第89話 心を殺して
刻は少し遡り、棗芽が風雅の君を妹尾家の邸から連れ出した翌朝のこと——。
邸の中は騒然としていた。
朝方、まだ降り続く雨の中、家臣や女中たちが慌ただしく邸の中を駆け巡る。
騒ぎの原因はあちこちから、まるで足跡のように家臣の亡骸が発見されたことだった。
それは邸の門番に始まり風雅の君が幽閉されていた窓のない部屋の近くまで続いていた。
侵入者による所業であることは明らかだったが、その姿は見当たらない。
増築を繰り返したことで迷路のようになってしまった邸の構造が仇となり、侵入者が隠れられそうな場所はいくらでもある。
家臣たちはまだ侵入者が邸の中に留まっている可能性も考慮し、大捜索を行ったのだった。
敦盛は夜中に風雅の君が部屋から消えたことを確認してからというもの、朝まで一睡もすることなく邸の捜索指揮を執っていた。
迷路のようになっているとはいえ、ある意味、複雑極まりない構造なだけにそう簡単に出られないのではないかと考えていたからである。
だが床下を含めあらゆる場所を捜索したが、侵入者も風雅の君も発見できなかった。
風雅の君を幽閉していた部屋の前に戻った敦盛は、きれいに切り取られた格子を外して観察した。
切り口は美しく、格子にほころびがない。
これほど美しい切り口は見たことがなかった。
切り取られた格子を元通りにはめ込むと傷痕がきれいに見えなくなり、切り取ったことなど全くわからない状態に戻った。
風雅の君は刀を持っていないし、仮にどこからから調達できたとしてもここまでの技を持っているはずはない。
とすればこれは侵入者の手によるものであり、その侵入者は風雅の君を部屋から出す目的でこの格子を切り取ったと考えるのが自然だろう。
邸の中で発見された家臣たちの死因は刀傷によるものではなかった。
血は一滴も流れておらず、みな体術によって急所を攻撃されているようだった。
(風雅の君を連れ出した者は相当な手練れ……一体何者なのだろうか)
敦盛は背中に冷たいものが流れる不快感を覚えた。
武士として長年刀を振るってきた敦盛にとってこの謎の侵入者がただ者ではないことはわかっている。
刀を振らなくとも人を殺めることができるような者が、ひとたび戦場のようなところで本気で刀を抜いたら、それを相手にできるのは限られたひと握りの武将だけだろう。
そんな相手と対峙して、果たして対等に戦えるのだろうか。
敦盛はそんな一抹の不安を抱えながら、父——菱盛の部屋へ向かった。
部屋の襖を開けると、邸内の騒然とした雰囲気とは裏腹に重苦しい空気が充満していた。
上座に腰を下ろす部屋の主の左右には向かい合うようにふたりの男が座している。
ひとりは橘萩尾。
敦盛はいまいちこの男を信用していなかった。
かつては朝廷勤めしていたようだが、なぜ備中へやって来たのか、そしてなぜ父の元にいるのか敦盛は知らされていない。
気がついた時には邸に居座っており、子どもの頃からよく見かけた人物であった。
そしてその対面にいるのは御形。
怪しい呪術を使うらしく、敦盛ですら関わらないようにしている人物だった。
幼い頃のある日、皐英を連れて邸にやって来て以来、住み着いている。
昨年、京で亡くなったという皐英とはよく邸で顔を合わせる仲だったが、いつの間にか京へ養子に出され、それから会うことはなかった。
御形が実際に呪術を使っているところを見たことはない。
だが、その呪術によって命を落とした者たちを見てきた。
みな一様に顔が恐怖に歪み、断末魔の叫びを上げたであろうことが一目でわかる状態で放り出されてきたのだ。
なぜ父がこのような怪しげな呪術使いを傍に置いているのか敦盛は理解できなかった。
3人の前に膝を折って敦盛が正座すると、最初に沈黙を破ったのは菱盛だった。
「風雅の君は見つかったのか」
「……いえ、邸の中をくまなく探しましたが見つかりませんでした。おそらくもうこの邸にはいないのではないかと……」
「ずいぶんと簡単に逃げられたものですね。自慢の牢部屋だったのではないのか」
薄笑いを浮かべる御形は敦盛に流し目を送りながら言った。
すると萩尾もそれに続いた。
「風雅の君を連れ出した侵入者というのは見当がついたのですか」
「……いいえ、それもまだ。相当な刀使いだということしかわかっておりません」
「ほう、なぜそう思うのかな、敦盛?」
「格子がきれいに切り取られていました。あれは刀の扱いに相当慣れている者だと断言できます。ですが、もし邸の家臣たちを手にかけたのが同一人物だったとするなら——」
「——それ以外考えられまい」
苛立たしげに言葉を挟んできた菱盛からは過分に怒りが漏れ出ているのがわかる。
敦盛は固唾を呑んで続けた。
