余命、冬まで。
この世には、神も仏もあったもんじゃない。
母一人で俺を育ててくれた恩返しに、頑張って頑張って入学した名門の男子校。
全寮制だから母さんとは離れなきゃいけないけど、特待生の全額免除という特典には代えられない。
例え同室者がメチャクチャ性格が悪い大魔王でも、そいつが原因で全校生徒から陰湿なイジメを受けていようとも、その矛先が自分に向くことを恐れて友達が一人もできなくても所詮は後3年の辛抱だ。
先を見据えて出来る限り目立たず騒がず地味に生きてきた。
高校1年の夏休み。
4ヶ月振りに実家に帰った途端、俺は激しい胃の痛みでぶっ倒れてしまった。
「松原さん、松原尚孝さん」
精密検査の結果が出たのか、看護師が俺の名前を呼んでいる。
大学病院だけあって広い待合室の椅子から立ち上がると、呼ばれた番号の部屋へと足を進めた。
まだ年若く見える先生が目の前の椅子を勧めてくれる。
トイレに立っていた母さんも診察室に入ってきて、何故か俺だけがそのまま待合室へと追い出されてしまった。
嫌な感じがする。
結局何も伝えられないまま、母さんと連れ立って家へと帰った。
久々の実家なのに、居心地が悪い。
いつもは明るくさっぱりとした母さんが、今日に限って何かを考え込むようにして黙っている。
ダイニングテーブルに向かい合わせで腰を下ろすと、母さんは改まったように俺を真っすぐ見詰めてきた。
これはあれだ、父さんが事故で死んだ時の顔だ。
小学生の俺に諭すように、淡々と説明してきたあの時の顔。
「尚孝、学校で辛いことがあったんじゃないの?」
そう、だからこそストレス性の胃炎だと思ってたんだけど、母さんの様子からして多分違うんだろう。
「胃に影があった」
テーブルの上で組まれている母さんの手が小刻みに震えている。
続けて言われた病名は、聞いたことがない響きを帯びていた。
しかしそれは、確実に俺の身体を蝕む病気。
「余命が、4ヶ月しかないって…」
何てこった。
折角良い高校に入学できたのに。
これから大学に行って就職して、母さんにたくさん恩返しがしたかったのに。
俺はとんだ親不孝者だ。
だけど、こうなった以上仕方がない。
残りが4ヶ月しかないなら、その間を懸命に生きよう。
「学校では無茶をしないで、辛いことが会ったらすぐに帰ってきなさい」
真っ直ぐな母さんの眼差し。
手に握らされた袋には大量の薬が入っていた。
俺は高校2年生になることなく、どうやら死んでしまうらしい。
まだ実感できないまま、俺は母さんと過ごす最後の夏休みを迎えた。
この世には、神も仏もあったもんじゃない。
***
まだ誰もいない部屋は暗く、むっとした熱さが肌に纏わり付く。
荷物を置くのもそこそこに、俺はエアコンのスイッチ探して冷房をつけた。
羽が動き出し、涼しい風が頬を撫でるのを心地良く思いながら、1ヶ月振りに戻ってきた寮を見渡す。
リビングから見て右のドアが俺の部屋で、左のドアが同室者兼大魔王の部屋。
告知された俺の余命は、残すところ後3ヶ月。
日常は残酷なほど俺の後を追いかけ回す。
あれから病気の話には触れずに、母さんと代わり映えのしない夏休みを過ごした。
ストレスがなかったからか痛むことのなかった胃が、学校に戻った途端ズキズキと疼き出す。
始業式は明日だって言うのに、すでにストレスを感じているらしい自分に笑いが込み上げてくる。
どうせ短い命だ。
今の俺に怖いものなど何もない。
今まで俺にストレスを与えまくっていた諸々の原因に気を使う必要もない。
見てろよ、あの野郎!
平凡で地味な俺だって、追い詰められれば噛み付くってことを思い知らせてやる!
まずは手始めに、いつもだったら決して使わない食堂へ行くことにしよう。
意気込んで食堂の扉を潜ったはいいけど、夕飯時ともあって広い空間にはたくさんの生徒で溢れていた。
濃いグレーのジャケットにグレーでチェックのズボン。
お坊ちゃん校に相応しい高そうな制服に身を包んだ生徒達は、みんな俺の敵だといっても過言じゃない。
それを言う俺も同じ制服を着てるんだけど、それとこれとは話が別だ。
俺はコイツらとは違うし、アイツなんかを敬ったりしない。
券売機の前に着くと、周囲の生徒が俺に気付いたらしくひそひそと囁く声や笑い声が聞こえてくる。
耳を澄まさなくてもわかる、恐らく俺を嘲笑しているそれらに常だったら泣きそうになっていただろう。
だけど、そうはいかない。
今の俺は無敵モードだ。
周りの声なんかどこ吹く風で、さっさと食券を買ってカウンターへと持って行く。
程なくして渡されたトレイを持って空いてる席に腰を下ろした。
悪意の眼差し、中傷する言葉、蔑むような笑い。
まさに針の筵の真っ只中にいる俺は、素知らぬ顔をしてうどんを啜る。
実際には傷付くし憤りも感じるけど、後3ヶ月も経たずにこんな仕打ちもなくなるのだと思うと、逆に物悲しくなってくるのが不思議だ。
最後に取って置いたお揚げを飲み込んだ矢先、急に食堂内が色めき立つ。
遂に来たか、諸悪の根源。
全ては俺がコイツと同室になったのが始まりだった。
「流さまーっ!」
「こっち向いてぇー!」
「流さま愛してるーっ」
「抱いて下さーい!」
食堂内のあちこちで上がる悲鳴に眉を寄せ、その騒ぎの中心である男を横目で睨み付ける。
艶やかな黒髪をなびかせて颯爽と歩く長身、穏やかそうな笑顔で騒ぐ輩に手を振り返している姿はまさにどこぞの王子といったところだ。
小野里流、1年。
成績良し、運動神経良し、顔良し、スタイル良し、性格良し、家柄良しのパーフェクト男。
嫌味なほどの完璧振りだけど、人当たりが良い性格で敵はいない。
こんな閉鎖的な空間では、奴は神のように祭り上げられ憧れの対象となっていた。
同性愛だ何だと常識を振りかざすのも馬鹿らしくなるくらい、この学校ではゲイやバイが溢れている。
もちろん、俺はノーマルだけど周りはそんなの知ったこっちゃないらしい。
小野里流と同室だというだけで、俺はイジメの標的にされ、友達の一人も作れずにいるのだ。
俺に残された僅かな時間で、必ずコイツにぎゃふんと言わせてやる!
今に見てろよ!
