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第1話 七十四歳の約束

今回から新しいホラー連載を始めます。


これまでは短編で「水底の約束」「水の客」「後部座席の真ん中」などを描いてきましたが、今作は少し違います。

僕自身の幼少期からの体験をベースにした、不思議で少し怖い「ライフストーリーホラー」。


第1話は「祖父の死の予言」と、俺がこの世に生まれ落ちた日の話から始まります。

どうぞお楽しみください。


幕一 笑う祖父と、夏に生まれた俺


 昭和の終わり。団扇で蚊を追いながら、縁側に腰かけると夜の風に稲の匂いが混じったころ、うちの祖父は決まって同じことを口にしていた。

「わしは七十四で死ぬ。迷惑かけるくらいなら、すうっと行ってやるわ。わっははは」

 笑い声は大きいのに、不思議と外には漏れない。柱や天井はその声に馴染み、まるで家そのものが長年聞き慣れているかのようだった。祖母は団扇を止めて「何ゆうとるん、縁起でもない」と肩をすくめる。叔父は麦茶をすすりながら「はいはい、また始まった」と笑い流す。

 誰も本気にはしていなかった。そうやって扱うのがいちばん楽だった。


 俺はそのとき、まだ生まれていなかった。夏の熱気の中にも影を落とさない、どこにもいない存在だった。

 けれど不思議なことに、祖父の声は記憶の底にまで沈みこんでいる。七十四。数字の骨みたいな硬さだけが、胎の外からすでに響いていたように思う。


 やがて夏が来て、俺は生まれた。病院の窓には強い日差しが差し込み、白いシーツに影を作った。蝉の声がかまびすしく、産声よりも外のざわめきの方が大きかったという。

 退院して一月。小さな体で初めて田舎へ連れ帰られたとき、祖父と対面した。

 縁側で日焼けした腕を組んでいた祖父は、俺の姿を見て目尻を深く折った。

「ほぉ……この子は特別なもんを持っとる。わしによう似とるわ」

 俺は祖父の胸に抱かれ、泣きもせず目を丸くしていたらしい。

「これで最後の孫じゃ。ここまで生きてきた甲斐があった。……思い残すことは、もうない」

 祖父はそう言い、団扇をぱたりと畳んだ。笑い声が天井に当たり、ゆっくり返ってきた。


 それが合図だったと、そのとき誰も気づかなかった。


 祖父は派手好きで、田舎に似合わず洒落た人だった。帽子はつばの角度にこだわり、足袋は祭りごとに真新しいものを履く。祖母は「ほんま苦労させられたんよ」と口では愚痴をこぼしたが、声の底には微かな誇りがあった。

 夕暮れ、庭に打ち水をして「暑い暑い」と言いながらも笑う祖父。その笑いに混じって「七十四や。忘れるなよ」という数字が、風鈴の音のように繰り返された。

 誰も真剣には取り合わない。だが、今になって思えば――あの数字は冗談や虚勢ではなく、俺が生まれる時を予知していたのではないか。最後の孫と会うために、祖父は七十四という節目を無意識に選び取っていたのではないか。

 そう考えると、あの軽口のすべてが、妙に冷たく、背筋にまとわりつく。


 そして、祖父が七十四を迎えた夏。

 生まれたばかりの俺を抱いた数日後――祖父は、いつものように笑いながら「思い残すことはない」と言った。

 あまりに自然な口ぶりだったから、誰も気にしなかった。

 けれどその笑いは、静かな予兆だったのだ。

幕二 最後の一週間


 祖父が俺を抱き上げてから、一週間が経とうとしていた。

 真夏の夜風は湿っていて、蚊取り線香の煙が畳に沿って細い竜のように漂っていた。祖父はその煙を見て、「線香みたいに消えるんが一番ええの」と冗談めかして笑った。祖母も叔父も「また言うとる」と笑い飛ばした。