「——同一人物だったとするなら、その人物は刀に頼らずに人を殺めることができる手練れです。一介の武士の仕業とは思えません」
敦盛の見解に3人は沈黙した。
それも当然のことだった。
風雅の君は先帝の御子とはいえ、長年この備中国で刻を過ごしてきたのである。
彼を慕い、助け出そうとするような従順な者が山吹や紅葉以外にいるとは考えにくい。
山吹は今、輪廻の華を追っている。
紅葉は菱盛の追手を逃れて逃走したままなのだ。
到底風雅の君を支える人物がいるとは思えなかった。
「侵入者の正体はさておき……風雅の君は連れ戻さねばならぬ」
菱盛は眉間に皺を寄せながら言った。
山吹に輪廻の華を追わせている三公にとって、風雅の君は人質なのである。
その人質がいなくなったことが知れれば、山吹は裏切る可能性がある。
輪廻の華を手に入れるためにも彼らは何としても風雅の君を取り戻さなければならなかった。
「だが、どうする? 菱盛、そなた何かいい案はあるのかな」
まるで他人ごとのように言う御形を菱盛は睨みつけた。
肩をすくめ大人しくなった御形の向かいで萩尾はぶつぶつとひとり言を呟いていた。
「萩尾、何か言いたいことがあるのなら申せ」
苛立たしげに言う菱盛の声で我に返った萩尾は口を開いた。
「……風雅の君は紅葉のところへ行ったのではありませんか」
「……何だと?」
「風雅の君は山吹と紅葉をあれほど可愛がっていたではありませんか。一旦は紅葉を先に逃がしたようですがあの娘の後を追っていったとするなら行先は近江の紅蓮寺かもしれませんね」
「だがいくら風雅の君自身がそれを望んでいたとしても、あの牢部屋から出るにはやはりひとりでは無理だ。ましてただ者ではない武士の力を借りたとなると、どうやって風雅の君がその者と接触したと言うのだ。説明がつかぬではないか」
「——確か紅葉を追った者が釈明していた時に、とにかく強い武士が横槍を入れてきたとか言っていましたよね? 相手は太刀を抜かなかったのに全員やられてしまったと言っていたではありませんか」
「ああ、あの私が始末した使えない者の話か」
そう御形が相槌を打つと萩尾はげんなりした顔で御形を睨んだ。
「御形さん、気分が悪くなることを思い出させないでください——その謎の武士は紅葉を担いで紅蓮寺へ行った後、再び戻ってきたと証言していましたから紅葉とその武士は知り合いなのかもしれませんね。そうすると風雅の君とその武士が繋がっていてもおかしくはないかもしれない。紅葉から風雅の君の窮地を聞いて助けにきた、とか……」
「いずれにしても風雅の君と山吹が接触することになるのは都合が悪い」
菱盛の言葉に御形と萩尾も力強く頷いて同意した。
「では、この私が直々に出向こうか」
相変わらず不気味な笑みを浮かべる御形に対し、菱盛は訝しげに言った。
「御形が自ら……?」
「たまには現場で暴れてみるのもよいかと」
菱盛は御形の申し出にしばらく考える素振りを見せた後、大きく首を横に振った。
「いや、そなたが出張るのはまだ早い。本番はこれからなのだ。ここは敦盛——」
それまで3人のやり取りを静観していた敦盛だったが急に振られ、慌てて返事をした。
「お前が風雅の君を連れ戻しに参れ」
突然の指示に敦盛は面食らったが、従う以外に道はない。
「…………御意」
敦盛は頭を深く下げながらも見えないところでは唇を強く噛みしめていた。
返事はしたものの、彼らがしていることに必ずしも賛同しているわけではなかった。
そのまま菱盛の部屋を出た敦盛は閉めた襖の前で呆然と立ち尽くした。
輪廻の華を追っている山吹に任務を遂行させるためには、風雅の君を一刻も早く連れ戻さなければならない。
この備中国に留め置いておかなければ、人質の意味がないのだ。
輪廻の華を手に入れ、予定通りにことが運べば最後には風雅の君が傀儡の帝としてその座に君臨する算段である。
そのためにも風雅の君は必要だ。
もし彼が紅葉を追って紅蓮寺に行ったのなら、紅葉のことも同時に連れ戻すことになるだろう。
それが敦盛にとっては心苦しかった。
紅葉を連れ戻せば、妹のように可愛がってきた彼女を抱かなければならなくなる。
嫌がる紅葉の顔が浮かび、敦盛は吐き気を覚えた。
妻である梓との間に子がいないことを責められるのは仕方がないことだが、だからといってその代わりを同意もないままに紅葉に押しつけることは敦盛の望むところではない。
しかし敦盛は父に逆らうことができない。
この邸や今置かれている地位や富、それらのすべてを投げうつことになるからである。
それは敦盛にとって人生を失うことに等しい。
結局、敦盛は菱盛の命に従うしかないのだった。
1歩踏み出した敦盛の顔にはすでに表情がなくなっていた。
心を殺さなければこの任務は遂行できない。
敦盛は雨が止まないうちに近江国へ旅立った。