落語声劇「猫怪談」
落語声劇「猫怪談」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約40分
必要演者数:最低3名
(0:0:3)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
与太郎:この噺の主人公。
与太郎は落語の世界だと間抜けな役どころの人物に
付けられる名前だが、例にもれずこの噺の与太郎もちょっと頭が
足りない。
大家:与太郎や甚兵衛の住む長屋の大家さん。
落語に出てくる大家さんは業突く張りだったり意地の悪い人も
いたりするが、この噺の大家さんは面倒見がよろしい。
甚兵衛:与太郎と同じ長屋の住人。すでに74という高齢だが、普段から
荷を担いだりしているせいか、まだ足腰は達者。
与太郎の父:与太郎とは血がつながっていない。
生みの親が病死後、路頭に迷っていた与太郎を引き取って
育てる。
町民:与太郎と同じ町内の住人。
1セリフのみ。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
与太郎:
大家:
甚兵衛・与太父・町民1・語り:
※枕は大家以外のどちらかが適宜兼ねてください。
枕:皆さんは猫は好きでしょうか。
現代において猫は我々人間にとって癒しの対象であったり、
犬と同じく家族の一員として扱われています。
しかし、ちょいと江戸時代までさかのぼると、猫は老いると化け猫、
あるいは猫又になると信じられていました。
猫が妖怪視されたのは、夜行性で目が光ったり、血や油を舐めること
がある、足音を立てずに歩き、爪は鋭く、敏捷性に優れているなどが
あったためと言われています。
化け猫のなす怪異というものは、人に化ける、人の言葉をしゃべる、
人間を祟ったり死体を操ったりするなどがあるとか。
化け猫の伝説は各地に残されていますが、最も有名なのが佐賀、有馬
、徳島にある猫騒動とも呼ばれる日本三大怪猫伝であります。
そして当時の政治、経済の中心地であったこの江戸でも、そういった
怪異は存在したようで。
大家:あ、おい与太郎。
与太郎:あぁ…誰だと思ったら大家さんで…。
へへへ、大家さん…へへへ、おやおや。
大家:何を言ってやがる。呑気な事を言ってちゃいけねえ。
いま海苔屋の婆さんに聞いて驚いた。
おめえんとこの親父もとうとうおめでたくなった、って。
与太郎:え、何が?
大家:いや、親父がおめでたくなったんだろ?
与太郎:親父…っておとっつぁんかい?
へへへ…噓だィ、おめでたくなんぞなりゃしねえや。
大家:そうか…。
何を言ってやがんだなあの婆も。そそっかしいじゃねえか。
いや確かにそう言ったんだ。
俺の聞き違いじゃないと思うんだが…
まぁまぁ、気を悪くしなさんな。
そうか、じゃあまだ存命でいなさるのか。
与太郎:え?
大家:存命でいなさるのか?
与太郎:…うん~…。
大家:はっきりしなよ。まだ存命なんだろ?
与太郎:存命…なんかね?うーん…。
今朝っから何にもものを言わねえでいなさる…ふふ。
そばへ行ってみたら冷たくなっていなさる…へへ。
息もしねえでいなさる。
大家:何を言ってやがる。じゃ、死んでいなさるんだろ。
与太郎:へへ、そうしていなさるか。
大家:だから何を言ってるんだ。
じゃやっぱりおめでたくなったんじゃないか。
与太郎:へえ…死ぬとなにかい大家さん、めでたいってのかい?
大家:なにも死んでめでたいわけじゃないが、人間がは61になると
本家帰りと言うな。それから先に生きた者はおめでたいと、
そう言っていい。おめえの親父はいくつだ?
与太郎:…63かな。
大家:それ見ねぇ、やっぱりおめでたいと言っていいんだよ。
与太郎:あ~、そうかい。
じゃ、61から先になると死んでおめでたいってんだ、へえぇ。
大家さんはいくつだい?
