第9話 最愛の妻
六波羅に寄っている間にすっかり薄暗くなってしまったため、月華は逸る心を抑えきれずに急いで九条邸へ向かった。
通いなれた我が家の門の前で馬から降りると驚いた様子の門番が慌てて人を呼びに行った。
ほどなくして開かれた門から顔を覗かせた家臣もまた目を丸くしている。
「月華様っ! お早い到着でしたね。お帰りはもう少し遅くなるものとばかり……出迎えもできず申し訳ございませぬ」
長年九条家に仕える家臣の松島は深く頭を下げた。
門番に馬を預けた月華は松島の後に続いて門を潜る。
「いや、俺が早く逢いたかっただけなんだ、百合と花織に」
苦笑しながらそう答えた月華の眼前には見慣れた光景が広がった。
池を擁する巨大な庭の中州には百合とともに過ごす茶室を模した建物——華蘭庵がある。
池を囲うように造られた回廊の中心には寝殿、その左右には対称に建てられた東と西の対屋、そしてその裏手には弟夫婦が暮らすために建てられた書院造りの家が存在している。
改めて眺めると実家である九条家の邸は自分が勤める大倉御所に匹敵する大きさであることに驚かされる。
邸の大きさは権力の大きさに比例する。
そう思うとやはり嫌気の差す空間ではあるが、その権力が自分の大事な家族を守っていることも現実なのだと月華は再認識させられたのだった。
松島の案内で回廊を歩きながら前を歩く家臣の背中に月華は口を開いた。
「父上はお出かけなのか」
「はい……所用でまだお戻りではありません」
「松島が一緒でないということは、まだ御所の中なのか」
「さようで……ございます。ですがもうそろそろお戻りになる頃でしょう」
含みのある返答に月華は首を傾げた。
いかなる時も父のそばを離れない松島のことは、これまでさほど不思議に思ったことはなかった。
常に父の後ろに控えていることが当たり前なほど、それは日常の風景だったからだ。
だが、改めて冷静に考えてみるといくら家臣だからとはいえここまでそばに控えているものだろうか。
知らない者が見ればまるで主人を監視しているようにさえ思うだろう。
自分の知らないふたりだけの何かがあるのだろうか。
「松島は俺が物心ついた時にはすでに父上のそばにいたような気がするが、もう九条家に仕えてくれて長いのだろう?」
突然の問いに一瞬面食らった様子だった松島もすぐに目を細めて破顔すると嬉しそうに振り返って答えた。
「それはもう……時華様にお仕えするようになったのは月華様がお生まれになるずっと前のことでございます。時華様が蘭子様を迎えられることになった時には緊張して何日も眠れなかったものですよ」
「それは母上が九条家に嫁いで来られた時のことか? そんなに緊張するものなのか?」
「もちろんでございます。何しろ蘭子様は——」
と、松島はそこまで言いかけ、妙に意味深な咳払いをすると目を逸らすように先を急いだ。
「母上がどうかしたのか」
「い、いえ。あまりにも昔のことで忘れてしまいました。いずれゆっくりとお話しする機会がありましたら、主との出会いについてお話しいたしましょう。さて、奥方様がお待ちかねですので華蘭庵へ急ぎませんと」
内容を濁され、話題を変えられたことに気がついていたが月華はそれ以上、深入りすることはしなかった。
何か話せないことがあるのかもしれないし、深入りしたところで母はもう他界した人なのだから何も変わることはない。
しかし……母の実家については聞いたことがない。
誰もそれについて触れてこなかったのはすでに他界したからだと思っていたが、何かあるのだろうか。
そんなことを疑問に思いながら、松島の案内で庭に出ようとすると回廊を進んできた女中が珍しく声をかけてきた。
「月華様、お帰りなさいませ。もしや奥方様のところへ行かれるところですか」
「ああ、そうだが」
月華が答えると女中は申し訳なさそうにもじもじしながら言い淀んだ。
その様子に業を煮やした松島は訝しげに問い詰める。
「はっきりと申してみよ。奥方様は華蘭庵ではないのか」
「それが、松島様……私どももお止めしたのですが」
女中は言いにくそうに上目づかいで月華を見ると、松島の耳元でひそひそと話し出した。
内容を聞くうちに松島の顔色は青ざめていく。
話し終えた女中が恭しく頭を下げて後退っていくのと同時に、松島は血相を変えて月華の腕を掴んだ。
「月華様、急ぎましょう」
「はっ? 急ぐってどこへ——」
「厨でございます」
日が沈む前から夕餉の支度をする厨は慌ただしくなる。
そこに似つかわしくない人物が腕を振るっていた。
「お、奥方様っ。どうかお引き取りくださいませ」
厨で働く女中のひとりが深く頭を下げた相手は九条家次期当主の妻——百合であった。
「私のことは気にしないでください」
たすき掛けをし、長い黒髪をひとつに纏めた百合は土間に置いた桶の中で葉物を水洗いしている。
もう何度も同じような問答をしているうちに日は暮れてしまった。
