第88話 六波羅の鬼
九条家を半ば追い出された形になった紫苑は、もと来た道を戻ることにした。
杏弥を追っていった楓は無事だろうか。
倒れた弾正尹を抱え自分のことで手いっぱいだったためにうっかり失念していたが、楓は右手を負傷しているのだ。
刑部少輔のことを任された、などと言っていたが万が一、杏弥が暴れでもしたら……確かに白檀が言うように楓の手には負えないだろう。
緊急事態につき一時休戦したものの、結局、白檀がなぜ今になって京に現れたのか問い詰める余裕がなかった。
初めて出会った時は面白い男だと思った。
世捨て人のような儚さを秘めた雰囲気は、公家の世界を嫌って飛び出して行った頃の月華によく似ていた。
李桜に毒を盛ったり、失意の落ちぶれた武士を捨て駒にしたりと、命を弄ぶような悪人だと思っていたが弾正尹の体調を親身に心配したり、月華をいち早く百合の救出に行かせたりとまるで味方であるかのような動きを見せる。
毒殺事件の後になって、彼はただの茶人ではなくかつて風雅の君と呼ばれ京を追われた先帝の御子であるとわかったが、政権をひっくり返そうと画策しているようには見えなかった。
実際それは無理なことだろうと紫苑は思う。
なぜなら朝廷の中に彼を擁護する者がほとんどいないからである。
未だ朝廷の官吏のほとんどが姿を見たことがない現帝が仮に地位を退き、代わりに白檀がその役割を担うことがあったとしても、彼を望んで支える官吏がいなければ政はできない。
風雅の君の存在さえ知らない者が増えている今の朝廷で、彼の権威は全くと言っていいほどないのだ。
彼が今になって京に現れたのは風雅の君としてではなく、茶人白檀として別の目的でもあるというのだろうか……。
紫苑にしては珍しく思案しながら走っていると、大路の途中で言い争う男たちの声が聞こえ、彼は足を止めた。
「——間者だったのか!?」
「……本当に——」
満天の星が照らす大路で声を荒げるひとりは腰が引けている。
嫌がる相手を強引に引っ張る方が冷静に対処しているように見えた。
足を止めた紫苑の元にふたりが近づくにつれて徐々に姿が鮮明になっていく。
あと5、6歩というところまで近づいてきたところで彼らがよく知っている人物だとわかった紫苑は声をかけた。
「楓殿、大丈夫か」
紫苑の声に視線を合わせた楓は安堵した様子で答えた。
「紫苑殿、ちょうどいいところで会った。今、そなたを追って九条邸に行こうとしたのだが刑部少輔が嫌がって言うことを聞かず困っていたところだ」
楓に腕を掴まれ、ばつが悪そうに視線を逸らす杏弥に紫苑は呆れた。
悪巧みとは本当に成功しないものである。
かつて絶大な権力を持っていた前の左大臣、近衛柿人しかり、陰で公家たちがもっとも頼りにし、あらゆる呪術に精通していた前の陰陽頭、土御門皐英しかり。
結局みな失敗に終わり、命を落とした。
目の前の杏弥は単に野心に溺れただけで、命を賭けてまで企んでいたわけではないだろうが自身のしでかしたことの重要性を認識していないなら、わからせる必要がある。
紫苑は目を逸らしている杏弥に向かって言った。
「刑部少輔さんよ。あんた、自分がやったことわかってんのか?」
「べ、別に俺は直接手を下していないし、俺が関わった証拠はないっ。だいたい、お前たちは大げさなのではないか!? 女をひとり探していたくらいで——」
「探してたんじゃなくて、かどわかそうとしてたんだろう」
「うっ、そ、それは……」
「それもただの女子じゃねぇ。彼女は輪廻の華である前に九条家の嫁だ。それも鎌倉で武将をしている嫡子のな。これがどういうことかわかるか?」
「…………」
「あんたも摂家の一員ならちょっと考えりゃ、わかるだろうが。近衛家がああなった今、摂家の筆頭は九条家だ。しかも現役の右大臣が当主を務めてる。その嫁に手を出そうだなんて正気の沙汰とは思えねぇよ。もし百合殿に何かあってみろ。九条家が全面的に敵に回るかもしれねぇぞ。そうなったら政はおろか俺たち官吏も無事では済まねぇかもしれねぇな」
「…………無事では済まないどういう意味だ」
「九条家当主が親幕派だって知らねぇのか? それもただの親幕派じゃねぇ。あの人は鎌倉幕府の中枢で絶大な権力を持つ将軍の懐刀と旧知の仲だ。その上、嫡子の月華はその懐刀の腹心。時華様が本気になれば幕府と結託してこの京に攻め入ることもできるだろうよ。腐った朝廷を粛清して、武家の社会にしてしまうことだってあの人の匙加減ひとつで可能なんだ。あんたは自分の家のことしか考えていないかもしれねぇが、悪くすれば鷹司家そのものの存続が危機に陥るかもかもな」
