第5話 聞こえてはいけない声
四歳で川に呑まれ、声に救われた僕。
一年が過ぎ、年中から幼稚園に通い始めた。
新しい友達との日々は楽しくもあったが、同時に“自分にしか聞こえないもの”のせいで、数え切れないほどの衝突が待っていた――。
1 幼稚園のはじまり
この地域の幼稚園には年少がなく、僕は年中から入園した。
新しい制服に袖を通し、少し大きめのリュックを背負った自分は、鏡に映る姿をどこか誇らしく思った。
兄たちのように落ち着いてはいなかったけれど、背丈だけは順調に育っていて、クラスでは後ろから三番目くらいの大きさだった。
クラスは三つ。けれど最初のうちは、ほとんど同じ組の子としか遊ばなかった。隣に住む幼馴染の女の子は別のクラスになり、少し寂しかった。
それでも、新しい友達はどんどんできた。泥遊びに砂場、かけっこ。幼稚園は毎日が冒険で、僕は笑顔を絶やさなかった。
2 すれ違いの始まり
そんなある日、一人の友達が僕のすることにいちいち口を挟むようになった。
「それは違う」「やめろよ」「下手だな」
最初は気にしなかった。けれど繰り返されると腹が立つ。
あるとき、とうとう僕は手を出してしまった。
相手が泣いた瞬間、先生が飛んできた。
「だめでしょう!」
僕は言い返した。
「こいつが文句ばっかり言うから!」
けれど友達は涙を流しながら首を振った。
「言ってない」
先生は困った顔をしながら、周りの子たちに尋ねる。
「いま、何か言ってた?」
「ううん、何も言ってなかった」
他の子も口をそろえた。
僕は納得がいかず、また飛びかかった。
「嘘つくな!」
でも先生に押さえられ、叱られたのは僕の方だった。
3 繰り返される喧嘩
次の日になれば、僕はケロッとしてまた遊んだ。相手も一緒に笑った。
けれど遊びの最中にまた文句が聞こえる。
「バカだな」「また失敗する」
怒りが込み上げて、殴り合いになる。
泣くのは決まって相手。叱られるのはいつも僕。
先生も困っていた。
「どうしてすぐ怒るの? どうして手が出るの?」
僕は必死に説明する。
「だって、いつも文句言ってくるから!」
でも誰も信じてくれなかった。
そのうち、周りの友達は僕を「すぐ怒る子」「キレやすい子」と呼ぶようになった。
僕は胸の奥でモヤモヤを抱えながら、それでも遊びをやめられなかった。
4 母の困惑
やがて先生から両親に報告がいった。
家に帰ると、母に強く叱られた。
「どうして手を出すの! 何回言ったらわかるの!」
僕は反論した。
「だって、あいつがいつも文句ばっかり言うから!」
母は頭を抱えた。
当時の母の困惑は、今ならわかる。だって、相手は本当に何も言っていなかったのだ。
僕だけが、声を聞いてしまっていた。
5 後になって知ったこと
そのことに気づいたのは、三十代になってからだ。ある人に言われた。
「あなたは、人の口に出さない思いまで拾ってしまっている」
その瞬間、幼稚園の光景が蘇った。
泣く友達。困惑する先生。叱る母。
すべてが腑に落ちた。
あのとき聞こえていたのは、口から出た言葉ではなく、心の声だったのだ。
6 いま子を持つ親として
いま思う。
もし自分の子供が、やたらとトラブルを起こしているとしたら。
もし言い分が妙に食い違っているとしたら。
その子の言葉をよく聞いてやってほしい。
僕のように、「聞こえてはいけない声」に翻弄されているのかもしれないから。
幼稚園で始まった小さな喧嘩の連続。
それは、僕にしか聞こえない“心の声”が原因だった。
誰にも信じてもらえず、自分でも理解できなかったこと。
何十年も経ってようやく腑に落ちた真実。
記憶の断片が、今になってやっと繋がることがある。