ちやほやされてにこにこ笑っている小野里の顔が見たくなくて、コップの水を飲み干すとそのままの勢いでトレイを持って立ち上がる。
小野里の登場であれほど俺に向けられていた視線は、今は微塵も存在しない。
この隙を逃さないとばかりにいつもの地味さを発揮して、誰にも気付かれないまま食堂を後にすることに成功した。
部屋に戻るとすぐに薬を飲む。
これから俺が倒れるまでの時間を、この部屋でアイツと過ごすことを考えればまた胃が痛み出す。
それを紛らわすようにソファへと深く座ると傍らに丸められたシャツが見えた。
制服のカッターシャツらしき物は、俺に洗濯をしろということなのだろうか。
この部屋でのパワーバランスは頂点に小野里がいて、最下層に俺がいる。
アイツの洗濯や部屋の掃除は全て俺の仕事らしい。
同じ空気を吸ってやる代わりにお前はこの部屋の家政夫だと高らかに宣言されたのは、入学式を翌日に控えた時だった。
洗濯物なら脱衣カゴに入れてくれればいいものを…
ブツブツと悪態をつきながらシャツを手に取り広げると、どうやら第二ボタンが取れてしまっているようだ。
これは洗濯ではなくてゴミ箱行きだったのか。
アイツならボタンくらいつけてくれる人なんて、それこそ掃いて捨てるくらいいるだろうに。
まぁ、この学園のお坊ちゃん連中にボタンをつけろと言うのは酷な話なのだろうが。
仕方なく部屋から引っ張り出してきたソーイングセットで、手早く替えのボタンをつけていく。
こんなもの、物の3分で終わるのに捨てようだなんて勿体なさ過ぎる。
他のボタンと遜色ないほど綺麗に、そして丈夫に仕上がったシャツを見て満足感に浸りながら傍らに軽く畳んで置く。
我ながらいい仕事をした。
さっきまでの苛立ちを忘れてソファに背中を預ける。
空腹も満たされ薬が効いてきたのか頭が段々とボーッとしてきて、瞼を持ち上げることすら難しくなってきた。
あぁ、きっとこのまま眠れたら最高に幸福だろう。
ドアが開く音を遠くに聞きながら、抗う術を持たない俺は眠りの淵へと落ちていった。
朝起きると、俺はシーツに埋もれていた。
かろうじて顔は出していたから息苦しくはなかったけど、起きぬけの初っ端にこれじゃ驚かない方が無理だろう。
頭に?マークを飛ばしていると、テーブルに走り書きのメモを発見した。
『洗濯』
………せめて洗濯しろとか、文章にしろよ。
単語だけってどんだけ面倒臭がりなんだ、小野里め…
時計を見ていつもの起床時間だったのには我ながら少し感心してしまったが、今日からは小野里に目にもの見せてやると決めていたからさっさとシーツを洗濯機に放り込んで顔を洗いキッチンへと向かう。
小野里は低血圧だ。
その為、朝は自慢の猫かぶりができないから食事は部屋でとる。
アイツは朝はパンと決めているらしく俺に無理矢理作らせているわけなのだが、そもそも俺は和食派なんだ。
というわけで、小野里への抵抗第一弾は『朝食を和食に』だ。
些細な抵抗かもしれないけど、先ず手始めはこれくらいでいいだろう。
ご飯に豆腐とお揚げの味噌汁、焼き鮭に納豆、酢の物、卵に海苔。
これぞ日本の朝食といった料理がダイニングテーブルに並ぶ頃、いつも通りの時間にいつも通りの不機嫌そうな顔でのっそりと小野里が部屋から出てくる。
頬にかかる前髪を掻き上げる仕種はセクシーなのに、その凶悪なまでに歪められた顔がそんな甘い印象を吹き飛ばしているようだ。
「………」
朝の挨拶もする気がないらしい小野里は、そのままいつもの椅子に腰を下ろした。
まだ頭が回転していないのか、いつもの朝の中で唯一いつもとは違っているテーブルの上をじっと見下ろしている。
「……俺は洋食派だと言ったはずだ」
「俺は和食派なんだよ。文句があるなら食うな」
料理を見下ろしていた瞳が俺へと向けられるけど、それは驚いたように僅かに見開かれている。
それもそうだろう。
今までの俺は平穏に3年間を過ごすことに心血を注いできたのだから、口答えなんかしたこともなかった。
おどおどと敬語で話す夏休み前の俺とはあまりにも違っていて、流石の小野里も戸惑いを隠せないようだ。
「………チッ」
普段王子面しているクセに舌打ちとは下品な…と味噌汁を啜りながら思っていたけど、なんとあの小野里が反論もせずに朝食に箸を付けはじめたではないか。
熱々の味噌汁をぶっかけられることさえ覚悟していたというのに、俺の予想に反して小野里は温和しく椀を傾けている。
鮭の身を解しながらその様子を眺めていれば、小野里は何故か味噌汁を一口含んで身体を硬直させた。
まさか和食が体質的に合わないのか?
それなら無理強いさせる訳にはいかないと俺が口を開きかけた矢先、それは起こった。
これまではモソモソとパンをかじっていた低血圧な小野里が、今日はまるで欠食児のような勢いで朝食にがっつきはじめたのだ。
ブチ切れて自棄になったのかとも思ったけど、コイツの様子からすると本当に飢えているように見える。
もしかして昨日からご飯を食べていないのかも知れない。
半ば唖然と小野里を眺めていた俺だったけど、こうもモリモリ食べてくれたら悪い気はしないものだ。
もちろん小野里のことは嫌いだけど、残されるよりは余っ程マシだしな。
「喉に詰まらせんなよ?」
湯呑みにお茶を注いでやると、それを一気に飲み干して再び食事に戻る小野里。
無言で催促されるご飯と味噌汁のお代わりに、反撃してやる気満々だったことも忘れてついつい装ってしまう俺。
いや、決して嬉しい訳じゃない。
いつも俺が作った朝食を惰性で食べていた小野里に、寂しく思っていた訳じゃない。
訳じゃない、のに…何でこんなに胸がザワつくんだろう。
ただ美味しそうに食べているだけなのに、ただ初めてお代わりしただけなのに。
駄目だ。
これ以上考えていたら、何だか恐ろしいことになってしまいそうな気がする。
俺は込み上げてくる不可解な感情を、熱い緑茶と一緒に無理矢理飲み下した。
***
学校ではいつも一人だ。
みんながみんな小野里の信者ということはないけど、俺に関わって巻き込まれたくないんだろう。
俺だって傍観者だったらそうした。
だから俺は、いつも申し訳なさそうにチラチラとこちらを窺ってくる人達を恨んではいない。
ただ、アイツのファンからの嫌がらせだけはどうにも腹に据えかねる。
俺の家は貧しいとまではいかないけど、生活水準は平均的だ。
つまりはこの学校の底辺にあたる。
それを負い目に感じたことはないし、逆に女手ひとつで立派に子供を育てている母さんは自慢だ。
しかし、それとこれとは話が別だ。
体育が終わり更衣室のロッカーを開けた瞬間、俺は愕然としてしまった。
どこのマンガだというくらい、制服がズタズタに切り裂かれている。
この学校は別の国かと思うほど全ての物価が高い。
もちろんそれは制服も同じで、何処ぞのブランドとのコラボだなんだとやたらと高いのだ。
俺は特待生だから無料だったんだけど、それも一回限りだと決められている。
2着目からは有料になるということだ。
ズキンッ
また胃が痛みだす。
周りからクスクスと笑い声が立ち、見るに耐え兼ねた生徒達はそそくさと更衣室を後にする。
あー…もー…腹が立つ。
どうせ後3ヶ月しか着れない物だったけど、それでも思い出に最後まで大切に着ていたかった。
何くれと気に入らない学校だけど、それでも俺が普通に過ごす最後の場所だと決めた空間だ。
ただ普通に過ごしたい。
せめて最後くらいは。
「そう思って、……何が悪いんじゃーっ!!!!」
ガコンッ!!