下女がするような仕事を自らやっている百合を見過ごすことができない女中は必死だったが、当の本人はまるでそれが自分の仕事であるかのように答えた。
「私なら大丈夫です。九条家へ来る前までは、毎日のようにしていたのですから何も問題ありません。これでもちゃんと料理はできるのですよ。精進料理しかできませんが……」
洗い終えた葉物の水を切ると次はそれをまな板に置いた。
「包丁はどこですか」
辺りを見回しながら包丁を探す百合をその場にいた全員が冷や汗をかきながら止めにかかった。
「奥方様、包丁など持たれては危険でございます。わたくしがやりますので——」
「ああ、ここにありました」
すぐ近くに放置されていた包丁を見つけると、百合は使い慣れた手つきでそれを右手に握った。
料理をするのはずいぶん久しぶりのような気がする。
奥州にいた頃は包丁すら握ったことがなかったが、雪柊に拾われ紅蓮寺で暮らすようになってからはいつの間にか精進料理をひとりで作れるようになっていた。
しばらく寺で療養していた月華にもよく作ったことを思い出す。
そんな月華が久しぶりに京へ戻ってくるというのだから、妻としては昔懐かしい手料理で出迎えたかった。
「包丁の扱いには慣れています」
そう百合が自慢気に言ったところ、後ろから近づいて来た人影に包丁を持った右手を強く掴まれた。
それは見慣れた武骨な逞しい手だった。
「包丁は危ないからやめないか。前にも料理をしていて怪我をしたことがあるだろう?」
百合が振り向くと呆れた顔の月華が彼女を見下ろしていた。
気がついた時には周りの者たちはみな首を垂れている。
月華の後ろに控えている松島は困り果てた顔でこちらを見ていた。
「つ、月華様……いつお戻りに?」
よかれと思ってしていたことだったが、どうやら迷惑な存在だったらしいと気がついた百合は独りよがりであったことに恥ずかしさを覚え赤面してしまった。
「今戻ったところだ」
「お出迎えもせずに申し訳ありません、お帰りなさいませ」
「ただいま。ところで何をしていたんだ?」
百合の手から包丁を取り上げると月華はため息交じりに言った。
「何って、あなたに夕餉を召し上がっていただこうと思って用意していたところです」
「そんなことだろうと思ったよ」
月華はおもむろに束ねている百合の髪紐とたすき掛けしていた紐を手際よく解いた。
腰と膝の裏に腕を当てると軽々と百合を抱き上げる。
「な、何をなさって——」
「暴れるな、百合。ここにいることがみなの邪魔になっているのはわかっているだろう?」
不満そうな百合をよそに月華は厨にいた者たちに声をかけた。
「邪魔をして悪かった」
「じ、邪魔などと……わたくしたちはただ奥方様のお体が心配だっただけでございます。夕餉は華蘭庵にお運びしてもよろしいですか」
「ああ、ありがとう。頼むよ」
身分に限らず分け隔てなく向き合う月華のことを悪く言う者は九条邸で働く家臣や女中の中にひとりもいない。
たとえ下女ひとりであっても必要な時には礼を言う律儀で公平な彼のことを誰もが慕っていた。
そんな主人が選んだ妻もまた同じような人柄であることに一同は喜んだが、時に度を越えて自ら何でもやろうとする積極性には頭を悩ませていた。
厨のことを松島に任せると、月華は百合を抱えたまま華蘭庵へ向かい回廊を引き返した。
見上げると瞬く無数の星が顔を覗かせている。
中庭の池に浮かぶ月もまた幻想的だった。
「すっかり暗くなってしまったな」
「……月華様、そろそろ降ろしていただけませんか」
「なぜだ?」
「これではまるでじゃじゃ馬が捕獲されたようではありませんかっ」
不機嫌な百合は顔を逸らした。
「ははっ。そのとおりじゃないか」
「なっ……!」
反論しようとした百合は月華の慈愛に満ちた笑みに言葉が出なかった。
「そう言えば昔にもこんなことがあったよな。寺を出て行った百合を追いかけるのはなかなかに骨が折れたよ」
「……でもすぐに捕まってしまいました」
「当り前だろう? 妻にしたいと思った女子に危険が迫ってるっていうのに放っておく男がどこにいる?」
「…………」
「百合。俺のために夕餉を用意しようとしてくれたことには感謝するが、今はそれよりも大事なことがあるんじゃないか。生まれたばかりの花織には母親が必要だ。あなたに何かあれば困るのは俺だけじゃない」
「はい」
「説教したいわけじゃないんだ。ただ——」
月華はその場に百合を降ろした。
向かう合う百合を強く抱きしめると絞り出すように掠れた声で言った。
「無理だけはしないでくれ、頼むから」
それを聞いて百合は初めて自分が思っている以上に月華に心配をかけたのだと理解した。
申し訳ない気持ちになり、自らも彼の背中に腕を回して抱きしめる。
「不安にさせて、ごめんなさい。本当に体は大丈夫です。でも……これからは気をつけます、旦那様」
百合はしばらく月華のぬくもりを感じ、より一層、心のつながりを感じた。
「改めてお帰りなさい、月華様」
「ただいま、百合」
月華は百合を抱きしめることでやっと家に帰ってきたのだと実感した。