前はその卑屈さゆえに、目的を勝利ではなく、敵の苦しむ顔を見ることに変えてしまっておる」
「……だから、なんだってんだ?それでなんで、オレの本体がここにいないなんて言える?」
「臆舌よ、私がこれからする発言は、お前を激昂させるであろう。しかしあえて言葉にしよう」
「……なんだよ?」
「お前は、昔よりも臆病になったな」
何かが砕ける音がした。少しして音の正体が分かった。歯だ。臆舌は歯をくいしばり、己の歯をへし折っている。過剰な怒りは痛みを消し、その刃は暴走し自身を傷つける。
「黙れよ、なぁ、黙れよ」
「お前は魂を分離するという力を得たばかりに、その臆病さを加速させてしまったのだ。絶対に傷つけられない場所に隠れることが出来るようになってしまった。裏を返せば、その安全地帯に自分がいると敵に教えてしまっておるのだ。お前の本体がいるのは、この砦の隣だ。火が掲げられていなかった方の砦。そこであろう?」
「黙れって」
「どうやら私の見当違いだったようだ。お前は何一つ、強くなってなどいなかったのだな。結局お前には、私の前に堂々と立つ勇気がないのだ。こそこそと本体が隠れていることが、その証拠であろう」
「黙れ!!」
ハンマーが一斉に襲い掛かってきた。ただの力任せの打撃。反射に任せるだけで回避可能な、駄々をこねる幼児のような攻撃。臆舌は冷静さを欠いておる。時間を稼ぐために、挑発しそうさせたのだが、こうも精神が未熟なままだったか。
臆舌の行動原理は、昔から変わっておらぬ。全ては己の劣等感を払拭したいだけなのだ。卑屈な自分を、臆病な自分を、自分自身で受け入れたいだけなのだ。
卑屈な人格を、言葉という武器に変えた。そして臆病な性格を、策略という武器に変えた。勇敢なだけで罠にかかり死んでゆく戦士より、自分の方が優れた存在なのだと、必死に己に言い聞かせておる。
「あぁ、そうだ!オレの本体がいるのは向こうの砦だ!だがお前に何が出来る!?全部教えてやるよ、この砦のあらゆる場所に罠を仕掛けておいた!てめぇが攻めてこようが逃げようが、絶対に殺してやれるようにな!オレの本体の場所が分かったところで、てめぇはそこには行けねぇんだよ!てめぇは絶対にオレには勝てねぇんだ!!」
「今その砦を攻めている者がおる。ムクという私の仲間だ。私も力に頼るばかりでは生き残れぬのでな。あらかじめ策を用意しておいたのだ。まさか魂を隠すなどということをされるとは、予想していなかったがな。せいぜい指揮官が隠れておるだけ、くらいだと考えておった」
「馬鹿が!オレの本体は、ここにいるオレより強いぞ!その仲間とやらに勝てるわけねぇだろうが!!」
「いいや、お前は惨敗する。お前はこれから、悪夢を見ることになる」
次回へ続く……




