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第90話 望まぬ再会

 呼応するようにあちこちから聞こえる野良犬の遠吠えは静けさの深まる夜に不気味にこだまする。

 得体の知れない男に無理やり連れられ、みやこから離れた明かりのないところへ行けば行くほど百合ゆりは不安に駆られていった。

 この男は一体何者なのだろう。

 百合は男の横顔を見ながら、そう思った。

 見覚えはない。

 ——輪廻の華を必要としている方たちのところへあんたを連れていく。

 男が何者なのかはわからないが、ある程度事情を知っていることは確かである。

 本当ならすぐにでも逃げ出してしまいたかったが、百合はそうしなかった。

 男は暴れなければ危害を加えない、と言ったからだ。

 死んでしまっては多くの人を悲しませるし、迷惑をかけることになる。

 今の百合はそれを望んでいなかった。

 幼い娘の母としてまだやらなければならないことがたくさんあるし、誰より月華つきはなを悲しませたくない。

 だからどんな形でも生きて愛する人たちの元へ帰らなければならない。

 かつての百合ならそんなことは考えもしなかった。

 戦の道具のように扱われ、拒んだところで自らの命を絶つこともできず、むなしい看取りを続けなければならないことに意味はなかった。

 かどわかす相手が自分の命を欲しているのなら、ためらうことなく差し出しことだろう。

 だが今は違う。

 生きて、いるべき場所に帰ることに意味があり、そのためにはどんなことにでも耐える覚悟がある。

 ふと星祭りで見た最後の光景を思い出す。

 この男に盾突き、飛ばされてしまった悠蘭ゆうらんは無事だろうか。

 何とか男を止めようとしてくれた椿つばきの顔も脳裏に浮かぶ。

 悲しみと怒りの中間にあるような、見たこともない顔だった。

 今頃、月華はどうしているだろうか。

 そんなことばかりが頭に浮かんだ。

 しばらく歩いていると、男はふと足を止めた。

 これまで何かを探すように辺りをきょろきょろと見回していた男だったが、急に足を止めてどうしたのだろう、そう思った百合はおもむろに口を開いた。

「……あの」

 すると、男は後ろから抱き込むように、百合の口元を強く抑えた。

 何も言わせないようにしたいらしい。

「静かに」

 そして男は耳を澄ませているようだった。

 何をしているのか全く理解できなかった百合は、不安で全身を硬直させた。

 そのせいか呼吸がうまくできず、どんどん苦しくなっていく。

 男はそのまま百合を強引に連れて草むらへ入った。

 夏の生い茂る雑草は人の背丈に届くほどのものも多い。

 男が何かから隠れようとしているのはわかった。

 口元を押さえられたことで呼吸がしにくくなり、限界がきたところで百合は手足をばたつかせ抵抗した。

「ん——っ」

 男が慌てて手を離すと、新鮮な空気を吸い込んで百合は深呼吸する。

 虫の声しか聞こえない中で成りを潜める男に百合は言った。

「何なのですか! なぜ草むらに——」

 男は声を潜めるよう、自分の口元へ人差し指を立てながら答えた。

「静かに。西の方から誰から来る」

「……何か聞こえるのですか」

「馬の蹄の音がどんどん近づいている」

 百合には聞こえなかったが男には聞こえているという。

 百合は思案した。

 誰が近づいてくるのかわからないが、一か八か道へ飛び出し助けを求めるべきだろうか。

 しかし、もしその相手が男の仲間だったら……?

 結局、男の手を逃れることができないかもしれない。

 さまざまな考えが交錯しているうちに1頭の馬が目の前を駆け抜けていった。

 当然、見たことのない人物だったが腰に刀を差した武士であることはわかった。

 それを見た隣の男はぽつりと呟く。

「……敦盛あつもり様が、なぜここに——」

 通り過ぎた馬が少し先へ行ったところで足音が消えた。

 馬の嘶きとともに誰かの話し声が聞こえてくる。

 百合は男とともにその会話に耳を傾けた。



 紅蓮寺ぐれんじを出た雪柊せっしゅう紅葉くれは備中国びっちゅうのくにへ向かうために近江を出て南下し、山陽道と交わる近くまでやって来た。

 ふたりは満天の星明かりを頼りに肩を並べて歩いた。

 道中、雪柊はこれまでの人生を語る紅葉の言葉に耳を傾けた。

 貧しい農村でつつましく暮らしていた幼少の頃から山吹やまぶきと一緒だったこと、山吹が隻眼になった原因が紅葉にあること、白檀びゃくだんの牛車に偶然出遭って今があることなどを赤裸々に語る紅葉はどこかすべてに後悔を滲ませているように見えた。