大家:俺は…って、変なとこで年を聞くな。
与太郎:へへ、聞いたっていいじゃないか。いくつだい?
大家:~~いいよ。
与太郎:いいよってことはねえよ。いくつだい?
大家:うるさいね、そんな事はどうでもいいだろ。
与太郎:へへへ、良かァねえよ。
大家さん大家さんて威張ったって、年がねえんだろ。
大家:何を言ってるんだ。
年のない奴があるか。
与太郎:じゃあいくつだい?
大家:しつこい奴だな。
今年で66だ。
与太郎:66!へえ、じゃあやっぱりおめでたいんだね。
いつおめでたくなる?
大家:何を言やがる。
人の死ぬのを待ってる奴があるか!
で、どうした仏様のなりは。ちゃんと支度したのか?
与太郎:?なんだい、支度て。
大家:支度というのは、棺桶に納めてお線香をあげて、枕団子と樒の花を
供えてだな…。
与太郎:なんにもしてねえ。
大家:なんにもしてなきゃしょうがねえじゃねえか。
与太郎;えへへ…いいよ。
大家:よかぁないよ。ちゃんと仏の支度はするもんだ。
まずお線香あげな。
与太郎:ぇ、ないよ。
大家:無かったら買ってきな。
表の荒物屋で売ってるよ。
与太郎:ない。
大家:強情な奴だな。何がねえ?
与太郎:へへ…お足がない。
大家:…じゃあ何かい、線香を買う銭がねえのか。
与太郎:うん、ない。
大家:しょうがねえなあ…線香を買う銭もねえようじゃ、
早桶も買えねえだろ。
与太郎:買えねえけど…いいよ、買わなくても。
当分ああやって寝かしとくから、いいよ。
大家:バカなこと言うな。
当分寝かしたままで置かれてたまるか、冗談じゃない。
すぐにも支度しなくちゃいけねえ。
与太郎:いやぁ、早桶はあるんだ。
大家:なんだ、それを先に言やぁいいじゃねえか。
じゃ、棺桶は先に用意しておいたんだな。そりゃあ感心だ。
どこで買った?
与太郎:いやぁ、買わねえ。
拾ってきた。
大家:…拾ってきた?バカな事を言うな。
棺桶なんてものがそこらに落っこちてるわけがないだろう。
与太郎:落っこっていたよォ。
うん、あの、井戸端のとこにね、水が張ってあった。
大家:…井戸端に水が張ってあった?
そりゃおめえ、菜漬けの樽じゃねえのか?
与太郎:へへ、そうかもしれねえ。
大家:そうかもしれねえっておめえの家のか?
与太郎:へへ、俺んとこじゃねえよ、へへ。
他人樽っていうか。
大家:何を言ってやがる。
変な洒落を言うな。
なんか、印があったか?
与太郎:しるし…あぁあった。
あのね、丸にね、三て書いてある。
大家;丸に…?
そりゃ俺んとこの樽じゃねえか!
