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第99話 兄弟の再会

 その日、宮中は暗い空気に包まれていた。

 大事な家族のひとりが去らなければならない日なのに清涼殿から1歩も出ようとしない父を説得するため、榛紀しんきは父の前に跪いて懇願した。

 幼く、何の力も持たない榛紀にとって最愛の兄のためにできることはこれしかなかった。

「父上っ! 兄上に下した命をお取下げください」

「…………」

芙蓉ふよう様がお亡くなりになったばかりなのに、居場所まで兄上から奪うのですか」

「…………」

 榛紀が何度噛みつこうとも、帝である父は「すでに決まったこと」と取り合わなかった。

 結局、何が起こったのか榛紀は何も知らない。

 茶を呑んで1度倒れた帝は兄の母である芙蓉が亡くなるのと引き換えに、息を吹き返したらしい。

 楽しい春の茶会で、白椎はくすいが初めて人に茶を点てると聞いて榛紀は誰よりも楽しみにしていた。

 幼いながらも出自を理由に兄をよく思わない公家もたくさんいることを榛紀は知っていたが、彼にとってはたったひとりの兄なのである。

 その兄が人前に出ることを喜ばないわけはなかった。

 万物に精通するほど博識な兄を自慢できる絶好な機会になるはずだった。

 それなのに……。

「父上、何とかお考え直しを——」

 土下座する榛紀を無言で抱き上げた帝はそのまま彼を膝に乗せた。

 間近に迫ったのは帝の顔ではなく、父親の顔だった。

「お前は私の後を継いで帝の地位に就く者。そう易々と頭を下げるものではない。他の者が見れば何ごとかと不安になる」

 榛紀から見た父はひどく疲れているようにも、悲しんでいるようにも見える。

「榛紀——よく覚えておくがよい。帝といえどすべてが思い通りになるわけではない。いや、思い通りにならぬことの方が多い。それでいて常に心穏やかにおらねばならぬ。帝が個の感情を表に出してはみなが不安がる」

「……ですが、兄上は——兄上は何も悪くないのに、なぜ宮中ここにいられないのですか」

いことだがこれは——」



 大それたことを望んだつもりはなかった。

 ただ、もうたったひとりとなってしまった家族にそばにいてほしい、それだけだった。

 それは誰も望まないことだとしても諦めたくはなかった。

 鷹司杏弥たかつかさきょうやを捕まえ、風雅の君と呼ばれる兄——白椎と対面する機会を得たかった。

 やっとその1歩を掴んだはずだった。

「——紀」

 暗くて何も見えない。

「——大丈夫ですかっ」

 遠くで誰かが叫んでいる声が聞こえる。

 叫んでいるのは誰だろう。

 心なしか懐かしい声のようにも感じる。

 だが錘を付けて海の底に沈んでいるように体が重くて、動くこともできない。

「——榛紀っ」

 体を揺らされ、榛紀は意識を取り戻した。

 目を開けると見たことのある光景が広がる。

(ここは確か、月華つきはなの……)

 そこはつい最近、世話になったばかりの九条邸だと気づいた。

 この御帳台みちょうだいもすっかり馴染のものとなってしまった。

 榛紀が何度も瞬きすると、温かい手が額に乗せられた。

「目が覚めましたか」

 見上げると安堵して見下ろす顔がそこにはあった。

 驚いて榛紀が急に体を起こすと彼の顔を覗き込む相手の額とぶつかった。

 あまりの激痛に半身を起こした状態で頭を抱え込む。

「うぅぅぅ……」

「急に体を起こすなんて、危ないではありませんか」

 怒られながらも榛紀は涙目のまま相手の顔をまじまじと見つめた。

 病的なまでに色白で整った顔は忘れるはずもない。

 何度も会いたくて焦がれた相手が目の前にいることが信じられず、幻なのではないかとさえ思った。

「……あ、兄上、なのですか」

「そうですよ、榛紀。あなたのたったひとりの兄です。久しぶりですね、何年ぶりだろうか」

「…………」

 これまで何度、文を送っても返事すら来なかった兄が今、目の前にいる。

 榛紀は信じられなかったが、あふれる想いを止めることはできなかった。

 勢い余って抱きついた。

「兄上、なぜこれまで何度も文を送ったのに、返事すら下さらなかったのですかっ。私がこれまでどれだけ兄上にお会いしたかったことか……」

「そうなのですか? 私の手元に文が届いたことはありませんでしたが……もしかしたら榛紀からの文だとわかっていて途中で握りつぶされていたのかもしれませんね。それは可哀そうなことをしました。私が意図的にあなたを無視していたわけではないから許してください」