 けれど、その笑いにはどこか引っかかりがあった。祖父の声が少しだけかすれて、まるで別の誰かが口を借りて喋っているように聞こえたのだ。


 その週、祖父の日常はほんの僅かに乱れた。

 庭の砂利は、いつもなら朝のうちに熊手で均されているのに、二日ほど白い足跡が乱雑に残っていた。

 犬の水も替えられていなかった。祖母は「暑さでだるいんやろ」と言ったが、祖父の顔色は不思議と悪くはなかった。むしろ血色がよく、日に焼けた頬に艶が差していた。

 ただ、目の奥だけが少し遠い。縁側に座って俺をあやすときも、祖父はまるで俺ではなく、その先の見えない誰かに手を振っているように見えた。


 三日前のことだ。

 祖父は夕方、急に立ち上がり、柱時計をじっと見つめてこう言った。

「こいつも古いなぁ……針が止まるんも近いわ」

 祖母は「買い替えよか」と軽く返したが、祖父は首を振って笑った。

「いや、止まるときは止まる。人も時計も、同じや」

 その言葉のあと、時計の振り子はいつもより重たく揺れて見えた。チクタクが妙に耳に残り、夜になっても胸の奥で鳴り続けた。


 二日前、祖父は畑に出ず、縁側からじっと夏空を見ていた。

「雲が……迎えに来とるようや」

 そう呟いたという。祖母が「誰が迎えに来るん」と笑うと、祖父は少し黙り込み、やがていつもの大声で「七十四じゃからな!」と叫んだ。

 その声に蝉の鳴き声が一瞬だけ止んだ。静寂が庭に広がり、すぐまた喧騒に戻った。だが、その「一瞬の沈黙」を聞いたのは俺の家族だけだった。


 そして前日の夜。

 祖父はいつもより早く布団に入った。

「お父ちゃん、早いねぇ」と祖母が声をかけると、祖父は枕に頭を沈めたまま、「明日はゆっくり寝かせてもらうけぇ」と笑った。

 その声には、もう力がなかった。

 祖母は首をかしげたが、深く考えなかった。長年一緒にいると、違和感も「そういうもの」として飲み込んでしまうのだ。


 そして――翌朝。

 祖父は起きてこなかった。

 朝食の湯気が立ちのぼり、茶碗の中で味噌汁が静かに冷めていった。

 祖母が布団の前に立ち、「お父ちゃん、もう朝よ」と声をかけても反応はない。

 叔父は「珍しいこともある」と笑い、新聞をたたんだ。

 だが昼を過ぎても、祖父は布団から出てこなかった。

 ようやく叔父が布団をめくったとき、祖父の胸はもう上下していなかった。


 その顔は、不思議なほど安らかだった。

 まるで予定通りに、用意された時間をきっちりと守って、眠り込んだかのように。

 七十四の夏、祖父は本当に「すうっと」逝ったのだった。


 その日を境に、家族はよく口にするようになった。

「やっぱりお父ちゃんは知っとったんやな」

 俺はまだ赤子で、その光景を覚えていない。

 けれど――後に思い返すたびに、こう考えずにはいられない。

 祖父は「七十四で死ぬ」と言い続けていたのではなく、俺と会うために七十四を選んでいたのではないか、と。

 最後の孫と顔を合わせ、その瞬間を待っていた。

 そのための七十四歳だったのだ。


 そう考えると、祖父の笑い声も、軽口も、背筋を冷たく撫でる。

 あの数字は冗談ではなく、招かれた予兆だったのかもしれない。

幕三 死後に残った声


 葬式は、真夏の熱気のなかで進んだ。蝉の鳴き声が読経の合間を埋め、白い半被に汗の地図が広がっていく。

 派手好きだった祖父のことだ、泣き笑いの混ざった人だかりができる。遠い親戚が「えらい綺麗な顔で眠っとる。ほんま、七十四で“すうっと”やったなぁ」と口々に言い、近所の連中は「言い癖が有言実行やなんて、あの人らしい」と笑った。