「日頃は日々の暮らしに忙殺されて過去を振り返ることなんてないけど、こうやって改めて振り返ってみると、本当にあたしは存在しててよかったのかって思っちゃいますね」

「どういう意味だい?」

「だってあたしがいなければ山吹は片目を失うことはなかったし、こうして雪柊様に迷惑をかけることもなかったじゃないですか」

「別に私は迷惑だなんて思っていないよ」

「でも……白檀様も、あたしを逃がすために無理をされたんじゃないかと思うんです。あたしさえいなければ——」

「紅葉。自分を責めたい気持ちはわかるけど、それは無意味なことじゃないかな」

「無意味……ですか?」

「そうさ。だって君のそれは独りよがりなだけだろう? 誰も君を責めていないし、いなければよかったなんて思ってないよ。そんなことをひと言でもあの子の前で言ってごらんよ。きっとすごい形相で説教すると思うけどね」

 雪柊の言葉に紅葉は絶句していた。

 「あの子」が誰を差しているのかわかったのか、徐々に俯いてしおらしくなる。

 かつてともに暮らし、娘のように可愛がった百合とは違うが紅葉もまた雪柊にとっては娘のように可愛いのだった。

 どんな境遇にあろうと生まれてくるべきではなかったとは思ってほしくない。

 遠い昔、すべてを失った時の雪柊も同じ考えに縛られていた。

 すべてが自分のせいであるかのように錯覚し、すべてを投げ出して自暴自棄になっていた時に救ってくれたのは前の紅蓮寺の住職——樹光じゅこうだった。

 樹光はどこでどう知り合ったのか風雅の君の母であった芙蓉ふようと親しかった。

 よく宮中に出入りしており、風雅の君のそばにいた雪柊とは顔見知りであったがさほど接点もなく過ごした期間が長かった。

 最愛の家族も仕事も家もすべてを失い奈落の底へ落ちた時にどこからともなく現れたのが樹光だった。

 彼がいなければ今の自分もなかっただろう、と雪柊は思う。

 だからこれからは自分が悩める者たちの導き手でありたいと思っている。

「ところでもうすぐ山陽道に入るけど、本当に備中国へ行くつもりかい」

「…………」

「途中で棗芽なつめに会えればよかったんだけどねぇ……本当にあの子、どこに行ったんだろうか」

「……ほ、本当は備中国には行きたくないです。白檀様の文にも書いてあったと思いますけど、国に戻れば——妹尾せのお家の者に見つかれば、あたしは敦盛様の妾にされちゃうから」

 紅葉は肩を震わせながら言った。

 そんな彼女が雪柊には不憫でならなかった。

 好きでもない相手に嫁がされるならまだしも、紅葉に用意されているのは妾の椅子であり、子を産むための道具という立場である。

 どんなことがあっても妹尾家に引き渡すわけにはいかない。

 雪柊はそう理解している。

 それは風雅の君の望みでもあるのだ。

「その敦盛っていうのは何者なんだい」

「妹尾家の嫡子です。当主である菱盛ひしもり様のご子息で平家の血を引いておられる方です」

「君はその敦盛とやらのこと、嫌いなのかい」

「……嫌いじゃありません。ちょっと意地悪で怖いだけ。でもあたしと山吹が引き取られてから兄妹のように可愛がってくださったのは事実です。だから余計に考えられないんです、その……敦盛様の子を産むなんて」

 紅葉は俯いて言った。

 辺りは人影もなく、どこからか野良犬の遠吠えのようなものが聞こえる。

 それは互いに呼応するように重なり、一層不気味さを増していった。

 まるで縄張りを荒らす者への警告のようでもあった。

 誰か現れるとでもいうのだろうか。

「じゃあ、棗芽の捜索は諦めて寺で待つっていうのはどうだい? 何だか辺りも不穏な空気になってきたし、あまりこの先には行かない方がいいような気がするんだけどね」

「……え? ここまで来たのに」

「あの子なら、殺しても死なないよ。そのうち帰ってくるだろうから、やっぱり大人しく待ってた方がいいんじゃないかな」

「い、嫌です。せっかくここまで来たんだから、ひと目でも見ないと安心できない」

「ずいぶんとあの子に入れ込んでいるものだね」

「い、入れ込んでる!? そ、そんなんじゃありません。棗芽は……あの人は白檀様と一緒であたしを助けてくれたから。恩があるから返すまでに死なれたから困るんです。恩を返せなくなるじゃないですか」

「恩ねぇ……」

 棗芽は恩返しなんて望まないよ、という言葉を雪柊は呑み込んだ。

 帰るか帰らないかと問答しながらも歩いていると、西へ向かう山陽道のずっと先から何かが近づいてくるのが見えた。

 馬の蹄の音が徐々に近づき、大きくなってくる。

 呆然と雪柊がその先を見つめているとあっという間に距離を詰めてきた馬が目の前で足を止めた。

 前足を上げ、嘶いた馬には見たこともない人物が跨っている。

 雪柊は首を傾げていると、隣にいた紅葉が小刻みに震えているのが視界に入った。

 ただごとではないと察した雪柊は紅葉を相手の視界から隠すように彼女の前に立ち、壁となった。

 すると馬に乗ってきた人物が驚きの声を上げた。

「——紅葉ではないかっ」

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