与太郎:あ、大家さんとこのか。
じゃああれ、おくれ。
大家:ダメに決まってるだろ。
うちの菜漬けの樽だからダメだ。
与太郎:いやぁ、そんなケチな事言わねえで、おくれよ。
くれるのが嫌だったら、貸しとくれや。
空いたら返すから。
大家:バカな事言ってんじゃないよ。
そんなもの返されてたまるかい。
おめぇみてえなバカはしょうがないね、まったく。
しかし、おめえが血のつながってねえ親父の世話をしたって事は、
近所の者みんなが褒めてる。
本当の両親はおめえがまだ小さい時分、流行り病で死んじまった。
そしたらそこの家主が血も涙もねえ奴で、おめえと家財道具を
外に放り出して家の戸を釘付けにしちまった。
事の次第が分からねえなりにおめえは泣きじゃくってた。
そこへ通りがかったのが、今のおめえの育ての親父だ。
与太父:こんな事じゃあ死んだ仏が浮かばれねえ。
食う物を食わしてやれば、もうこれだけ育っているから
背丈も伸びるだろう。
大きなことは言えねえが、私が引き取って世話しましょう。
大家:そう言って一緒に暮らし始めた。
まだおしめも離れねえおめえを、一人置いてくわけにもいかねえっ
てんで、仕事に行くときは背負って一緒に連れて行ってた。
与太父:申し訳ねえ、こういう厄介者がございますんでどうぞ皆さん、
よろしくお願い申します。
大家:下げなくてもいい頭を人に下げて、苦労して育ってみりゃ、
おめぇみてぇなバカができあがっちまったんだ。
しかし、今度はよく親父さんの面倒を見てやったな。
それはみんなが褒めている。
町民1:大家さん、与太郎はバカだって言いますけど、
あれは孝行者の手本になるよ。
ああして親を大切に看病してやった事は本当に感心だ。
大家:そう言って褒めてるんだよ。
人間はたとえバカでも、人に可愛がられれば決して困る事はない。
これからは月命日に墓参りをして、細々ながらでも供養するのが、
死んだ親父に対して何よりの孝行だよ。
…俺の言ったことが分かったか?
与太郎:へへ…なんだかちっとも分からねえ。
大家:分からねえったって、聞いてるじゃねえか。
与太郎:へへへ、何か言うと顎がこう、ぺこぺこぺこぺこ…ははは。
26まで勘定して後は分からなくなっちゃった。
もういっぺんやってよ。
大家:何を言ってやがる!
まったくしょうがないねどうも。
まあとにかく、銭がねえなら何とかしてやる。
お寺の方へも知らせなきゃいけねえが、まだ知らせてねえんだろ。
与太郎:うん。
大家:まあ、無理もねえか。
寺というものはこういう場合、一人で行くもんじゃねえ。
二人で行くという事になっているんだ。
誰か頼んでやるが、おめえの寺はどこだ?
与太郎:え?
大家:いや、おめえの寺はどこだと聞いてるんだよ。
与太郎:え~…分からねえ。
大家:分からねえ?
寺が分からなくちゃ困るじゃないか。
与太郎:いやぁ、困るったって…なるべく近い所でいいよ。
大家:あのな、近い所でいいったっておめえ、知らない寺じゃ受け取らね
えんだよ。
与太郎:じゃあ、受け取らなかったら人のいないとこへ
そうっと持ってって置いて、逃げてくる。
大家:バカ野郎、そんなことしちゃいけねえだろ。
まあとにかく、寺を何とかしなくちゃならねえが、
今までに親父と一緒にどっかへ寺参りをしたとか、あるだろ。
思い出さねえか?
与太郎:思い出す…めんどくせえ。
大家:めんどくせえて事があるか。
思い出せ。
与太郎:思い出せ?じゃあしょうがねえ、思い出そうか。
ん~……
あ、そうだ、分かった。
大家:お?思い出したか。
与太郎:うん、あの、よなか。
大家:…なに?
与太郎:よなか、ってとこ。
大家:…変なとこだな、よなかって。
…!って谷中じゃねえか。
与太郎:あそうか、谷中か、うん、谷中だ。
大家:谷中のなんて寺だ?
与太郎:え~、ず、ず、ずい…ずいずいずっころばし…。
大家:おいおい、急に唄い出すな。
与太郎:あ~…「ずい」までは覚えてる。
大家:ずい…もしかして、瑞輪寺か?
与太郎:あ、それそれ、瑞輪寺だ。
大家:そうかい、瑞輪寺といえば大した寺だが、
瑞輪寺の寺中だろ。
与太郎:え?男だよ。
大家:なんだ、男だて。
与太郎:え、女中だって。
大家:女中じゃねえ、寺院の中のどこかって事だ。
まぁ、それだけ分かってりゃ、あとは行ってみて聞けば分からねえ
ことはねえだろ。
お寺様へ行って掛け合った後は、今夜はお通夜だ。
弔いと言ったって、なるべく短い方がいいから今夜ちょいと真似事
をして、すぐに寺の方へ持って行っちまった方がいい。
こういう事は人足を雇ったりなんかすりゃなかなか安い銭じゃすま
ねえから、片棒はおめえが担ぐんだ、いいか?