 笑い声は、どれも少し乾いていた。笑い終わった後の、ほんの一瞬だけ落ちる静けさに、誰も気づかないふりをした。


 俺はまだ赤子で、白い襦袢のような肌着に包まれ、祖母の腕の中にいた。

 記憶はないはずなのに、何度も思い出す光景がある。

 線香の煙がまっすぐに立ちのぼり、途中でふっと折れて横へ流れる。折れたところだけ、見えない指で押されたみたいに歪んでいる。

 その歪みの根元で、小さな笑い声が鳴る。

 低く、乾いた、けれどやさしい笑いだった。


 棺の中の祖父は、確かに安らかに見えた。

 だが蓋が閉じられる前、祖母が祖父の指を撫でた時、指先がごくわずかに返したように見えた。

 錯覚だ。そう片づけるには簡単すぎる「動き」だった。

 祖母は何も言わなかった。泣かなかった。代わりに、袖で汗を拭い、喉の奥で「よう頑張った」とだけ呟いた。


 骨を拾い、帰宅して、家の中のものを少しずつ元に戻す。

 祖父の湯呑は棚のいちばん手前に戻され、帽子は柱の釘に掛けられた。

 その夜から、家の空気はほんの少しだけ変わった。

 風が通る向きが、先に誰かを通してからやって来る。団扇で扇いだ風が、一拍遅れて頬に落ちる。

 柱時計のチクタクは、以前より半音低く鳴った。ふいに止まるのではない、深いところへ潜って鳴っているのだ。


 祖母は、喪の片付けの合間に時々こう言った。

「お父ちゃんは、言うたこと守る人やった。ええ人やったけど、派手で困らせることも多かったわ。……でもね」

 そこで言葉が止まり、目だけが縁側の外を見た。

「でもね、最後の最後に、えらい静かにして行ったんよ」


 静か――その言葉は、家のあらゆる隙間に染みこんだ。

 静けさは、ただ音が消えることじゃない。そこに「誰かがいない」とはっきり分かるかたちで、輪郭を残すことだ。

 祖父がいなくなったあとの家は、輪郭ばかりがやけに明瞭で、内側が少し空洞だった。器だけが残って、中身がどこかへ移ったような。


 その空洞の内側に、俺は耳を当てていた。

 赤子の耳は、言葉を知らない分だけ、音の先を拾う。

 祖母の足音の前にある「歩こうと決める気配」、柱時計の振り子の後ろにある「時間の重さ」、そして線香の煙が折れる瞬間にだけ鳴る、低い笑い。

 ――よう似とるわ。

 それは、祖父の声に似ていた。

 似ていた、という以外に表現がなかった。声色や高さではなく、笑いの置き場所が同じだったからだ。


 夜、家族が寝静まると、祖母はひとり仏間に座って、うすい麦茶をすすった。

 風鈴が二度鳴り、三度目は鳴らなかった。

 祖母はその沈黙に小さく頷く。

「聞いとるかね」

 返事はない。

 けれど、柱の節目に影が寄って、節の黒さがほんの少し濃くなった。

 祖母はそれを見ない。見ないかわりに、畳の目を二列数えて、そこで指を止めた。

 そうして「見えないものの分だけ」日常を少しだけずらして、暮らしは続いた。


 俺はといえば、昼間はよく眠り、夜になると目を開けた。

 仏間の灯りに照らされると、天井の板目が川の流れみたいに見える。

 その流れのどこかで、いつも同じ渦が生まれる。

 渦の中心に、ごく細い糸が見える。

 糸は天井の節穴から下りてきて、俺の小さな指に触れ、すぐに戻っていく。

 泣きたくはならない。むしろ安心する。

 糸の先にいる誰かが、俺の指の形を確かめているだけなのだ、と分かるからだ。


 数日後、祖母が俺の寝顔を覗き込み、ふと眉を上げた。

「……この子、笑いよる」

 赤子はよく理由もなく笑う。眠りながら口元が動く。

 だがその瞬間、柱時計のチクタクが一拍だけ欠けた。風鈴が鳴らず、線香の煙がまた横へ折れた。

 祖母は俺の頬を指で撫で、「お父ちゃんに似とるんやろか」と呟いた。

 似ているのは顔ではない。笑いの置き場所だ。

 笑いが、家の音の間に、ぴたりとはまる。


 やがて、親戚も近所も、祖父の死をきれいに笑い話に変えた。

「七十四で、言った通りに逝くなんて立派や」

「最後の孫に会うまで粘るなんざ、粋やなぁ」

 粋、という言葉が家の中に増えた。

 けれど深夜、台所の蛇口の先で、水滴が落ちる前に戻ることがある。

 ぽたり、と落ちるはずの音が、喉の奥へ吸い上げられるように消える。

 そのときだけ、俺は胸の奥で小さな笑い声を聞く。

 ――すうっと、行く。

 祖父が選んだ身じまいの仕方が、家の仕草にまで映ってしまったのだ。


 四十九日の少し前、祖母は仏間に新しい座布団を置いた。