俺の怒声と共に、壁に備え付けてあったロッカーが音を立てて外れた。
いや、俺が外したんだけど。
「コイツ、キレやがった!」
「ロッカー素手で壊したぞっ」
「ヤバイッ、逃げろ!!」
「逃がすかコノヤローッッ!!!!」
掴んだロッカーをぶん投げ、ベンチを蹴り上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げる陰険野郎共を床に引き擦り倒す。
騒ぎを聞き付けた教師が止めに入った時、更衣室内は嵐が吹き荒れた後のような有様だった。
ブチ切れた俺だったけど、実は誰にも手を上げていない。
散々暴れ回ってそれを見せ付け、奴らに恐怖を味わわせてやっただけだ。
おかげで俺の身体は傷だらけで、それを見た教師も怪我人が出なかったということで不問にしてくれた。
怪我人は俺だろとか、ただ騒ぎを大きくしたくないだけだろとか思わないでもなかったけど、これが母さんの耳に入って心配させてしまうことにならなかっただけでも上出来だろう。
ついでにイジメもなくなってくれれば万々歳だ。
触らぬ神に祟りなしとばかりに今度は無視されるかも知れないけど、陰険なちょっかいを出されるよりは遥かに程マシってもんだ。
ただ問題は、残りの学生生活をジャージで過ごすということか。
それはあまりにも味気ない。
俺は何でも形から入るタイプだから、制服がないのはやっぱり寂しいものがある。
保健室で適当に怪我の治療をしてもらってから、俺は早退して寮まで戻ってきた。
さっきまではアドレナリン出まくりで感じなかったけど、胃が物凄く痛い。
ズキンズキンと痛む胃を押さえながら、大量の薬を水と一緒に飲み干していく。
額から脂汗が滲み、俺はついには立っていられなくなってしまった。
床に跪き、ただただ薬が効くのを待つ。
浅い呼吸を繰り返しながら、俺は命が削れていく音に肌を粟立たせていた。
「………何だ、これは」
放課後、帰宅して早々小野里が呆れたように呟いてしまったのは仕方のないことだろう。
広いダイニングテーブルには隙間がないほど中華料理が並べられている。
それもこれも、全ては俺の仕業だ。
胃の痛みが去ってから、俺は無性に中華が食べたくなってしまったのだ。
この1ヶ月は控えていたからその反動もあるだろうけど、今日ロッカーをぶん回してある意味吹っ切れたんだと思う。
好きに生きてやろうって。
今なら肺ガンになっても煙草を止めないお爺さんとかの気持ちがわかる。
どうせ残り少ない命だ、誰にも気兼ねせず好き勝手やって自分のためだけに生きるのも悪くない。
中華だって俺の大好物なんだから、浴びるほど食ってやる!
と、今の今まで作りまくってた訳なんだけど、流石にこれは作りすぎた。
ひとりなら1週間は事足りるほどの量になってしまっているから、小野里が呆れるのも無理はない。
……いや、そういえば小野里がいるじゃないか!
あんまり大食いのイメージはないけど、今朝の食べっぷりを思い出せば結構いけるのかも知れない。
「小野里、コレ一緒に食わね? 無我夢中で作ってたら作りすぎちゃったみたいでさ」
アハハと渇いた笑いを浮かべながらも、実は今も俺の腕は世話しなく動いていたりする。
炒飯を作るために鍋振りしている俺を見ながら、小野里は大きな息を吐き出して部屋へと引っ込んでしまった。
まぁ、仕方がないか。
小野里は朝食以外は全て食堂で食べている。
ファンサービスらしいそれは猫かぶりの小野里にはしんどいだけだろうに、入学以来ずっと続いているイベントだ。
きっと今日も食堂に行くんだろう。
とすれば、この大量の中華を俺は1週間食べ続けなければならないということか。
まさに自業自得だな。
出来上がった炒飯を皿に移し替えていると、部屋からジャージ姿の小野里が出て来た。
ファンといる時にはブランド物の私服で飾り立てているのに、何でコイツは部屋着を着ているんだ?
そして、何故当たり前のような顔をして椅子に座っているんだ?
俺の不思議そうな視線に気付いたのか、小野里が不機嫌そうに顔を歪ませる。
マズイ、怒らせてしまった。
「……別にお前の為じゃない。たまたま中華の気分だっただけだ」
……あれ、怒ってるんじゃなかったのか?
不機嫌極まりない顔をしたまま、小野里が取り分け用の箸を使って料理を食べはじめた。
そりゃもう豪快な食べっぷりで、春巻なんて一口で食べてしまうほどの勢いだった。
今朝のがっつきなんか目じゃない小野里の欠食児っぷりに触発されて、俺もいつも以上に食が進む。
余命を突き付けられて以来、こんなに食べたのは初めてだ。
味の感想なんか言ってくれる訳もないけど、やっぱり嬉しいもんだな。
ちょっと、ほんのちょっとだけ小野里のことが嫌いじゃなくなった気がする。
それでも大嫌いから嫌いに変わっただけなんだけど。
驚くべきことに、小野里はひとりであの量を半分以上食べてしまった。
無理しなくてもいいのにと思いながらも、やっぱり俺は嬉しくなってしまう。
小野里はもしかしたら、俺が思っていたような奴じゃないのかも知れない。
小野里をちょこっとだけ見直したのは、どうやら俺の勘違いだったようだ。
アイツに食後のお茶を出してやってから、俺はふと思い出して小野里に問い掛けた。
朝目が覚めたらなくなっていた、ボタンを付け直した小野里のシャツの行方。
気が付いてくれたのかとほんのちょっとだけ心が温かくなったというのに、あろうことかコイツはお茶を啜りながら事もなげに言って退けやがった。
「あぁ、あれなら捨てた」
この瞬間、僅かにだが浮上した奴への評価が地に落ちたのは言うまでもない。
なんて最低な男なんだ、小野里流。
もうテメェの顔なんか金輪際見たくねぇよ!!