与太郎:うん。
大家:もう一人片棒を担がせるのが必要なんだが、誰かいねえかな。
与太郎:あ、あぁ~、ある。
大家:いるのか?
与太郎:うん、そういえばね、喜んで担ぎましょうって人があるよ。
大家:そうか、そりゃいい。で、誰だ?
与太郎:え?
大家:誰だ?
与太郎:へへ、大家さん。
大家:何言ってんだ。バカな事言うんじゃねえ。
誰が喜んでそんなもの担ぐ奴がある。
俺は提灯を持って案内をするんだ。
そうだな…長屋の月番は…ああ、甚兵衛さんか。
あの人はもう年をとってるな。
74かそのくらいのはずだが…まあ普段から軽い荷を担いでいるか
ら、できねえことはねえだろ。
よしよし、俺が行って話をしてやる。
甚兵衛さん、甚兵衛さんいるかい?
甚兵衛:おやおや、これは大家さん。
今日はどうなすったんで?
大家:…なんか、さっきも聞いたな…。
ぁいや、実は与太郎んとこの親父さんがおめでたくなっちまってね
。弔いをしようってんだが、早桶の片棒を担ぐ者がいなくてね。
甚兵衛:そうでしたか、与太郎の親父さんが…。
わかりました。引き受けましょう。
大家:すまないね、助かるよ。
じゃ、さっそく一緒に来てくれ。
おい与太郎、甚兵衛さんを連れてきたよ。
与太郎:あ、どうも甚兵衛さん。
甚兵衛:与太郎、よく最期まで親父さんの面倒を見たね。
さ、心からお弔いしよう。
大家:ここを出るのは…そうだな、四つごろがいいだろう。
どれ、形ばかりだがお通夜をしようか。
甚兵衛:今日はことに冷えますな…。
さて、そろそろ四つ刻だが…おお、鐘が鳴った。
大家:よし、じゃあお寺へ向かおう。
与太郎、おめえが後棒だ。甚兵衛さん、先棒を頼むよ。
甚兵衛:承知しました。
さ、与太郎、行こうか。
与太郎:う、うん。
語り:深川蛤町を四つの戌の刻、今の時刻で言うと午後22時くらいに
家を出まして、先頭に提灯を持って大家さん、
早桶を与太郎と甚兵衛の二人で担ぎます。
やがて上野は伊藤松坂のあたりまで来る頃にはもう九つ、
ちょうど子の刻は真夜中であります。
そこから右に曲がって三枚橋、池之端へ、さらに七軒町を通って
谷中へ行く、これが一番の近道でした。
季節は旧暦の11月末、それはもう寒く霜柱が立っていて、
三人はそれをきゅ、きゅ、きゅ、と踏みしめて歩きます。
ところでこの甚兵衛さんて人は、えらく臆病者なものでして。
与太郎:【つぶやく】
…さむ…。
甚兵衛:…なぁ与太郎。
与太郎:!
なんだい!!?
甚兵衛:あッわッ、びっ、びっくりした!
な、なんて声を出すんだい、脅かしちゃいけないよ。
与太郎:脅かしちゃいねえよ。
与太郎、って呼んだから返事したんだ。
甚兵衛:返事するんだったら、もっと静かに返事しておくれよ。
こっちが小さい声で呼んだのに、あんな大きな声で返してくるか
ら、思わず飛びあがっちまったよ。
しかしここらはずいぶん寂しいとこだね…。
与太郎:へへ、灯りも何にもねえから寂しいや。
甚兵衛:それに夜も更けたね…。
なんか出やしねえかな…。
与太郎:え?なんだって?