「そ、そんな脅しに俺はく、屈しないぞ」
極端に怯えた様子で後退る杏弥に、紫苑はさらに追い打ちをかける。
「脅しじゃねぇよ。もし万が一のことがあれば、あんたはかどわかしを企んだとして罪を問われるだろうな。あんたは輪廻の華を追っていたつもりかもしれねぇが、実際に被害者となるのは九条家の嫁だ。これが何を意味してるか、刑部少輔のあんたならわかるだろ?」
多くの者が知らない輪廻の華と呼ばれる人物が被害を受けたところで朝廷ではさほど問題視されないだろうが件の人物は右大臣の義理の娘であり、鎌倉の武将の妻であり、陰陽頭の義姉である。
咎を受けないはずはないと誰もが思うことだろう。
紫苑はため息をつきながら杏弥を見やった。
「あんた、結託していたっていう男が百合殿をどこへ連れて行こうとしてるのか知ってるのか」
「……備中国だ」
「備中国? あんたたちは風雅の君に輪廻の華を献上しようとしてたとかって言ってなかったか」
「そうだ。だから備中国へ向かっているはずだ」
「それはおかしくねぇか? 風雅の君って白檀殿の昔の二つ名だよな。あの人は先刻まで俺たちの前にいたじゃねぇか」
「……あの山吹という男が何を企んでいるのかは俺も知らぬ。だが行先は備中国で間違いない」
「……意味がわからねぇな」
頭を掻きながら首を傾げる紫苑に楓は言った。
「紫苑殿。月華殿からはこの刑部少輔を牢にでも入れておいてはどうかと言われたのだが、この時分では朝廷に連れて行くわけにもゆかぬし、どうしたものかと思っていた。何かいい案はあるだろうか」
「あー、そうだよな。捕らえたとて朝になるまではどこかに一時預かりするしかねぇよな……久我邸で預かってもいいが、どうするかな。いっそのこと九条邸に預けるか?」
鷹司家と九条家が犬猿の仲であるのを知っていて、紫苑は悪だくみをした笑みを零しながら言った。
ふたりのやり取りを黙って聞いていた杏弥が騒ぎ出したのは言うまでもない。
「く、九条家だと!? や、やめろ、俺は死んでもそんなところへは行かぬからなっ」
「そんな選択権がお前にあると思うのかよ」
「…………っ」
「まあ、いい。九条邸じゃないとすれば、あそこしかねぇな」
紫苑の呟きに楓は首を傾げた。
「あそこ、とは?」
「六波羅さ」
「……紫苑殿、まさかこの刑部少輔をあの六波羅の御仁に預ける気か?」
「預かってくださるかどうかはわからねぇけど、どうせ李桜や悠蘭もあそこへ向かったんだ。縄でも打ってそばに置いときゃ、朝まで何とかなるだろ」
面白がる紫苑に、杏弥はますます顔色を変えていった。
「お、お前、俺を六波羅探題の元へ連れて行くつもりか!?」
「ああ、そうだ。言っておくが、あの方は幕臣でありながら俺たち朝廷の官吏にも友好的な方だが、幕府に害を成す相手だと認識した瞬間に掌を返す方だ。もしあんたがこれまで幕府が不利益を被るようなことをしてなきゃ問題ないが、何か心当たりがあるなら覚悟しておいた方がいいぜ」
「か、覚悟……!?」
「あんたも刑部省にいるんだから、よくわかってるはずだろ? 昨年の近衛家の事件をさ。柿人様は触れてはいけない逆鱗に触れたんだ。俺はあの時、北条鬼灯様と一緒に近衛家の邸に乗りこんだけど、今でも鮮明に覚えてるぜ。鬼灯様はあっという間に近衛家を征伐した」
杏弥は何も言わなかったが、紫苑はさらに追い詰めるように続けた。
「あんただって刑部少輔なんだから、あの震えあがるような朝議の場にいたんだろう?」
「……朝議?」
「ああ。鬼灯様が柿人様を糾弾した朝議さ。覚えてねぇのか? あの人はこう言ったんだ——」
——幕府に盾突く者を決して許しはしない。
——立ち向かってくる者には圧倒的な武力を持ってこれを制圧する。
——そこに家格や官位への酌量はない。
つまり鬼灯は、摂家であろうと幕府へ害を成すと判断されれば一刀両断する、と公家の集まる朝議の場で宣言したのだ。
紫苑はその強い言葉を一生忘れることはないだろう、と思っている。
視界の端に杏弥が足を震わせているのが見える。
何をしでかしたのかはわからないが、まだ裏に何か隠されたものがありそうだ。
そう感じた彼は楓とともに深いため息をつくしかなかった。