***
なぁんて言いながらも、同室なんだから毎日顔を突き合わせてしまうことはわかりきってんだけどな。
という訳で、俺は別の方法で小野里に目に物見せてやることにした。
俺が奴に出来る仕返し、それは『料理』だ。
人間誰にだって嫌いな食べ物のひとつやふたつあるものだ。
俺は割となんでも食べられる方だけど、どうしても食べられないのが……お雑煮。
あの柔らか過ぎる餅と薄いお出汁の織り成す絶妙なハーモニーが堪らなく苦手で、同じ理由で力うどんも食することができない。
一見完全無欠な小野里だが、嫌いな物を出されれば少なからずダメージを与えられるはずだ。
等と策を練ったのはもう1ヶ月前になるだろうか。
あれから毎日大変だった。
世間一般に苦手とされる食材を使って早朝から料理を作りまくるのは本当に骨が折れた。
レバー、ピーマン、ニンジン、ゴーヤ、豆、香草、激辛、激甘、酢豚にパイナップル、リンゴのマヨネーズ和え、ドライカレーにレーズン、納豆、生肉、鯖寿司、乳製品、醗酵食品、果てはクサヤと思い付く限りベタな料理を作ったのに、小野里は毎回こっちが驚くくらいに綺麗に完食してしまう。
終いには夕食まで部屋で食べるようになってしまい、余計に顔を突き合わせる時間が増えてしまった。
ふたりでいる時間が増えれば自然と会話する時間も増えていき、知りたくもなかった小野里のことを少しずつ知っていく。
実は動物が好きだとか、意外とマニアックなマンガにハマってるだとか、3時間以上毎日勉強しているだとか、お風呂に入る時には『極楽極楽』と呟いてしまうだとか、どれも小野里流のイメージには合ってなくて、それでも前よりずっと小野里に親近感を抱いてしまって…本当に困る。
これでは復讐する気が起きなくなってしまうじゃないか。
俺が死ぬまでの残りの2ヶ月。
いや、こうやって動いていられるのは後1ヶ月もないかもしれない。
その間に今まで散々俺の胃にダメージを与えまくってくれた輩に仕返しをしてやろうと思っていたのに。
なのに…
こんな物見付けたら、仕返しなんてできない。
「あの嘘つき野郎…」
昨日から洗濯しておいたって言っているのに一向に持って行く気配のない小野里に呆れて、俺は大量の服を持って今は不在のアイツの部屋に勝手に入り勝手にクローゼットを開けた。
畳むと皺になる服はそのままハンガーに吊し下着やシャツはケースに仕舞っていくのだが、ここで俺は見付けてしまった。
ハンガーにかけられ何故かビニールで覆われている、あの日俺がボタンを付け替えたシャツを。
どうして捨てたなんて嘘をついたのかはわからないけど、この時の俺の気持ちを言葉にするのは難しい。
嬉しいような擽ったいような、それでいて何故か胸が苦しくなるような気持ち。
俺は主人が不在の部屋でしばらくそのシャツを眺めて、苦しくなる一方の胸に手を当てたまま一人途方に暮れていた。
復讐なんか、もう出来そうにない。
これ以上、小野里のことを嫌いでいることは無理だ。
「どうしてくれんだ、バカヤロー…」
今更、仲良くなんてなりたくないんだよ。
***
1ヶ月半前に更衣室で暴れ回ったのが効いたのか、あれ以来直接的なイジメはなくなった。
影でコソコソ言われているのも、クラスメイトが腫れ物を扱うように必要最低限の接触しか持とうとしないことも、全部想定範囲内だ。
今までのイジメに比べれば、スキップしたくなるくらい快適な環境になったと言ってもいい。
それなのに、俺の気持ちは沈んでいくばかりだ。
原因はわかっている。
だけど同時に、それはどうしようもないことなのだともわかっていた。
小野里と距離が縮まるに連れて、明らかに俺の病状も悪化している。
ズキズキと痛む胃は、最早薬では誤魔化せないところにまできていた。
刻一刻と針を進めていく俺に残された時間は、ここに来てその速度を速めているような気がする。
それはきっと、小野里のせいだ。
他の生徒には見せない本当の姿を俺にだけは当たり前のように晒す小野里。
それでいて素っ気なく、かと思えば熱心に俺の背中を眺めていたりもする。
自分でも箸が進まないような失敗した料理も、残したことなんて未だかつて一度もなかった。
優しいのか冷たいのかわからない小野里だけど、次第次第にその態度が軟化していくのが目に見えてわかる。
今では挨拶までしてくるものだから…
「これじゃ、友達みたいじゃないか」
友達なんていらない。
泣かせてしまうとわかっている今なら尚更だ。
泣いてくれるのは母さんだけで良い。
出来れば母さんにも泣いてほしくないけど。
もし俺が健康だったなら、迷うことなく小野里の友達になっただろう。
アイツをもっと知りたい。
今まで知ろうともしていなかったのが残念でならないほど、俺は小野里のことが気になって仕方がない。
もっと知って、俺のことも知ってもらって、それから遊びにだって行きたいし母さんにも紹介したい。
男勝りな母さんだけどイケメンには滅法弱いから、小野里を連れて行ったらきっと物凄く喜ぶんじゃないかな。
そんな淡い願いや希望も、テーブルの上に転がる薬の山があっという間に打ち砕く。
もしも、なんて仮定の話は今の俺には残酷な夢物語に外ならない。
残りの人生を満喫してやろうと思っていたのに、この期に及んでその事実が俺の背中に重くのしかかる。
生きたい。
生きたかった。
心残りなんて山ほどある。
だけど、時間は残酷なほど俺を追い立てる。
季節が秋へと移り冬へのカウントダウンが始まる頃、俺はようやく自分が置かれている現実に気が付いた。
短い人生だった。
楽しいばかりの人生ではなかったけど、思い返せば愛しいことばかりが浮かび上がる。
何てことのない日常が、その全てが愛しくて仕方がない。
もう二度と感じることが出来なくなるとわかって、初めてその大切さに気付く。
いや、死ぬとわかったから気付けたのか。
あれだけムカついていた小野里だって、開き直って話してみれば意外と普通の奴だったし。
もっと早く素の自分で話せていたら、もっと早くこの気持ちに気付くことが出来たのかな。
友達にはなれない。
小野里を悲しませたくないから。
小野里を大切に想いはじめているから。
小野里を、好きになりはじめているから。
だから、友達にはなれない。
気付かれてはいけない。
俺は必死に痛みに堪えて、小野里に病気のことを隠している。
薬もこうやって自室でこっそり飲んでいた。