甚兵衛:出やしねえかな…。【震えている】
与太郎:へへ、出るかもしれねえ。
甚兵衛:出るかもしれねえって、な、何が出るんだい?
与太郎:暗いとこに出るのはね、お化けが出る。
お化けっていうのは死んだ人が化けるんだってね。
いま化けるのを二人で担いでる。
甚兵衛:ッへ、変な事を言っちゃいけねえよ!
与太郎:だけど、まだ化けないね。
甚兵衛:いや、化けないねったってな、化けねえほうがいいよ!
で、出るとするといつ頃出るのかね…?
与太郎:出るのはね、何でも九つを過ぎなくちゃお化けは出ないって。
甚兵衛:そうかい…。
じゃあまだ九つ時分だから、急いで行こう。
与太郎:?さっきもう九つ打ったよ?
甚兵衛:【怯えたように】
えっ!?もう九つ過ぎてんのかい!?
与太郎:へへ、ちょうど今お化けが支度してるとこだよ。
うちのおとっつぁんは物堅いから、
与太父:【少しおどろおどろしく】
甚兵衛さん~、寒いのにご苦労様でしたね~。
与太郎:って、冷たい手で襟んとこをスーッとーー
甚兵衛:うわああッ!!
【怯えたあまりに座り込んでしまう】
も、も、もうよしてくれ与太郎!
大家:おいおい、何をしてんだい。
そんなとこに座っちまっちゃしょうがないよ。
どうしたんだい。
甚兵衛:だ、だ、だって、よ、与太郎が変な事ばかり言ってあたしを脅か
すから、驚いてここ座っちまったんですよ。
大家:だいいち、そうグズグズ歩いてちゃしょうがねえよ。
もっと早く歩きな。
与太郎:早く歩きなったって、甚兵衛さんがなかなか歩かねえんだもの。
俺が後ろから押すから甚兵衛さんいくらか前へ出るんだけど、
前にいて後ろばかり押してるんだ。
もし俺がうっちゃったらだんだん後ろへ行ってね、
そのまま家へ帰っちまう。
大家:帰っちまっちゃしょうがねえだろ。
甚兵衛さんも困るよ、ずんずん前へ出てくんな。
甚兵衛:ま、前へ出るったって、何しろ右側で担いで家を出てから、
それっきり肩を一度も変えないもんだから、めり込みそうになっ
て痛くてたまらねえ。
大家:与太郎もしょうがねえな。
時々肩を変えてあげろ。
与太郎:なんだぇ、そう言えばいいじゃねえか。
肩を変えようって言えば変えるのに、右ばかりで担いでる。
俺も痛えけどしょうがねえからそのまま担いでたんだ。
じゃ肩変えるよ、いいかい、ほら、ひのふのみッ!
語り:バカなもので、静かにやればいいものを与太郎、
いきなりうわーっと持ち上げてダーンと肩を下ろす。
すると縄がやわだったと見え、ぶつっと切れて早桶が落っこちる。
安物なものですから、底が抜けて中から仏様がにゅうっと出てきて
しまいます。
与太郎:あ。
甚兵衛:う、うわぁあぁあ!!
ほ、仏さんがぁ!
大家:ああもう、しょうがねえな。
早桶壊しちまいやがって。
静かにしねえからこんなことになるんだ。
与太郎:だって、静かにしねえったってさ、縄が弱いから切れちゃったん
だよ。
じゃああの、直すからね、甚兵衛さん、仏様抱いてておくれ。
で、俺がねーー
甚兵衛:【↑の語尾に喰い気味に】
と、とととんでもないよ!
仏様抱いてるのはあたしは嫌だよ!
与太郎:そんなこと言ったってしょうがねえ。
じゃあいいよいいよ、俺が一人でやるよ。
こうなってるんだろ、大丈夫だよ、直るよ!
