第97話 六波羅の騒がしい夜
六波羅御所の書院で主は床の間を背に物思いにふけっていた。
朔月の夜は何かとよからぬものを感じ、鬼灯は好きではなかった。
やはり月は明るい方がよい。
長雨も終わり星の瞬く夜空を眺め、鬼灯が思い浮かべるのは棗芽のことだった。
嵐の夜に突然現れた棗芽が備中国に行くと言い出したことには驚いた。
かつて月華も様子を探っていたとおり、昨秋征伐した近衛家は確かに西国と繋がっていた。
倒幕を目論んでいたのは近衛柿人ではなく、西国に別の黒幕がいるのではないか。
月華がそう言い出したのを鬼灯も一理あると思った。
月華を鎌倉へ帰した後、しばらく棗芽に西国の動向を探らせていたが、結局辿り着いたのは月華と同じ妹尾家という武家だった。
棗芽は当初、妹尾家に匿われている風雅の君が帝の地位を狙って倒幕をも目論んでいると考えていたようだが、実際は違うようだとあの夜に自ら否定した。
しかも三公という賢人が黒幕ではないか、という。
その上、あの疑り深い棗芽が妹尾家に近い者の証言だから間違いないと言い切った。
あの棗芽にそこまで信用させる者が存在すること自体、鬼灯には驚きだった。
棗芽から三公の話を耳にして以来、鬼灯なりにそのことを調べてみたがやはり詳細はわからなかった。
わかったのは妹尾家が備中国の中で最も有力な武家であることだけで、棗芽の話に出てきた公家や呪術師の情報は皆無だった。
もし本当にこの3人の賢人が倒幕を目論んでいるとしたら目的は何だろうか。
武家の社会を壊し、かつての公家の社会を取り戻したいのだろうか。
だとすると武家である妹尾家が関わっていることが腑に落ちない。
それともよほど現帝の治世に不満があるのだろうか。
現帝が親幕派であると言われ、武家の治世を尊重する姿勢を見せていることを快く思わないのだろうか。
真実はどうであれ、今の治世を快く思っていないからこそ何かをしようとしていることは確かである。
結局、棗芽が戻るまで何も結論を出すことはできない。
鬼灯は小さく息を吐いた。
(雨は上がったというのに、棗芽はずいぶんと遅いな……)
そんなことを思っていると、けたたましい足音ともに駆け込む家臣が青ざめた顔で突然激しく襖を開けた。
「た、大変でございます」
「…………?」
何が起こったのかわからなかったが鬼灯はとにかく状況を確認しに邸を出た。
六波羅門まで出た鬼灯はそこでここにいるはずのない人物たちと出会った。
「……お前たち、一体どうしたのだ?」
門を潜り御所の敷地へ足を踏み入れたのは、李桜とその背中には悠蘭がぐったりとして背負われており、心配そうに寄り添う椿と菊夏の姿があった。
鬼灯が駆け寄ると、姪の菊夏が珍しく我を忘れた様子で縋ってきた。
「伯父上! こんな夜分に申し訳ありませんっ。ですが——」
「菊夏、少し落ち着かぬか」
鬼灯に諭された菊夏は我を取り戻したのか、口を噤んだ。
俯く菊夏の肩を抱きながら鬼灯は李桜たちを書院へ案内したのだった。
書院に辿り着くと気を失っていた悠蘭が目を覚ました。
李桜や椿に状況を聞くところによると、頭を打ったせいで気絶していただけのようだった。
「それで、一体何があったのだ」
「それが——」
悠蘭が口ごもるとその場の全員が顔を背けた。
「何だ? 私に言えぬことか?」
「いえっ、そういうわけでは……」
言いにくそうにする悠蘭をよそに李桜がおもむろに口を開く。
「実は百合殿が連れ去られまして、月華が今、後を追っているのです」
「連れ去られた!? 誰に?」
「わかりません。でも刀を持った武士です。それも隻眼の——」
「え? 悠蘭、あんたあの男を知ってるの」
李桜の問いに悠蘭は慌てて否定した。
「し、知りませんよ。でも以前、みつ屋で1度だけ会ったことがあるんです。あの人は一方的に自分の好みについて話していました。人を攫ったりするようには見えなかったけどな」
「あの男、今晩だけじゃなくこれまでにも京にいたことがあるってこと!?」
「李桜、私にもわかるように話せ」
李桜と悠蘭の話がさっぱりわからず鬼灯は李桜に説明を求めた。
ひと通り話を聞き終え状況がある程度わかったところで、再び慌ただしく書院に雪崩れ込んだ家臣は鬼灯に言った。
「た、大変でございます」
全員が互いの顔を見合って、首を傾げたのは言うまでもない。
ほどなくして別の家臣の案内で書院に現れたのは紫苑と楓、そして彼らに腕を引かれる杏弥だった。
広い書院とはいえ8人もの大人が集まれば多少、手狭に感じる。
紫苑の顔を見るなり、李桜は目くじらを立てた。
「紫苑、あんた九条邸に行ったんじゃなかったの。白檀はどうしたんだよ」