まさか俺の部屋に小野里が入ってくるだなんて思っていなかったから。
間違って紛れていた俺の洗濯物を持った小野里に、大量の薬を手にしている俺の姿を見られるだなんて予想だにしていなかったから。
「…………何だ、それは」
そんな顔をさせてしまうってわかっていたから。
最後の最後まで、隠し通そうと思っていたのに。
***
side:小野里流
俺が松原尚孝と出会ったのは、高校に進学し入学式を控えた頃だった。
第一印象は普通の奴。
だからこそこの学校では浮いて見えた。
俺を他の生徒とは違う眼差しで見てくる松原に、興味を持たない訳がなかった。
そう、はじめはただの気紛れ。
丁度良かったから家事の全てを押し付け、俺は悠々自適の生活を送ることにした。
いつも困ったような顔をして命令に従う松原に、俺はいつも違和感を抱いていた。
本当の松原はきっとこんな人物じゃないと、本能でわかっていたのかも知れない。
俺は次第に、本当の姿を見せない松原に苛立ちを感じはじめた。
イジメを受けていたことは知っている。
俺と同室だというだけで陰険なイジメを受けている松原は、それでも俺に文句のひとつも言わなかった。
濡れて帰って来たこともあったが、俺は敢えて見て見ぬ振りをした。
いつか縋ってくるんじゃないかと、頼ってくるんじゃないかと淡い期待を抱いていたのだと思う。
そんな身勝手な期待を裏切られ、俺は苛立ち紛れに更に松原へ辛く当たった。
今思えば、子供のように拗ねていただけだったのかも知れない。
はじめてその存在を認識した瞬間から、俺はどうしようもなく松原に惹かれていた。
ただそれを自覚していなかっただけなんだ。
現に松原をイジメている主犯の生徒に止めるよう言ったこともある。
しかしそれは、俺の株を上げ松原の株を下げる結果となってしまったが。
夏休みの間は本当に辛かった。
元から大して会話なんかしていなかったにも関わらず、会えないだけでこんなにも苦しい。
自分がどれだけ松原のことを想っていたのかを、まざまざと思い知らされた40日だった。
寮に戻り捨てようとしていたシャツを傍らに置いてソファで眠っている松原を見た瞬間、堪らない愛しさが込み上げ、溢れた。
俺のこの感情は友愛ではなく、親愛でもなく、明確な欲を伴った愛だったのだと再確認させられた。
だが、この気持ちを伝えるには俺は彼に辛く当たり過ぎた。
だから言えない。
言えないけれど、せめて傍に居たい。
洗濯しとけとわざとメモを残して、松原が風邪をひかないようにと汚れてもいないシーツを上から掛けてやった。
もちろんシャツは大切に部屋に持ち帰ることも忘れずに。
取れていたボタンは綺麗に付け直されていて、それを見るだけで胸が暖かくなった。
松原が初めて俺にくれた、小さな小さなボタン。
俺はこの胸の想いと同じように、シャツをビニールで包んで誰にも見られないようにクローゼットに仕舞った。
初めて抱いた感情の花は、朝日を見ることなく枯れ行く運命なのだと静かに悟っていた。
だから尚更、翌朝の松原の態度には驚きを隠せなかった。
あの、いつも俺の視界に入らないように存在を消し続けていた松原が、俺の命令に逆らい、反抗し、タメ口を使ったんだ、驚かない方が可笑しいだろう。
それと同時に、嬉しかった。
これが本当の松原なのだとわかって、顔を緩ませないようにするだけで一苦労だった。
朝食も美味しかった。
物心がついた頃から朝はパンだと決まっていて、それを不思議にも思っていなかったけど、どうやら俺は自分では気付いていないだけで朝食は和食派だったらしい。
それからというもの、松原の料理にありつこうと試行錯誤の日々が始まった。
俺に付き纏う生徒達を舌先三寸で誤魔化し、出来る限り松原との時間を増やしていった。
好き嫌いの多い俺は、松原が作る料理のどれもこれもが苦手な食材ばかりだった。
にも関わらずどれもこれもが美味しく感じ、今では嫌いな物はなくなったほどだ。
まさに恋は盲目。
俺達は夏休み前が嘘のように、いろんな話をした。
その度に松原との距離が縮んでいくようで、多分俺は舞い上がっていたんだと思う。
何で急に松原の態度が変わったのかということも、イジメがなくなった理由も、時折伏せられる瞳の訳も、気付くことができなかった。
こうやって実際に原因を目の当たりにして、愚かな俺はようやくわかったんだ。
そしてそれは、俺が思っていた以上に、最悪だった。
***
ドアを開けたまま入口のところに立ち、無表情と言って良いくらい強張った顔で小野里がテーブルを見ている。
正確には小さな山を築いている薬を、だ。
言い訳をしなくちゃ。
この場を何とかして誤魔化さないと。
小野里を悲しませたくない一心で思考を巡らせようとするけど、思いの外動揺していて頭が上手く働かない。
まるで金縛りに遇ったかのように、全く口も開いてはくれない。
ただゆっくりと、まるでスローモーションのように感じる小野里の声を聞くことしか出来なかった。
「松原、答えろ」
初めて名前を呼んでくれたとか、そもそも名前知ってたんだなとか余計なことは思い浮かぶのに、肝心なことでは機能しない自分の脳にいい加減苛々する。
だけど、苛立っていたのは俺だけじゃないようだ。
洗濯物を握ったままの小野里の手が、ダンッと音を立てて壁に打ち付けられる。
さっきまでの無表情が嘘だったかのように、今の小野里の顔は烈火の如き怒りを瞳に乗せていた。
美形が睨むのはかなりの迫力がある。
きっといつまでも答えない俺に、無視されているみたいで気に入らないんだろう。
もう、潮時なのかも知れない。
これ以上仲が良くなるのは、俺にとっても小野里にとっても辛いだけだ。
俺は何とか息を吸い込んで、震えそうになる唇を懸命に堪えた。
握る拳は爪が掌に食い込むほどにきつく力を込められている。
そうでもしないと、声が震えてしまいそうになるから。
「……お前には、関係ないだろ。今まで散々家政婦扱いしといて今更友達面かよ? それとも、家政婦に倒れられたら困るってことか? 小野里なら自分から世話したいって奴、わんさかいるだろ。俺はもう疲れたんだよ、お前と関わるの。どうせもうすぐ転校するし、俺のことよりも後釜を捜した方がいいんじゃねぇの?」
偽りに塗れた言葉。
唯一転校するというのだけは半分本当だ。
限界が来たら、俺は退学する。
この学校の奴らに自分が死んだなんて知られたくはないから。
