第92話 救世主、現る
道の脇の草むらに身を潜め、敦盛の動向を見守っていた山吹は目を剝いた。
そこにはいるはずのない人物が現れたからである。
その人物は、近江の紅蓮寺にいるはずの住職——雪柊であった。
同じように隣で動向を見守っていた百合も驚きを隠せないようだった。
「雪柊様がどうしてここに……」
雪柊と百合がどれほど親しいのか、山吹は知らない。
だがかつて輪廻の華を追っていた皐英が紅蓮寺に匿われていることを発見し、寺から出てくるまで手を出すことができないと報告していたことは知っている。
そして山吹にとって雪柊は縁のある人物でもある。
少し捻くれて育ち、世を儚むような性格に育ってしまった心の主人——白檀の幼少期を知る数少ない相手なのだ。
同じように彼に手を焼き、雪柊となら白檀との苦労話を肴にひと晩、酒を酌み交わすことができるだろうとさえ思う。
そんな相手は、山吹にとって他にいない。
一方は三公の犬とでも言うべき敦盛であり、輪廻の華を狙い、紅葉を妾にしようとし、風雅の君を妹尾家に縛り付けておこうとする者たちの手先。
一方は自らの寺に輪廻の華を匿い、逃れてきた紅葉を守って養い、風雅の君を誰よりも大切だという元官吏の僧侶。
このふたりが面と向かって何の話をしているのか気になった山吹はそっと草むらから道に出て身を屈めながら彼らの様子を窺った。
少し離れていて話は途切れ途切れにしか聞こえなかったが、見守っていると敦盛が馬から降りて誰かに近づこうとしているのがわかる。
耳を澄ましていると聞きなれた声が聞こえてきた。
(……ん?)
山吹はさらに敦盛と雪柊が対峙するところへ近づいた。
「あ、敦盛……様」
確かにそう言う紅葉の声が聞こえた。
徐々に近づいていった山吹はそこにいるはずのないもうひとりを見つけてしまった。
(……紅葉!?)
近づこうとする敦盛とそれを遮ろうとする雪柊が対峙しているのが見えるところまで近づくと山吹はその足を止めた。
これ以上近づけば存在を感づかれてしまうかもしれない。
そこから見える光景は想像すらしなかったものだった。
敦盛の妾にしないために白檀が手を尽くして紅葉を紅蓮寺に逃がしてくれたはずだった。
それは自分の目でも確認している。
雪柊も快く紅葉を受け入れてくれていたはずなのに、なぜ寺ではなくこの場にいるのか。
山吹には理解できなかった。
三公に命じられ輪廻の華を無理やり備中国へ連れて行こうと決心したのは紅葉を敦盛の妾にしないためだ。
どんなに外道だと言われようが、愛する紅葉が失意の底へ落されるようなことにはしたくなかった。
だから紅葉の代わりに輪廻の華を差し出すつもりでいたのに——。
ふたりが再会してしまっては、何の意味もないではないか。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
山吹はこれまで自分がしてきたことがすべて水泡に帰す瞬間を見てしまったために、その場にただ立ち尽くすことしかできなくなっていた。
もはや草むらに残してきた輪廻の華の存在すらも忘れて。
一方、紅葉は目の前で戦うふたりの男をただ呆然と見ていた。
これまで誰にでも優しく、戦いに秀でている素振りなど見せたことがない雪柊はまるで別人のようだった。
世話になったここ数日の彼はいつも穏やかで相手に寄り添うような人だと思っていた。
だが今、目の前にいるのは一体誰だろう。
敦盛を前にして、相手を叩きのめすことを楽しんでいるかのようである。
口調まで変わってしまい、本当に中身が誰かと入れ替わってしまったのではないかと思うほどだ。
対する敦盛はとうとう愛刀である2本の刀を抜いたが、そのまま微動だにしていない。
雪柊を前に相手の力量を推し量っているのだろうか。
紅葉は敦盛が誰よりも鍛錬していることを知っている。
戦があればいち早く戦場を駆け、必ず戦果を挙げてくる武士だ。
戦がなくても庭で毎日、木刀を振っているのを見てきている。
その敦盛をして動きを止めているのだから、雪柊の力量はよほどのものなのだろう。
考えてみれば雪柊は、放たれた追手をいとも簡単に打ちのめした棗芽の師匠なのだ。
そんなに弱いはずはない。
ふたりは再び交戦を始めた。
刀を持つ敦盛に対し、より間合いを詰める雪柊はひらりと刃をかわしながら流れる水の如く柔らかい動きで敦盛の急所を次々に狙っていった。
さすがに敦盛も雪柊の動きに慣れたのか、攻撃をかわすようになってきている。
ふたりの様子を見ていた紅葉は、この戦いが終わるのはどちらかが倒れる時なのだろうかと思い、だんだん恐ろしくなってきた。
世話になった雪柊には負傷してほしくない。
相手は刃物を振り回している。
斬られて出血したり、腕や足を落とされるようなことにはしたくない。
まして首を落とされるのは絶対に嫌だった。
敦盛に特別な感情はないが、これまで妹のように可愛がってくれた愛情と恩義は感じている。
先刻も国へ帰って別の方法を考えようと諭してくれた。