 誰も座らない、薄い灰色の座布団。

「客が来るけぇ」と祖母は言う。

 叔父が「誰が?」と訊くと、祖母は扇子を閉じて、「よう似た人」と答えた。

 その夜、座布団の縁が一度だけ沈み、すぐ元に戻った。

 祖母は気づかないふりをして、台所の方へ歩き出す。

 俺は座布団の上に浮かぶ空気の形を、眠りながら指でなぞった。

 指先に伝わるのは、硬い骨ではなく、数字の触り心地。

 七と四が、隣り合っている感覚。

 数字の骨は乾いているのに、触れると温かい。

 それは、人の覚悟の温度に似ていた。


 葬式の片付けが終わり、季節はまだ夏のまま動かなかった。

 祖父の帽子は柱の釘に掛けられたままで、日が傾くと、影だけが床に落ちる。

 その影が、ある日の夕方、ふいに見えない風に撫でられて揺れた。

 祖母はそこで初めて、小さく手を合わせた。

「……ほいじゃ、頼むで。この子のこと」

 誰に向けたとも分からない言葉だった。

 けれどその瞬間、糸はもう一度、天井の節穴から下りてきて、俺の指先に軽く触れた。

 ――よう似とる。

 笑い声が、家の全部の音の間を通り抜けて消えた。


 その夜、柱時計は一度だけ時を飛ばした。

 九時の次に、九時が鳴らなかった。

 祖母は「古いけぇ」と笑い、叔父は「直したる」と針を合わせた。

 俺だけが、その抜けた一打のところに、祖父の笑いを聞いた。

 骨みたいに乾いた数字の音が、ひとつ分、どこかへ運ばれていく。

 空いた分だけ、家の中に風が通る。

 その風は涼しく、そして、ほんの少しだけ不吉だった。


 思えば、この一週間の静けさこそが、俺の長い話の最初の足音だったのだと思う。

 祖父の笑い声は合図に似ている。

 合図は、たいてい遅れて理解される。

 俺はまだ赤子で、言葉の形を持たない。

 けれど、笑いの置き場所だけは、もう祖父と同じところにあった。


 ――これは、ここから続く話の、もっと手前の話。

 七十四という数字が家族の誰よりも先に、俺の指先に触れていった、その夏の話である。

幕四 四十九日の後に


 夏の熱気はまだ衰えず、朝から蝉が鳴き続けていた。

 祖父の四十九日を迎え、家には親戚や近所の人が集まった。白い線香の煙は絶えず立ちのぼり、仏間の座布団には人が途切れることなく腰を下ろした。


 誰もが口をそろえた。

「お父ちゃんは派手で困らせる人やったけど、最後は静かに行ったねぇ」

「七十四で言った通りに逝くなんて、やっぱりあの人らしい」


 笑い交じりの声。冗談半分、感心半分。

 けれど俺は祖母の腕に抱かれながら、別の音を聞いていた。

 線香の煙が折れるたび、ふっと低い笑い声が混じる。

 それは祖父のものに似ていた。いや、祖父そのものだった。


 夜、親戚が帰り静けさが戻ると、さらにくっきり聞こえる。

「……ストップ」

 耳の奥に、短い声が落ちる。赤子の俺には意味も分からなかった。

 だが、のちに何度もその声に命を救われることになる。

 あのとき聞いた“止めの声”は、祖父が残した最後の合図だったのかもしれない。


 四十九日のあとも、祖父の帽子は柱の釘に掛けられたまま揺れていた。

 風に撫でられた影が床に落ちるとき、祖母は小さく手を合わせて呟いた。

「……この子のこと、頼むで」

 その瞬間、俺の指先に見えない糸が触れ、やわらかな温もりを残して消えた。


 やがて季節は過ぎていく。

 俺は言葉を覚え、走り回るようになり、やんちゃと呼ばれるようになった。

 そして三歳のある日――。

 隣の子を三輪車に乗せて、こっそり大人の目を抜け出した。

 大人たちの大捜索の最中、俺の耳に届いたのは、あの声だった。

「……あぶない。戻れ」


 その声をきっかけに、俺の最初の“記憶として残る不思議体験”が始まった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


この第1話は、僕自身の「始まり」とも言えるエピソードをホラーとして再構成しました。

「祖父の死の予言」が現実となったとき、最後の孫として生まれた自分が「なにか」を受け継いだのではないか――そんな気配を今も感じています。


この先も幼少期から大人になるまでの「不思議体験」を時系列で描いていきます。

ぜひお付き合いいただければ幸いです。


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