自分でも感心するほどスラスラと口から滑り出した偽りの言葉は、もしかしたら小野里を傷付けてしまったかも知れない。
意外と優しいところもある奴だから。
「転校……もしかして、イジメのせいか…?」
「諸悪の根源が何言ってんだよ」
そう、小野里は諸悪の根源だったはずだ。
なのにいつの間にか俺の心に入り込んできた。
俺様で自己中で無愛想なクセに、慎重にそっと俺の心に巣を張っていった。
俺は知らない内に、その巣に搦め捕られていたんだ。
俺はいい。
俺の悲しみも淋しさも苦しみも辛さも、全ては後1ヶ月半程度のもの。
だけど、小野里にはまだまだ果ての見えない未来がある。
そんな未来に俺という影を刻むわけにはいかない。
それならいっそ、突き放して恨まれた方が余程傷は浅いに違いない。
限界が来たら退学しようと思っていたけど、復讐相手もいないこの学校にいるのは辛いだけだ。
何より小野里とこうなってしまった以上、もうこの場所にいるのは無理だろう。
せめて、残された時間を母さんのために使おう。
ごめんな、小野里。
お前は歩み寄って来てくれたのに、俺は突き放すことしかできない。
小野里、小野里…
俺、お前のことが好きだよ。
だから、ここでさよならだ。
「………ざけんな」
小野里の性格上、俺の言葉に怒り出て行くことはわかりきっていた。
俺はただじっと俯いたまま、小野里が出て行くのを待っている。
待っているのだけど、一向に小野里が踵を返す気配がない。
「そんな言葉で俺がホイホイ出て行くと思ってんのか? 俺が怒るとでも思ってんのかよッ」
ギリギリと音がするほど噛み締められた歯から、小野里がどれだけ怒っているのかは推測される。
なのにどうして出て行かないんだ?
出て行ってくれないんだ?
早く出て行ってくれないと、俺…俺が折角我慢しているのに…
「お前が他人を突き放せる人間じゃないことくらいとっくにわかってんだよ。嫌なことがあっても、辛いことがあっても、堪えて堪えて堪えまくって…こっちが心配になるくらい我慢しちまう。誰よりも優しくて、誰よりも暖かい人間だってことくらい、………わかってんだよ」
床に座っていた俺に歩み寄ってきたかと思えば、顔を上げるよりも早く強い力で引き寄せられた。
俺の頬を胸に押し付けるようにして、小野里がぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。
少し甘い小野里の香りと熱いくらいの温もりを肌で感じて、俺はとうとう我慢が出来なくなってしまった。
心が決壊する。
誰にも頼ってはいけないと思っていたのに、悲しみを一身に引き受けて一人で消えるつもりだったのに。
小野里が柄にもなく優しいことを言うから。
抱き締めて、まるでこの場所に引き止めるように抱き竦めるから。
「―――…ひっ、…く…ッ…! ふ…っ、ぅう…!」
目から溢れた熱い涙が頬へと零れる端から、小野里の服に吸い取られていく。
泣きたかった、ずっと。
本当は誰かに縋って、この思いを吐露してしまいたかった。
俺は小野里の広い背中に腕を回して、皺になるのもお構い無しにきつく服を握った。
わんわんと子供のように泣く俺を見て、きっと小野里は訳がわからないはずだ。
事情なんかひとつも知らないんだから困惑したって当然なのに、それでも小野里は俺を抱き締める腕から力を抜こうとはしない。
ただ何も言わず俺を繋ぎ止めるように抱き締めるだけだった。
泣いた。
泣いて泣いて泣いて、そして泣き疲れてしまうまで、小野里は傍に居てくれた。
「………小野里、もう…俺に関わらない方がいい」
散々泣き喚いた後の声はいっそ笑ってしまいそうなほどガラガラだったけど、俺の言葉はちゃんと小野里に伝わったようだ。
「何故だ」
驚きも困惑もしていない静かな声。
どんな表情をしているんだろうと顔を上げようとしたけど、背中と後頭部に回った小野里の腕が身動きさえさせてくれない。
「俺は……小野里を悲しませたくない」
「別に俺は、お前がジャンキーでも」
「いや、薬物中毒じゃないから」
変な勘違いしている小野里にちょっと笑ってしまった。
あぁ、この腕の中はなんて暖かいんだろう。
ずっとここに居たくなる。
俺はそっと目を閉じて、額を小野里の肩口に押し付けた。
「俺、死ぬんだ」
小野里の身体が強張った。
「………後、どれくらい生きられるんだ?」
小野里は疑う言葉を口にしなかった。
それほどまでに、今の俺の声音が真剣味を帯びていたんだろう。
「多分、1ヶ月とちょっと」
「1ヶ月…ッ」
途端にガタガタと震え出す小野里に、俺はただその背中を撫でることしかできない。
首筋に濡れた感触がする。
震える吐息が聞こえてくる。
悲しませたくなんかなかったのに、もう遅かったんだな。
俺も小野里も、近付き過ぎた。
今度は小野里の震えが治まるまで、俺達は互いに縋るようにして抱き締め合った。
***
小野里は変わった。
そりゃもう、周りの奴らがぶったまげるくらいの変貌振りだ。
「松原、そこに段差があるからな」
「松原、その荷物俺に寄越せ」
「松原、テメェ中華なんて作ってんじゃねぇ」
松原、松原、松原…
あの日、俺の秘密がバレたあの日以来、小野里は部屋の中でも外でも俺に構うようになった。
しかし、周りを驚かせているのはそれだけじゃない。
あれだけ王子のように愛想を振りまくっていたにも関わらず、今ではその猫かぶりも何処へやらすっかり素で話してしまっているのだ。
小野里は俺の忠告なんか綺麗に無視して、前以上に俺に関わろうとしてくる。
まぁ、あれやこれやと気遣ってくれるのは正直言って嬉しいんだけど、優しくされる度に俺の心は悲鳴を上げる。
どんどんと俺の中が小野里でいっぱいになって、それでも考えたくもない未来を突き付けられて…
好きになればなるほど、待っているのは悲劇しかないと思い知らされる。
嗚呼、身体の内側から引き裂かれていく。
優しくしないで。
温めないで。
傍にいないで。
―――嘘。
優しくしてほしい。
温めてほしい。
傍にいてほしい。
スキ。
スキだよ。
小野里がスキ。
スキだから、心が悲鳴を上げるんだ。
身体を突き抜けるこの激痛は、病なのかお前への思いなのか…
***
side:小野里流
この世の全てを呪ってしまいそうだった。
松原の口から真実を告げられるほどに、俺は世界を、自分を呪わずにはいられなかった。
後1ヶ月の命?