「いくら白檀殿のことが許せないからって怒るなよ、李桜。ちゃんと弾正尹様と一緒に送り届けたさ」
「じゃあ何で楓とここにいるの」
「白檀殿が鷹司杏弥は負傷している楓殿には手に余るから手助けしてこいってうるさかったんだよ。とりあえずあの人は九条邸から逃げる様子もなかったし、松島殿に後を頼んできたから楓殿の様子を見に行ったわけ」
「いや、紫苑殿が来てくれて助かった。この刑部少輔が言うことを聞かぬから手を焼いていたのだ」
先に到着していた彼らの前に杏弥を突き出すと、杏弥はその場に正座し全員の視線を浴びることとなった。
誰とも視線を合わせないように俯く杏弥に、悠蘭は言った。
「杏弥、お前、何をしようとしていたんだ」
「う、うるさいな。お前には関係ないっ」
「関係ないことがあるか。輪廻の華と呼ばれる方は俺の義姉上なのだから」
そこで鬼灯はさらに詳しい情報を得ることとなった。
風雅の君と接触する必要があった月華、輪廻の華を風雅の君に献上するため星祭りの会場で彼女をかどわかそうとしていた杏弥、風雅の君と接触する方法を杏弥が知っているのではないかと彼との接触を試みようと言った弾正尹、それに巻き込まれた彼ら。
鬼灯はふと、1日月華の話に付き合った日のことを思い出した。
百合の持つ異能は使えば使うほどその命を削るものらしい、と月華は言った。
百合の異能を消す方法を探っていて、朝廷の書庫で見つけた禁書の話をしていたことがまだ記憶に新しい。
禁書の最後に書かれていたと思われる部分を風雅の君が知っているかもしれない、そう月華は零していたのだ。
かつて倒幕を目論んでいた近衛柿人は輪廻の華を利用して兵を集めようとしていた。
倒幕を目論んでいたのが棗芽のもたらした情報のとおり三公と呼ばれる備中国に巣くう3人だとすれば、輪廻の華を利用しようとしていたのはその三公だとも考えられる。
棗芽が戻るまではっきりとはわからないが、連れ去られたという百合は備中国へ向かったのではないか。
もしそうだとすればそれは百合を再び倒幕の兵集めに利用しようとしているのかもしれない。
鬼灯は嫌な予感がした。
まだ動くには早い。
情報が少なく、錯綜しているようなこの状況ですべては憶測にすぎない。
頭ではそう理解しているが心は今すぐに月華の元へ向かいたい衝動でいっぱいだった。
いつも傍らに置いてある刀を握りしめようとしたその時。
この夜、3度目の家臣の叫びが書院に響いた。
「た、大変でございます、鬼灯様!」
「今度は何だ!?」
さすがの鬼灯も3度目は苛立ちを隠さなかった。
立ち上がり様子を窺おうとするとすでに書院の前までやって来た勝手知ったる人物が苦笑いしながら襖を豪快に開けた。
「……おや、みんな揃ってどうしたんだい」
現れた人物——雪柊は肩に担いでいた月華を静かにその場に下ろした。
「兄上!?」
1番に飛びついてきたのは月華の弟、悠蘭だった。
心配そうに兄の顔を覗き込む。
「雪柊様、兄上は——」
「大丈夫、気を失っているだけだよ」
その言葉に胸を撫で下ろした悠蘭だったが、徐々に訝しげな表情へ変わっていく。
「どうしてここに兄上が!? 義姉上を追いかけたのではないのですか」
「そうですよ、雪柊様。まさか月華は相手に打ちのめされて——」
李桜がみるみる青ざめていくのを見て雪柊は含み笑いしながら答えた。
「いやいや、怪我はしていない。これは棗芽にやられたんだ」
「……はぁ!? 叔父上、何で棗芽様が月華に危害を加えるんですかっ」
「百合を奪われて正気を失っていたから、こうするしかなかったんだ」
雪柊は紫苑に諭すように答えた。
「なぜここへ来た、雪柊?」
「鬼灯、悪いけど月華を預けるよ。私はこれから百合を追う」
「百合殿はどこへ行ったのだ」
「百合は妹尾家の者に奪われた。備中国へ行ったと思う。棗芽が先に後を追った」
「棗芽が? 話がまったく見えぬな。あいつは備中国へ偵察に行ったのだぞ? それがなぜそうなる」
「詳しいことは私も知らないよ。ただ言えることは百合を取り戻さなければならなくなったってことだけだね」
鬼灯は雪柊をじっと見つめた。
雪柊とは長い付き合いの上に、義兄でもある。
彼は嘘は言わない男だが、隠しごとが多いことを鬼灯は知っていた。
詳しいことは知らない、というのは真実なのか——。
訝んだところで雪柊の口から語られることがなければ真実はわからない。
鬼灯は盛大なため息をついた上で、苛立ちを隠すこともなく言った。
「お前たちは六波羅を何だと思っているのだ。ここは寄合所ではない」
それはこの夜、六波羅に集った全員に対して放った言葉だった。




