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第3話 いちごのおばあちゃん

前回は三輪車の小さな冒険と、頭に響く“声”の導きを描きました。

今回は、三歳の頃にもうひとつだけ強く残っている出来事――「もう一軒の隣」に住んでいた、身寄りのない優しいおばあちゃんの話です。甘いお菓子の記憶と、春の手前で訪れた別れ。やさしい記憶ほど、静かに怖いことがあります。


1 もう一軒の隣


 うちの家の左隣には幼馴染の女の子が住んでいて、右隣には身寄りのないおばあちゃんがひとりで暮らしていた。板塀は日向で色が抜け、縁側には鉢が並んでいる。洗いたての雑巾の匂いと、だしの香り。冬は石油ストーブ、夏はすだれ。昭和の景色が四角い窓にきれいに収まっていた。


 おばあちゃんは、僕に甘いものをくれた。せんべい、黒糖菓子、芋けんぴ。かじると歯に絡む甘さがじんわり広がる。いまでもときどき同じ味を口にすると、舌の奥から家の並びと縁側の湿り気が立ち上がる。人は忘れられるまで、生き続ける。甘い匂いのかたちで。


 僕はよく幼馴染と家の前でままごとをして、時には冒険ごっこをした。泥をこねてお味噌汁、小石を並べておにぎり。おばあちゃんはいつも笑って、そっと皿の代わりに小さな木片を渡してくれた。「熱いで」と言いながら、湯呑に白湯を注いでくれることもあった。


2 いちごの鉢


 僕がいちご好きだと知ると、おばあちゃんは縁側にいちごの鉢を増やした。葉に朝露が光る。白い花の隣に、まだ青い小さな実。赤く色づくと、朝のうちに摘んで「今日は甘いで」と僕の口に運んでくれる。冷えた甘さが舌をすべり、種が歯にあたってしゃり、と鳴る。


 僕は「いちごのおばあちゃん」と呼んだ。お礼に肩を叩く。三歳の小さな手のリズムでも、おばあちゃんは「うまいなぁ」と目を細めた。

 母は礼を言いに一緒に行く。顔を出すそれがそのまま「生存確認」になっていた。昭和の隣人づきあいは、挨拶にいろんな意味を含めていた。


3 わかっていたこと


 その冬、僕は感じてしまった。――おばあちゃんは春まで生きられない。

 感情ではない。頭の奥で、淡い文字のように「春の手前」という印が灯る。誰に教わったわけでもないのに、そこだけが当たり前の事実みたいに固かった。


 母が言った。「あの人ね、身内がいないから、あなたを孫みたいに可愛がっとるのよ。あなたの成長を見るのが楽しみって、長生きせなって言うてるんよ」

 僕は、みんな知ってることを確認するみたいに答えてしまった。「でも、おばあちゃんは春の前にいなくなるよ」

 母の顔が強ばった。

「縁起でもないこと言わんの。ようしてもろうてるのに。絶対、おばあちゃんには言っちゃだめよ」

 その「絶対」は、いつもの優しい声ではなく、釘の先みたいに硬い音をしていた。


 その夜、天井の節穴から細い糸が降りてきて、僕の指に触れた。声は言わなかった。ただ、ストップとだけ、息のような合図が通り過ぎた。


4 こたつとみかん


 年が明け、風の色が少しだけ変わる。ある日、僕はいつものように「となり行ってくる」と母に言って、おばあちゃんの家の襖を開けた。

 こたつの上にみかんが山になっている。四角いこたつ布団に潜り、指先を温めると、世界はすこし甘くなる。僕のお目当ては、そのみかんだった。

 おばあちゃんは笑って「食べ、食べ」と言い、僕は皮をむいた。白い筋を丁寧に取ると、薄皮が透けて見える。房を口に入れると、冬の酸味が舌の脇をきゅっと押した。


 肩を叩く。二十、三十。おばあちゃんの肩は軽くて、骨は小さく、皮膚は紙みたいに薄い。叩くたび、指に反響が返ってきて、それが音より先に胸へ残った。


 ぽつりと、おばあちゃんが言った。

「わたしはな、頑張って生きてきたけど……あんたが大きくなるまで見たかったけどな……そんなに長くは生きられんかもしれん。そろそろ、お迎えが来るかもねぇ」

 僕は何も言わなかった。言葉を選ぶ前に、喉の奥に何かが落ちて、そこから動けなくなったからだ。

 代わりに、こたつの中の僕の足に、やわらかい風が触れた。見えない指が「よし」と一度だけ撫でていった。


5 春の手前


 数日後、朝の町内アナウンスで名前が呼ばれた。喪の知らせのあの音程。母が短く息をのむ。

 おばあちゃんは、春を待たずに冷たくなっていた。


 葬式の席で、僕は黙っていた。親戚は少なく、近所のおばさんたちが列を作った。手を合わせる音が、芋けんぴを折る音に似ていると思った。棺の中にいちごの鉢から摘まれた赤い実が一粒置かれた。小さな種の並びが、涙の粒みたいにきれいだった。


 帰り道、板塀の影が長い。縁側の鉢は、朝露がなくなって乾いている。僕はそっと葉を撫でた。葉脈が指先に地図を描き、どこにも行き場のない道がそこにあった。


 家に戻ると、台所に黒糖菓子の袋がひとつだけ残っていた。母は静かに皿にあけ、「最後にもろたやつ」と言って僕にひとつ渡した。噛むと歯にくっつき、喉の奥で甘さが長く居座る。

 そのとき、頭の奥で声がかすかに笑った。

 ――よう味わい。覚えていられる。

 それは誰の声か分からない。けれど、忘れないための合図であることだけは分かった。


6 生き続ける味


 それから何年も経っても、せんべいを食べるたび、黒糖の角を舌で転がすたび、いちごの小さな種が歯に当たるたび、おばあちゃんが縁側に座り直す。

 人は、忘れられるまで生き続ける。

 僕が覚えている限り、いちごのおばあちゃんはここにいる。


 そして時々、甘いものを噛む拍子に、あのストップが胸の奥で微かに点る。あの冬の合図は、僕の中で“止める勇気”として居場所を持った。

 小さな記憶の中に、小さな安全がしまいこまれている。

 それを見つけるたび、僕はこたつ布団の温度と、みかんの酸味と、いちごの赤をひとかけらずつ思い出す。


読んでくださりありがとうございます。

“怖さ”は、何も血や闇だけに宿るわけではなく、やさしさの裏側にも潜む――そう思っています。

いちごのおばあちゃんのことは、いまでも甘いものを食べるたびに蘇る記憶です。

次回からはいよいよ幼稚園〜小学校へ。耳に残る「合図」が、少しずつ言葉と意味を帯びていきます。

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