彼にも傷ついてほしくない、そう思う気持ちに偽りはなかった。
敦盛は刀を持っているとは言っても、対する雪柊の動きを見ていれば素手で人を殺めることができる術を備えているとしか思えない。
敦盛がもし、この場で命を落とすことになってしまったら……妾にされることはなくなるが、だからそれでいいとはとても思えなかった。
複雑な想いを抱えた紅葉は、足が震えて動けなくなっていた。
すぐ近くでふたりの男が互いの命を賭けた戦いをしているというのに、それに巻き込まれてもおかしくないような距離にいながら、そこから退くことができないでいた。
このふたりを止めることはできないのだろうか。
間違いなく自分には力不足で止めることなどできようはずもない。
誰なら可能なのか……紅葉の脳裏には棗芽の後姿が一瞬、浮かんだ。
長い黒髪を三つ編みにし、太刀を背負った姿が目に焼き付いている。
彼なら止めることができるのではないだろうか。
……だがそう閃いたところで、彼はここにはいない。
紅葉はすぐにその考えを捨てざるを得なかった。
すると、敦盛の刀を避けようとして体を捻った雪柊の体躯がすぐ目の前に迫った。
器用に体を捻りながら受け身をとって雪柊が着地しようとしているまさにその場所に紅葉が立っており、一瞬、雪柊と目が合った——が、しかしぶつかると覚悟し目を瞑ったにも関わらず衝撃はなかった。
代わりに感じたのはふわりと宙を舞うような浮遊感と包まれる安心感だった。
紅葉が目を開けるとそこには探していた、今1番見たい顔があった。
「……な、つめ……?」
紅葉はなぜか棗芽の腕に抱きかかえられていた。
いつ現れたのかもわからず、紅葉は混乱した。
「間一髪でしたね、紅葉」
辺りを見回すと、雪柊が受け身を取って着地したところから数歩ほど離れた場所で、棗芽の腕に横向きに抱きかかえられている。
雪柊と敦盛の戦いはまだ続いているが、一旦、危機は回避できたのだとわかった。
優しく微笑む棗芽に見つめられ、紅葉の中にはこれまで感じたことのない安堵感が広がった。
この安堵感は、たとえ同じ状況で兄の山吹に助けられたとしても湧くことはないような気がする。
そのくらい特別な何かが紅葉の中に生まれ、涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。
「な、何で!? どうして!? どうしてここにいるのっ」
「質問はひとつずつにしてもらえませんか」
どれだけ心配していたか知りもしない棗芽の反応に、半ば怒りにも似た感情が湧いてきた紅葉は俯きながら呟いた。
「……ぶ」
「ぶ……?」
先を促すように復唱する棗芽に紅葉は食って掛かる勢いで言い放つ。
「無事なら無事とちゃんと教えてっ! 雨が止むまでに戻るって言ったくせに……雨はもうとっくに止んだのにっ」
「やんごとなき事情があったので許してください。刻限を守らなかったことは謝ります」
何かあったのではないかと心配していたがそれは取り越し苦労だったようである。
本当は声を荒げるほど怒ってなどいなかった。
謝ってほしかったわけでもない。
ただ、無事でいてくれたことが嬉しかったのに素直に喜べなかっただけなのだ。
紅葉は照れ隠しに言った。
「やんごとなき事情って何よ」
「白檀殿を妹尾家から連れ出しました」
想像もしなかった突然の告白に紅葉は目を見開いた。
「本当に? 白檀様はご無事なのっ!?」
あの三公の目を盗んで白檀を連れ出すという芸当ができるとは紅葉はにわかに信じられなかった。
これまで山吹や紅葉の監視なしでは邸の外へ出ることを許されなかった白檀である。
山吹は先だって嵐の中で姿を現したとおり、白檀のそばにいないことは明白だった。
本当に備中国から連れ出せたというのだろうか。
すがるように棗芽の襟を握り、顔を寄せる紅葉に彼は目を細めて苛立たしげに答えた。
「なぜかわからないがとても不愉快な気分です」
「……何が?」
「はぁ……何でもありません。白檀殿は無事です。今は京にいますよ。他に質問は?」
棗芽は京のどこにいるのかまでは言わなかったが、彼が連れ出したと言い切るのだから安全な場所にいるのは間違いないのだろう。
白檀の無事を確認して安堵すると、急に我に返った紅葉は目の前に棗芽の顔が迫っていることに驚き、急いで顔を離した。
手で棗芽の肩を押し、彼の腕から逃れようとするが逆に抱きしめる腕に力を込められてしまい、逃れるどころか結局、再び彼の顔が眼前に迫ってきた。
「相変わらずじゃじゃ馬ですね。人の腕の中でも大人しくしていられないのですか」
「う、腕の中だから大人しくしていられないのよっ。それに、いつもはあたしを肩に担ぐくせに今日はどうして——」
「だって担いでしまったら君の顔が見れないではないですか」
より強く棗芽に抱き寄せられるとその距離は鼻がつくほどまで縮まった。
「——っ」
紅葉は声にならない声を漏らした。
月のない星明かりだけの夜でよかった——紅葉は心底、そう思うほどに赤面していた。