ふざけるな。
ふざけるな…
ふざけるなっ!!
やっと松原に優しくできると思ったのに。
やっと松原を守れると思ったのに。
今まで変なプライドや照れ臭さで自分から関わることが出来なかった俺に、神様とやらが総出で罰を喰らわせてんのか?
ならよ、神様。
俺だけに罰を与えりゃいいじゃねぇか。
アイツはさ、今まで理不尽な目に遇っても一人で歯ぁ食いしばって堪えてきたんだよ。
片親なのに立派に自分を育ててくれた母親に、恩返しがしたいって一生懸命生きてきたんだよ。
俺が言えたことじゃねぇのはわかってるけど、頼むよ…神様。
チヤホヤとされてただ何となく生きてきた俺の命に価値なんかないのかも知れないけど、俺のをやるからアイツは勘弁してやってくれ。
俺の世界を奪わないでくれ…
目の前の光景を見た瞬間、俺の世界は色を無くした。
ただ床に広がる液体に、情けないほど全身が震える。
学校から帰って寮に戻ると、いつもはキッチンに立っている松原が居なかった。
いや、よくよく見てみれば確かにキッチンに松原は居た。
ただ、床に倒れていて見えなかったんだ。
慌てて駆け寄ってから気付いた。
床に飛び散り松原の口を濡らしている赤い液体に。
すぅっと色を無くして行く世界の中で、その赤だけが嫌に鮮明で。
「ま、つ…ばら…」
ゆっくりと上半身を抱き上げる。
意識を失っている松原は、辛うじて浅い呼吸を繰り返すばかりで一向に目を開く気配はない。
「松原…っ、松原!」
置いて行かれる。
奪われる。
松原が、いなくなる。
「松原ぁっ、松原ぁあああっっ!!」
俺の世界が、奪われる。
―――畜生…ッ、畜生ッ!!
この世に神も仏もいやしねぇっ!!
「ああぁああ゛あぁあっっ!!!!!!」
手術中のランプが点灯する。
長い廊下に設けられたベンチに腰掛けるのは俺だけだ。
松原の母親に連絡は取ったが、海外にいるとかで今すぐに出国しても今日中に着けるかはわからないとのことだった。
薄情で己の体面しか気にならない教師は、術後にまた来ると言い残して学園へと戻って行った。
寂しい。
松原尚孝という少年は、何と寂しい人なのだろうか。
彼が懸命に戦っているというのに、その帰りを扉の前で待っているのが俺しかいないだなんて。
学園で最も憎んでいた俺しかいないだなんて、何て皮肉なんだ。
身内でも何でもない俺には、医師から詳しい説明を聞くことは出来ない。
だから俺は、一心に祈る。
神様なんかにはもう頼まない。
俺は俺の世界、松原に祈る。
松原を信じる。
こんな些細なことが、俺に今できる精一杯なんだ。
少し広い個室。
ナースステーションの隣に位置するこの部屋の真ん中で、松原は静かに眠っている。
まだ麻酔が切れていないのか、一向に目覚める気配はない。
あまりに青白い松原の顔色に、胸が僅かに上下していなければそれはまるで死んでいるようで…
「松原…っ」
俺は堪らずに松原の手を握り締めた。
引き止めたい、この世に。
俺の傍に。
「お前の傍に居させろ…何でもしてやるから。俺は多才だから、家事もやって出来ないことはない。将来だって有望だから、お前一人養うことくらい楽勝だ。闘病生活になろうが、寝たきりになろうが、俺がきっちり面倒見てやる。だから松原…頼む、俺を置いていくんじゃねぇ…」
握った松原の手に、祈るように額を押し付けて懇願する。
「…お前が、松原が好きなんだよっ、チクショー…」
馬鹿みたいに震える手に力を込めて、俺はただただ松原の手に縋ることしかできない。
酸素を生み出す液体がブクブクと立てる音だけが室内を支配する。
「……………小野、里…」
「!! 松原!?」
酸素マスクをしているからかこもった声で呟く松原に、俺は慌てて顔を上げた。
薄く開かれた瞳はそれでもしっかりと俺の方を向き、力の入らない指で懸命に俺の手を握り返そうとしている。
生きている。
松原が俺を呼び、俺に触れ、俺を見て、…生きている。
俺はこの時になってようやく涙が溢れ出した。
まるでやっと心が戻ってきたかのように、後から後から俺の頬を涙が滑り落ちていく。
そんな俺を見て、松原が更に目を細めた。
「……聞こえて、た……小野里の、声…。俺を、呼ぶ…声……」
麻酔がまだ効いているのか何処か夢うつつな松原の声がとても嬉しそうで、聞いていると胸がぎゅうっと締め付けられてしまう。
「…あり、がと……俺も、……俺、も………小野里のこ、と……、………」
最後の言葉は掠れて聞こえなかった。
ふぅっとひとつ息を吐き出したかと思えば、松原はそのまま目を閉じてしまった。
握り返してくれた指から力が抜け、ずるりと俺の手から滑り落ちていく。
「……松原…、ちょっと…待てよ……。お前の余命、後1ヶ月あるんじゃなかったのかよ…なぁっ、今なんて言ったんだよ、松原! んなちっせぇ声じゃ聞こえねぇよっ、松原ッ、松原ぁっ!!」
くったりと力の抜けた松原の手をきつく握り、俺は有らん限りの声で呼んだ。
こんなところでさよならなんて、させて堪るか!!
俺にはお前が必要なんだ。
松原なしじゃ息もできない。
俺は引ったくるようにナースコールを掴み、何度も何度もボタンを押す。
それだけが松原を繋ぎ止めることができるのだと、俺は涙を拭う余裕すらなく微か過ぎる希望に縋った。
ガラガラガラッ!
引き戸を開ける音が響き、ようやく看護師がやって来たのかと振り返った矢先、
「ちょっと尚孝!! お友達が呼んでんだから起きなさい!!」
俺は松原の手を握り締めたまま、いきなり現れたどう考えてもナースではないド派手な服装の女性に思考が停止した。
更には大声を上げながら持っていた鞄を振り上げて、あろうことか松原の足に振り落としたのだ。
「―――イ゛ッ、テェエエエッッ!!!!」
「………え!?」
たった今ゆっくりと目を閉じた松原が、そのあまりの痛みにもんどり打っている。
しかもそれが傷に障ったのか、まさに悪循環に陥っているようだ。
そんな中俺はといえば、あまりの急展開に完全に脳の機能が停止してしまっていた。
***
「ふざけんなよっ、クソババァッ!!!!」
信じらんねぇっ、信じらんねぇっ、信じらんねぇっ!!!!
