第94話 輪廻の華の価値
敦盛は折れた刀身をただ見つめていた。
何が起こったのか頭の中を整理する必要があった。
備中国を出て山陽道を走り、偶然にも紅葉を見つけたところから事態はおかしくなったように思う。
風雅の君を連れ戻すために国を出たが、紅蓮寺に逃げ込んだと聞く紅葉は山吹が連れ戻しに行ったのではなかったのか。
なぜ山吹もそばにおらず、見知らぬ男と一緒にいるのだろうか。
彼女のそばにいた雪柊と呼ばれる目の細い男の存在は誤算だった。
決して刀も持たない丸腰の男だと油断したわけではない。
だが急所ばかりを狙う武術に長けていて、かつその速さは尋常ではなかった。
目がそれに慣れるまでにしばらくかかったくらいである。
これまで数々の戦場で戦ってきた敦盛だったが、雪柊ほどの速さで次々と技を繰り出して来る輩には出遭ったことがない。
しかも相手はどちらかが倒れるまで続けるつもりのようだった。
雪柊によって足を払われ、倒された時に地面に刺さったままの長刀を奪って行ったのは一体何者なのだろう。
顔は見えなかったが、敦盛の後方へ奪った刀を持って走って行くのは確認していた。
その後、雪柊が「山吹殿っ」と叫んだところまでは覚えている。
敦盛はとにかく必死だった。
風雅の君や紅葉を連れ戻せるのは命あってのことである。
対峙する雪柊からは隠すことなく殺気が漏れ出ていたために目の前の敵を止める手を打たなければならなかった。
しかしそれがまさか短刀を折られる羽目になるとは……。
敦盛が雪柊に向けて刀を振りかざした時、彼は間違いなく雪柊の命を奪うつもりでいた。
それが気づいた時には雪柊の代わりに太刀を持った髪の長い男に受け止められた上に、返す勢いで敦盛の刀はふたつに折れてしまった。
折った張本人は雪柊のことを「師匠」と呼んでいたから、親しい間柄なのだろう。
その勢いで雪柊に代わって攻撃してくるかと思ったが、実際は抜いた太刀をすぐに鞘にしまうと風のような勢いでその場を立ち去っていったのだった。
改めて折れた刀を見つめていると、ここぞとばかりに雪柊の攻撃が再開した。
「ぼうっとしている暇はないはずだが——」
そう呟きながら身を屈めた雪柊は敦盛のみぞおち目がけて拳を打ち込んだ。
見事に命中した雪柊の拳はみぞおちに深く入り込み、敦盛は一瞬の呼吸困難に陥った。
と同時に折れた刀をやむなく手放すと手と膝を地面につき、敦盛は完敗したのだった。
北条棗芽という人物は、月華の上司である北条鬼灯の末の弟にして彼が全幅の信頼を置く人物でもある。
誰も敵わないとみな認めている人物。
その強さは剣術に留まらない。
雪柊の1番弟子として武術は誰よりも長け、知略にも優れているからだ。
月華は棗芽に勝ったことが1度もなかった。
だから憧れていた。
すでに幕府からは距離を置いているが、かつては戦場で何度も棗芽に命を救われたのだ。
信頼を置かないわけがなかった。
そんな月華が鬼灯と同じように尊敬する相手が、今自分の前に立ちはだかったことが信じられない。
棗芽の太刀によって弾き飛ばされた月華は後方へ転がった。
受け身を取る余裕もなかった。
頬が地面に擦れる。
月華は自分の無力さを改めて実感した。
百合を連れ去られ、憧れる存在である棗芽に敵対され、すべてを失ったように感じた。
喪失感はやがて怒りの感情へと変わっていく。
山吹さえいなければ百合は連れ去られることがなかったはずである。
そしてその山吹を守ろうとする棗芽もまた同罪ではないか。
もはや月華の中では山吹も棗芽もひと括りに見えていた。
百合との穏やかな生活を取り戻すためには、彼女の異能を利用しようとする輩だけでなく、それを助長する動きをする者もすべてを排除しなければならない。
そして百合の持つ異能を消すまでは諦めるわけにはいなかい。
怒りの感情は原動力となる。
月華はゆっくりと立ち上がると、再び負傷している山吹に向かって刀を振り下ろした。
しかしそれも結局は棗芽に受け止められた。
月華はさらに1歩踏み込む。
「棗芽様、悪ふざけはいい加減にしてください」
「悪ふざけ?」
「何の因果でこの男を守るのか知りませんが、あなたが俺の前に立ちはだかると言うなら俺は戦うのみです」
「…………」
「百合は誰にも渡さない。この男が百合を連れ去ろうとする以上、俺はこの男を殺してでも百合を取り戻す」
「……特別な感情を抱く相手を誰にも渡したくないという独占欲には同意します」
何度目かの鍔迫り合いの後、棗芽はそう言った。
月華には棗芽の言う意味がよくわからなかった。
まるで棗芽にも想い人がいるように聞こえる。
「だから、私はそんな特別な女が大事にしている者をみすみす斬らせるわけにはいかないのですよ、月華っ」
それまでのらりくらりと月華の斬撃を受け止めていた棗芽は全力で月華の刀を弾いた。
弾かれた月華は当然、地面へと転がる。