 兄の腕に包まれ、これまでの孤独が癒されていく。

 榛紀はそんな幸福感で満たされていった。

「そんなことより榛紀、熱を出して寝込んでいたのですからまだ横になっていないとだめですよ」

「熱など、兄上のお顔を見ただけで吹き飛びました」

 錘がぶら下がっているかのように重かった体が軽く感じているのは事実だった。

 それまでの不快感はまるでない。

 しかし心配する白椎は榛紀の額に手を当てて言った。

「少し下がったかもしれませんが、それでもまだ平熱とは言い難い。うなされていたから起こしましたが、大丈夫なのですか」

「兄上の夢を見ていました」

「私の?」

「はい。兄上がみやこを去る日の夢です。何度見ても辛い気持ちになる。あの園遊会で起こったことは兄上に全く非がないのに、その罪を問われて——」

「はははっ。昔のことです。私はもう忘れました」

「いいえ、私は忘れていません。あの日——兄上が宮中を去ることになったあの日、父上が私に言ったのです」

「…………?」

いことだがこれは白椎を守るためだ、白椎が何も悪くないことはわかっている、と」

 榛紀は夢で見た光景を思い返した。

 まだ幼く、何の力も持たなかったあの日。

 父に縋りつくように懇願した。

 あの頃は、この国の頂点に立つ帝にできないことは何もないと信じて疑わなかった。

 だからこそ、頼み込めば命令を取り消してもらえると思っていた。

 だが父の考えが変わることはなかった。

 宮中を去っていく兄の姿がいつまでも脳裏に焼き付いて何年たってもその時の無力感を忘れることはなかった。

「父上は直接兄上におっしゃらなかっただけで、兄上が無実であることはわかっておいででした」

「榛紀……ずっと気にしていたのですか」

「当り前ではありませんか。つい最近、やっと禁書の棚で『橄欖園遊録かんらんえんゆうろく』を見つけたのです。何度もすべてに目を通しましたが、どこをどう見ても兄上が罪に問われることはなかったはず。ですが政に携わるようになった今なら、父上のなさったことがわかります。よからぬ輩に利用される可能性もあったでしょうし、兄上の命を狙う輩もいたかもしれません。そんな状況の中に兄上を置いておくこと自体が危険だったのです。だからみやこから——公家の社会から遠ざけた」

 「い」と言った父の言葉に榛紀はすべてが込められているように思う。

 思い通りにならない苦しさ、切なさが多分に含まれている。

「兄上、宮中に戻ってくださいませんか」

「何を……」

「私には兄上が必要です」

「…………」

 白椎の困惑した表情に、榛紀はため息しか出てこなかった。

 そんな顔をする必要などない。

 宮中はもとよりあなたがいるべき場所だ。

 榛紀はそう叫びたいくらいだった。

「兄上。私には心から信頼できる相手がそばにひとりもおりません。私は孤独です。帝は孤独であるべきだということも理解していますが、それでも今の私には心の拠りどころが必要なのです」

 榛紀は白椎の手を握りしめて深く頭を下げた。

 すると深いため息が頭上から聞こえた。

「——榛紀、あなたは帝なのですからそんなに簡単に頭を下げるものではない」

 その言葉に榛紀が顔を上げると、白椎は呆れ顔だった。

 かつて同じような顔を見たことがある。

 榛紀は思わず声に出して笑った。

 吹き出さずにはいられなかった。

「何がおかしいのですか、榛紀」

「すみません、兄上が父上と全く同じことをおっしゃるので、つい——」

「つい、何ですか」

 仏頂面の白椎に頬をつねられ、榛紀の顔が歪んだ。

「ひゃ、ひゃへへふらはい」

「やめてください、とはっきりおっしゃい」

「ひ、ひいはふはら、はらひへふらはい」

 すぐに白椎は手を離したが、ふたりは互いの顔を見合うと心底おかしくなって腹を抱えたのだった。

 ひとしきり笑った後、白椎は急に神妙な表情になった。

「榛紀」

「はい」

「私が宮中へ戻ることはもう2度とない」

「…………」

「私には必要ない場所なのです」

「……どうしても?」

「ええ、どうしても」

「そう、ですか……」

 時華ときはなにも風雅の君の居場所はない、とはっきり言われたことを思い出す。

 それでも諦めたくはなかった。

 しかし本人が受け入れないのだから、これ以上はどうにもならない。

 榛紀の落胆は想像以上のものだった。

「ですが——」

 白椎は榛紀の頭に手を乗せると微笑みながら言った。

「悩みがあるならいつでも聞きましょう。榛紀が必要とするなら私はいつでもあなたに会いにくることができる。だから寂しくなったら私を呼びつけなさい」

「……本当ですか? またすぐに姿をくらましてしまうのでは——」

「ある人の助けで軟禁されていた備中国びっちゅうのくにから出ることができました。今抱えている問題を解決した後は近江の紅蓮寺ぐれんじでのんびり余生を暮らすつもりです。いつでも会えますよ」

 榛紀にとってそれは何よりも嬉しい言葉だった。

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