「うっさいわね。わざわざ飛んで来てやったんだから有り難いと思いなさい」
「誰が感謝なんかするかっ、実の息子騙しやがって!!」
きっともう、俺は死ぬんだって思ってた。
そして、最後に小野里を見ることができて、中々に良い人生だったのかもとさえ思えた。
なのに…
「俺の病気が胃炎と胃潰瘍ってどういうことだぁあああっっ!!!!」
母さんに弁慶の泣き所をぶっ叩かれて起こされたかと思えば、笑いながら告げられた言葉に俺は見事にブチ切れた。
暴れる俺を必死になってベッドに縫い止めてくれている小野里には悪いけど、いくら母親といえどやっていい事と悪い事はあるだろう!?
「だってアンタ、柄にもなくストレスで胃炎になったのよ? こりゃ悩みがあるんだろうなって、母親なら一肌脱ぎたくなるもんじゃない。アンタはアタシに似て短気だから、生い先短いともなれば開き直って好き放題やると思ったのよ。栄養サプリメントもどっさり渡したしね。それが今度は、余命が短いことがストレスになって胃炎から胃潰瘍にランクアップするし。まったく情けないわねぇ。ま、ネタバラシするのすっかり忘れてたアタシもアタシなんだけどさ! アハハハハッ」
「アハハじゃねぇだろぉお―――ッッ!!!!」
死ぬかも知れないって思った。
もう駄目なんだって。
小野里にはもう会えないんだって…
「悪かったわよ、尚孝。でも、アンタにこんな良いお友達がいたなんてね。大切にしなさいよ」
悪戯っ子のように笑っていた母さんが、不意に目を細めて俺の隣に視線を移した。
そこには俺の肩を両手で抑えながらも、ボロボロと涙を零している小野里の姿があった。
「えっ、ちょっ小野里!? どうしたんだよっ、どっか打っ…」
「良かっ……ッ…嘘で、良かった…!」
いつにない小野里の様子に戸惑っていたら、そのままぎゅうっと抱き締められてしまった。
本当なら俺みたいに怒ってもいいはずなのに、小野里はただただ俺の余命が延びたことを喜んでくれる。
安堵と喜びに涙しながら、まるで俺の存在を確かめるように腕に力を入れるものだから。
「……痛いよ、小野里…っ」
きっと俺まで泣けてくるのは、傷口が痛むからだ。
俺を気遣って少し腕の力が緩んだことにちょびっとだけ残念に思うけど、いつの間にかいなくなっていた母さんにも気付かずに俺達は抱き合って泣いた。
前にもこんなことがあったけど、気持ちはあの日とは全く違う。
これからも小野里といられるんだって喜びが、俺の涙を止めてくれない。
それはきっと小野里も同じなんだと思う。
………でも、それと母さんを許すのとではまた別の話だ。
今回のこと、きっちり落し前付けさせてやる!
***
俺の日常が戻ってきた。
余命とされていた冬を迎えても、当たり前だけど俺の体調に変化は訪れない。
変化といえば、俺の日常は確実に変化していた。
術後の経過も良くすっかり元気になったというのに、未だにあれやこれやと世話を焼こうとする男がいるのだ。
過保護というか心配性というか、俺がちょっとでも腹が痛いだなんて言い出そうものならすぐさま病院に連れて行こうとする勢いで。
……まぁ、嬉しいことは嬉しいんだけど。
「何ボーッとしてんだ。ここのスペシャルディナー食べてみたかったんだろ?」
小野里の言葉でようやく俺は現実へと戻ってくる。
目の前に並べられているのは、庶民の俺では到底口にすることのできない豪華なフレンチの数々。
流石金持ち学校なだけあって、学食にはこんなアホみたいなメニューが存在する。
前々から気にはなっていてそれを小野里に話してしまったものだから、あれよあれよと言う間にこんなことになってしまった。
そして想像以上の豪華さに、一瞬空想と回想の世界に逃避してしまったという訳だ。
A5和牛フィレ肉とフォアグラのステーキ・白トリュフソースキャビアのせ……って、メインだけでもドン引きなんですけど!
「ったく、仕方ねぇな。ほら、口開けろ」
何を思ったのか、小野里は手慣れた仕種でステーキを切りフォークを俺へと向けてきた。
というかこういう場合普通は向かい合って食べるものなのに、何故か小野里は俺の左側を陣取っている。
「いや、食べ方がわからないんじゃなくて、料理に圧倒され…んぐっ!」
「いいから食え、冷めるだろ」
口を開いた俺にこれ幸いとステーキを押し込め、小野里は幸せそうに微笑む。
柔らかな肉に初めてのフォアグラと小野里の微笑みというトリプルパンチで、俺の心はもう蕩けてしまいそうだ。
「美味いか?」
「……う、ん…」
「そうか」
何で俺に食べさせてるお前の方が、そんな嬉しそうな顔するんだよ。
料理だけじゃない。
俺がやること成すこと全部を嬉しそうに見詰めてくる。
本当はわかってるんだ。
小野里は俺が生きているってこと自体が嬉しいんだって。
俺の存在を心から喜んでくれているんだって。
わかっているから、俺は小野里を叱れずにいる。
だって俺も嬉しいから。
死が俺と小野里の間に大きな壁となって立ちはだかっていたのに、それが取り払われた今こんなにも小野里を近くに感じる。
身体だけじゃなくて、心も寄り添う。
「あー…ヤベー…、松原顔真っ赤だし、メチャメチャ可愛い……どうする、一旦部屋に戻る?」
「何でだよ」
「いや…ほら、運動した後の方が腹減るだろ?」
「部屋で何の運動するんだよっ」
小野里のセクハラ発言に吹っ切れて、俺は遠慮なく目の前の食事に専念することにした。
確かにただのルームメイトから友人、そして恋人にまでなった俺達だけど、こんな人が多い場所で何を言ってるんだコイツは。
恥ずかしさに憤死してしまいそうだけど、それでも小野里を可愛く思えてしまうのは痘痕も笑窪というヤツなのだろうか。
「ククッ、松原マジで可愛い」
「言ってろ」
「あぁ、何度だって言ってやる。可愛い、松原…スゲェ、どうしようもないくらいお前が好きだ。お前が呼吸する度に、俺はお前に惚れていく。松原に触られただけでイッちまいそうなくらい、お前だけを愛してる。愛してる、尚孝…早く二人っきりになりてぇ」
「やっぱり言うのやめて下さい」
この世には、神も仏もあったものじゃない。
「尚孝、愛してる」
「……俺も、愛…してる。流…」
だから俺は、お前だけを信じるよ。
【end】