第4話 川の底で聞いた声
三歳までの僕は、“声”に導かれるように守られてきた。
けれど四歳の夏、初めてその声を無視してしまった。
その代償は――生死を分ける川の事故。
そして、そのとき聞いた最後の「声」の言葉が、今も胸に残っている。
1 冒険心と逆らった日
四歳になった僕は、調子に乗っていた。
三輪車での冒険も、いちごのおばあちゃんの甘さも、いつも「声」に守られていた。だから、危ないことでも自分にはできると信じ込んでいた。
その日は、大雨の翌日。
友達の家へ遊びに行こうと歩いていた僕の前には、大きな川があった。縦三メートル、横五メートルほどの川幅。白いガードレールのように三本の横棒が並んだ柵があり、子供たちはその裏側に手をかけ、川を背にしてつたい歩きをするのが流行っていた。
僕も何度もやった。怖さよりも、冒険のスリルが勝っていた。
けれどその日は、川が膨れあがっていた。茶色く濁った水が轟々と流れ、洞窟のような暗がりへ吸い込まれていく。
手を伸ばそうとした瞬間、頭の奥で声が鳴った。
「――ストップ」
けれど僕は鼻で笑った。
「平気だよ。なんでもできるんだから、じゃましないで」
声は必死に「だめだ」と言っていた。けれど僕は耳をふさぐように、無視して柵を握った。
2 川に呑まれる
三本あるパイプの真ん中に体重をかけた瞬間――。
ガクン、と音がして横棒が外れた。誰かがいたずらで緩めていたのか、遊びすぎて壊れていたのか。僕の体は、パイプごと濁流に吸い込まれた。
冷たい水。息ができない。顔を水面より下に押しつけられ、視界はぼやける。
泳ぎなんて知らない。四歳の体は沈むしかなかった。
そのとき、走馬灯のように記憶が流れた。
幼馴染と遊んだ庭。いちごのおばあちゃんの笑顔。母の叱る声。
一瞬のうちに、すべてが細切れのコマのように浮かんでは消えた。
――たぶん、僕は一度ここで死んだのだ。
3 最後の励まし
右手を伸ばし、水面のひかりを掴もうとしたときだった。
「大丈夫。お前は泳げる。まだここで死んじゃだめだ」
低くて強い声が、頭の奥で響いた。
「この先、お前を待っているものがたくさんいる。わしを信じろ。もがけ、泳げ!」
僕は必死に手足を動かした。服が水を吸って重い。喉が焼ける。
「そうじゃ、頑張れ。掴むんじゃ」
声に従って必死に進むと、指先に鉄の冷たさが触れた。川の点検用のハシゴだった。
流れに押されながらも、必死にしがみつき、体を持ち上げる。肺が破れそうに空気を吸い込み、全身が震えた。
4 別れの言葉
その瞬間、声がふっとやわらいだ。
「ちょっと力を使いすぎた。もう、これからは届きにくくなるぞ。お前を待っているもののために、生き急ぐな。落ち着いて考えて行動せい」
声は遠くなっていく。
「ハシゴを上がったら、大きな声で助けを呼ぶんじゃ。それじゃあな……」
僕は泣き叫んだ。声はかすれ、胸が痛い。けれど、その泣き声に気づいた近所のおばさんが駆けつけてくれた。
「大丈夫!? しっかり!」
優しく抱きしめられた腕のぬくもりが、現実へと引き戻してくれた。
やがて警察が来て、事故の状況を確認し、大人たちは顔を青ざめていた。数日後、川には分厚いコンクリートの蓋がされた。もう誰も連れて行かれないように。
5 声の沈黙
それからだ。
あの声は聞こえなくなった。
僕の命と引き換えに、あの声は消えてしまったのかもしれない。
あるいは、もう自分で考えなければならない年齢になったからなのか。
ただひとつ確かなのは――、
あの日の声がなければ、僕は生きてここにいなかった。
そしてその沈黙は、今も胸の奥で、冷たい川の流れのように残り続けている。
子供心に「自分は守られている」と信じきった結果、初めて声を無視してしまった――。
四歳のあの川の出来事は、いま思い返しても背筋が震えます。
そしてその日を境に、あの声は遠のいていきました。
「命を繋いでくれた最後の言葉」――そう呼んでもいいかもしれません。