師匠と弟子くらいに実力差があるふたりが戦っているのだ。
月華に分が悪いのは当たり前だった。
すると、月華が倒れるのと同時に暗がりから叫び声が聞こえた。
「月華様っ!」
その場にいた全員が暗がりに視線を向けるとそこには連れ去られたはずの百合が驚愕した様子で立ち尽くしていた。
最初に反応したのは雪柊だった。
「……百合? 九条家にいるばすの彼女がなぜここに」
雪柊は百合が京から連れ去られたという事実を知らない。
なぜこんなところにいるのかと訝しげにしていた。
雪柊の反応で相手が輪廻の華であると理解した紅葉は、驚きのあまり口元を押さえ言葉を失っていた。
敬愛する白檀が執着していた輪廻の華。
女子であることは知っていたが紅葉は彼女の顔を知らなかったのである。
棗芽もまた、百合を見るのは初めてだった。
輪廻の華である前に月華の妻である彼女とはその辺ですれ違ってもわからなかっただろう。
常闇の術を使える異能を持ち、輪廻の華と呼ばれ、白檀が逢いたいと言っていた人物。
棗芽は星明かりにぼんやりと照らされ美しく佇む百合を呆然と見つめた。
山吹は草むらに彼女を残したままだったことを後悔し、こめかみを押さえながら盛大なため息をついた。
百合を備中国へ連れて行こうと思った理由は2つ。
それは三公に言われたからではない。
ひとつは敦盛の妾役を紅葉に代わってさせようという魂胆があったからだ。
しかしすでに敦盛と、逃げたはずの紅葉が再会してしまった。
山吹がやろうとしていたことは水泡になってしまったのである。
もうひとつは三公に逆らえば、備中に残してきた白檀に危害を加えられるのではないかと懸念していたからだ。
全員の視線が百合に集中している以上、ここから彼女を連れ出すのはもはや無理だろう。
山吹はすべてが失敗に終わったのだと悟った。
そして雪柊の拳によってその場に倒れていたはずの敦盛の姿がないことに、まだ誰も気がついていなかった——。
月華は百合の声ではっと目が覚めた。
黒い感情に支配され何もかもを悲観していたが、棗芽に弾かれ地面に叩きつけられた衝撃すらものともせず、月華はすぐに立ち上がった。
声のした方へ視線を返すと確かにそこには百合が立っている。
「百合——」
月華が声をかけようとしたその時。
百合は何者かに腕を引かれ、引きずられるように暗闇へ消えていった。
「——っ!」
その場にいた全員が百合を追いかけようと集合したが、一瞬の隙に馬の嘶きが聞こえた。
まもなく蹄の音が響いてくる。
集まった面々の中のひとりが叫んだ。
「敦盛様っ!?」
「あの男、先刻までそこで転がっていたものをっ!」
雪柊は打ちのめした相手が膝をついていた場所を見つめ、苦虫を噛み潰すような表情で苛立たしげに言った。
山吹ではなく、別の者に連れ去られてしまったのだと理解した月華はその足で追いかけようとした。
しかしその腕を棗芽に掴まれ引き留められる。
「やめなさい、月華。もう追いつけませんよ」
「放してくださいっ」
棗芽の腕を振り払おうと強く抵抗したが、どう頑張ってもその腕は解けない。
「相手は馬で去っていったのですから、今から追ったところで無理でしょう」
「じゃあ、百合を見捨てろって言うんですかっ」
「そんなことは言っていません。ただ別の方法を考えるしかないでしょう?」
するとそれまで静観していた山吹が口を開いた。
「……俺が言えた義理ではないが、輪廻の華に危害を加えることはないと思う」
「何だと!?」
月華は棗芽に掴まれている腕とは反対の手で山吹の襟を強く掴んだ。
「どうしてわかる!? だいたいお前が百合を攫ったりしなければこんなことにはならなかったのに、なぜお前がここでのうのうとしているんだっ。言え! 百合を連れて行ったのは誰だ! どこへ連れて行った!?」
冷静さの欠片もなくなった月華に責め立てられた山吹は視線を逸らした。
月華はなおも山吹を責めようと目の前に顔を寄せて睨みつけたが、そんな月華を制御不能と判断した棗芽は月華のこめかみに手刀を打ち込んだ。
強打したことで平衡感覚を失った月華は足から崩れ落ち、意識不明に陥った。
倒れ込む月華をまるで慣れた手つきで肩に担ぐ棗芽を訝しげに見る山吹は言った。
「……あんたたち、仲間じゃないのか」
「仲間、というより月華は私の弟のようなものですね」
「だったらなおさらこんなことしていいのか」
「だってあのままではどうしようもなかったでしょう? 相手は馬で去っていったのですから足で追いつくはずはありません」
「だからってみすみす逃がすのか」
「逃がす? あなたも大概おかしなことを言いますね。危害を加えられることはないと言ったのはあなたでしょう? だったら今は勇退するべきです。体制を立て直して、必ず連れ戻しますよ」
ここに集まる者たちの中でこの棗芽が最も冷静ないのかもしれない。
山吹はそんなことを思った。