第2話 三歳の影
前回に続く不思議体験譚の第2話。
今回の舞台は、三歳の夏。
やんちゃ盛りの僕と、隣の幼馴染の小さな冒険。そして、その背中を押すように聞こえてきた“声”の正体は……。
第一章 三男坊の夏
三人兄弟の末っ子として生まれた僕は、兄二人とは性格がまるで違っていた。
長男は真面目で、いつも大人に「いい子だね」と褒められる。次男も素直で、手を焼かせることはほとんどない。
けれど、三男坊の僕はというと――やんちゃで元気、落ち着きがなく、目を離すとすぐどこかへ駆け出してしまう。
「本当に同じ親から生まれたのかしらねぇ」
母はよく苦笑しながらそう言った。
祖母は「末っ子はこんなもんよ」と庇ってくれたけれど、僕は大人たちを困らせてばかりだった。
そんな僕にも仲良しの幼馴染がいた。隣の家に住む女の子で、僕と同じ年。性格は正反対で、とても控えめで大人しい子だった。
だからこそ一緒に遊ぶときは、僕が勝手に先導し、彼女はおずおずと後ろからついてくる。僕にとってはそれが当たり前だった。
その夏も、僕らはいつものように庭先や路地で遊んでいた。三輪車は僕のお気に入りで、赤く塗られた鉄の車体は少し錆びついていたけれど、僕の宝物だった。
母の目の届く範囲で遊んでいるはずだった。――少なくとも、大人たちはそう思っていた。
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第二章 声の導き
僕には、誰にも言えない秘密があった。
小さな頃から、頭の中に声が響くのだ。
それは、危ないときに「ストップ」と制止してくる声。
あるいは、「行け」「大丈夫」と背中を押してくれる声。
それが誰の声なのか、幼い僕には分からなかった。けれど、みんなにも聞こえているものだと信じて疑わなかった。
その日、その声はいつもよりはっきりとした響きで、僕に話しかけてきた。
「今日は冒険に行こう。大丈夫、行ける」
僕は幼馴染に向かって言った。
「ねえ、公園に行こうよ」
「え……あそこ? お母さんと行くところでしょ?」
「大丈夫だよ! ほら、声が“行け”って言ってる」
彼女は不安そうに眉をひそめた。
「怒られない?」
「平気平気!」
僕は三輪車の後ろのステップに彼女を乗せた。小さな足がぎこちなく鉄板にかかる。
ペダルを踏み込むと、車輪がぎしぎしと音を立てて回り始めた。
冒険が始まった。
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第三章 遠い公園への道
目的地の公園は、家から一キロ以上も離れていた。
三歳の子供にとって、それは途方もない距離だ。しかも二人乗り。ペダルは重く、道はでこぼこしている。
汗が額をつたうたび、頭の奥の声が囁く。
「そのまま進め。大丈夫、経験だ」
道端の草むらからは蝉の声が響き、アスファルトの照り返しは容赦なく肌を焼いた。
幼馴染はときどき後ろから不安げに言う。
「……ほんとに行けるの?」
「大丈夫! 声が言ってるんだ!」
僕の中では、その声が絶対だった。
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第四章 踏切の試練
やがて、僕らは最大の難関――踏切に差しかかった。
赤いランプはまだ光っていない。遮断機も上がったままだ。
その瞬間、頭の奥で声が響いた。
「一度、降りなさい。そして二人で三輪車を押して渡るんだ。今なら電車は来ない」
僕はためらわずに幼馴染を降ろし、二人で三輪車を押した。
重たい鉄のフレームが砂利に引っかかり、何度もつまずきながらも力いっぱい押した。
向こう側に渡りきった瞬間――カンカンカン、と警報音が鳴り響き、遮断機がゆっくりと降りてきた。
遠くから電車の轟音が近づいてくる。
幼馴染は息を切らして叫んだ。
「……すごい! 間に合った!」
僕は胸を張った。
「だから言ったろ? 大丈夫なんだって!」
その顔は誇らしげだった。だが本当は、足は震えていた。
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第五章 母たちの恐怖
一方その頃、家では地獄のような騒ぎが起きていた。
母が三輪車の姿を見つけられず、庭を探してもどこにもいない。
「いない! この子がいない!」
隣の母親も「うちの子も……!」と青ざめた。
二人は必死に近所を探し回った。けれど、どこにも姿はなかった。
時間が経つごとに焦りは募り、「警察に連絡しよう」と電話の前で震える。
声を張り上げて名前を呼んでも、返事はなかった。
彼女たちの頭には最悪の想像が浮かんでいた。事故、誘拐、川への転落――。
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第六章 帰還と叱責
公園でたっぷり遊んだ僕らは、腹が減ったので帰ることにした。
帰り道、踏切はちょうど開いたところで、すんなりと渡れた。
声は何も言わなかった。ただ、背中を押すように静かに見守っている気配だけがあった。
家にたどり着いたとき、母と隣の母は電話の前で立ち尽くしていた。
「ただいまー!」
無邪気な声が響くと、二人は同時に振り返った。
次の瞬間、雷鳴のような叱責が降り注いだ。
「どこ行ってたの!」「心配したんだから!」
僕はもちろん、付き合わされた幼馴染まで一緒に怒られた。
泣きそうな彼女を見て、さすがに僕も申し訳なく思った。
だがそのとき、頭の奥で声が小さく笑った。
「……これも経験だ」
その一言が、妙に温かく、そして不気味に響いた。
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第七章 未来への影
大人になった僕は、あの日を思い返すたびに震える。
もし踏切で立ち止まっていたら。もし声に従わなかったら。
僕らの冒険は、全国ニュースになるような悲劇に変わっていただろう。
――あの声は一体誰だったのか。
祖父なのか、それとも別の何者か。
ただ一つ確かなのは、三歳の夏に聞いたその声が、僕の“最初の記憶に残る不思議体験”だったということだ。
幼い頃の冒険は、大人から見れば無謀そのもの。
けれど僕にとっては、確かに“声”に導かれた一歩だった。
これが後に続く数々の体験の、最初の記憶となる。