語り:天秤を持って来ると逆さに中へ押し込んでトントントントンやる。
どうやら直りそうになったところへ与太郎、よせばいいのに
最後に力を入れてひとつ、ダーンとぶったもんだから今度は
ばちっ、とタガがはじけてバラバラになってしまいます。
大家:おいおい何やってんだ、とうとう壊しちまったよ。
あぁよしなよしな、手を付けたって無駄だ。
しょうがねえ、こりゃ早桶をもう一つ買わなくちゃならねえ。
どっか近所に売ってるとこはねえかな…?
与太郎:仲町とかにあるかな?
大家:仲町?ダメだ、あんなとこ行ったってありゃしねえ。
あ、そうだ、広徳寺前へ行ったらあるかもしれねえ。
与太郎、おめえ一緒に来い。
甚兵衛さん、すまないが与太郎と二人で早桶を買って来るから、
それまでここで仏様を見ててーー
甚兵衛:【半分泣きそう】
えぇぇえぇいやいや!!とんでもないこと言うなよォ…!
こんなとこ一人で【涙声になって何を言ってるのか分からない】
大家:【少々呆れながら】
何もそんなに怖がることはないじゃないか。
しょうがねえ、じゃ、甚兵衛さんが付いてきてくれ。
与太郎、おめえ一人で番ができるか?
与太郎:うんうん、いいよ、大丈夫だよ。
なァに、怖かねえんだよう。
おとっつぁんを見てりゃいいんだから。
行っといで行っといで。
大家:提灯は置いてくか?
与太郎:ああいや、提灯なんざいいよ、いらない。
灯りがあるとね、甚兵衛さんみたいな臆病な人が来ると
驚くからね。
持ってっていいよ。
もし誰か通りかかって聞かれたら、
今ね、暑いからちょいと涼んでるだけです、て。
大家:バカ野郎、こんな真冬に涼んでる奴があるか。
与太郎:へへ、いま夏の夢を見てる。
大家:変な事を言うな。
じゃあ、行って来るぞ、大丈夫だな?
与太郎:うんいいよ、大丈夫だよ。
ここにいるから。
甚兵衛:なるべく早く帰ってくるからね、頼んだよ与太郎。
【二拍】
与太郎:えっと、桶の板を並べて…おとっつぁんをそこに横にして…、
蓋は…あったあった、こいつを尻の下に引いておこうっと。
…ふぅ。
語り:一仕事終えて桶の蓋に座り込んだ与太郎、じーっと仏様を見つめま
す。
後ろは上野の森で前は不忍池という形、夜の水というものは不気味
なもので、その中に映る弁天堂がなお一層黒く、ぼやっと見える。
時々風が吹くと、枯れ葦がカサカサ、カサカサと鳴り、
森の中を風がごぉーっと渡っていきます。
いくらバカな与太郎と言えども、あんまりいい心持ちはしません。
与太郎:…へへ、甚兵衛)(じんべえ)さん、怖い怖いって言ってたけど、
ここらはあんまり賑やかじゃねえからな。
…おとっつぁん、死んじゃったんだな…。
おい、おとっつぁん、なにも死ななくたっていいじゃねえか。
もっと生きてろよ。
俺に世話になるのは気の毒だって死んじゃったのかい?
おとっつぁんがもっと生きてりゃ、俺は一生懸命に稼いでさ、
うめぇもんでも何でも食わしてやったんだ。
遠慮しねえでもっと生きてりゃいいじゃねえか。
死んだら地獄か極楽へ行くらしいけど、地獄はよしなよ。
極楽行けよぅ。
地獄いくと赤鬼だの青鬼だのいて、いじめるって言うから。
もしいじめたら俺んとこにすぐに向かえに来なよ。
俺が行ってすぐに……ってそれじゃ、俺も死ななくちゃならねえ
や。
じゃいいよ、来なくても。ぁいや、俺もそのうち行くけど、
今は来なくていいから。
とにかく地獄へ行くのはよしなよ。
語り:などとしきりに死体に話しかけていると五、六間むこうを
真っ黒な、小さなものがスッと通りました。
かと思った次の瞬間、今まで横たわっていた仏様が、
いきなりぴょこぴょこ動き出したのでございます。
与太郎:ぉお?え?動いてる?
あららまた動いた?
おぉお!?また動いた!
語り:死体がいきなり動き出してさすがの与太郎も驚きます。
やがてスッと起き上ると与太郎の前へピタリと座り、顔をじーっと
のぞき込んだかと思うと、さらに驚く行動に出たのです。
与太郎:お、おとっつぁん…。
与太父:いひひ…!
与太郎:うわっ!?
驚ぇた、笑いやがったよ。
思わず殴っちまったら、また寝ちゃった。
あ、そうか、何か言う事があったんだな。
おーい、おとっつぁん、もう一度ぴょこぴょこしろよ。
ぴょこついてくれよ。
頼むからぴょこつけ!
語り:その途端、また仏様がぴょこつきだします。
かと思った次の瞬間、すっと立ち上がったかと思うと地べたから
上へぴょこっ、ぴょこっと飛び上がる。
与太郎:おお?ははは、いやこらぁ面白れぇや!
【手拍子を叩きながら】
いやぁ、おとっつぁんは上手だ♪おとっつぁんは上手だ♪
語り:普通は怯えるところだが、どこに感情がくっついているのか。
与太郎は手を叩いて囃してます。
するとそのうち風がごぉーっと吹いてきたかと思うと、
その風に乗って何処かへと行ってしまったのであります。
与太郎:あ、行っちゃった!
おぉーい、おとっつぁーーん!
大家:お、あそこで声がするぞ。
甚兵衛:あぁ暑かった暑かった。
与太郎、いま戻ったよ。
一生懸命早く行こうと思って汗かいちまったよ。
大家:それで、仏様はどうした?
すぐに早桶に入れなくちゃなんねえ。
与太郎:おとっつぁんは…いねえ。
大家:なに、いねえ?
どういうことだ。
与太郎:へへっ、向こう行っちまった。
大家:?なんだ、向こう行っちゃったって。
与太郎:へへへ、あのね、二人が行った後で俺が一生懸命おとっつぁんに
話しかけてたらさ、仏様がぴょこぴょこって動いたんだ。
どうしたのかと思ってたら目の前に座ってね、イヒヒって笑いや
がったんだ。
俺も気味が悪いから横っツラ殴ったらまた寝ちゃったんだ。
何か言う事があるんだろうと思ってね、
もう一遍ぴょこついてくれって頼んだんだ。
大家:この野郎、なにを変な事を頼んでんだ。
それで、どうしたんだ?
与太郎:そしたら今度は立ってね、ぴょこっ、ぴょこっ、て飛び上がるん
だよ。
だからおとっつぁんは上手だ♪おとっつぁんは上手だ♪
って囃してたら風がごおっと吹いてね、それに乗ってどっか行っ
ちゃった。
大家:このバカ、そいつはな、仏へ魔が差したんだ。
年古りた化け猫の仕業かもしれねえ。
しょうがねえな、早桶買って来たはいいが、肝心の仏がいなくて
どうするんだ。
甚兵衛さん、聞いたかい。
甚兵衛:【半泣きで】
うぅぅううぅ、抜けました…。
大家:なに、抜けた?
しょうがねえな、いま買って来たばかりじゃねえか。
また底が抜けちまったのかい?
甚兵衛:いいえ、今度はあたしの腰が抜けました。
【一拍】
語り:えらい騒ぎで、この死体が翌日、七軒町の上総屋という質屋の土蔵
の釘にかかっておりまして、ここでまた早桶を買いました。
一人の仏様に三つの早桶を買ったという、
谷中奇聞「猫怪談」でございます。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
三遊亭圓生(六代目)