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第87話 隠しごとのできない相手

 寝殿へ場所を移すことになった時華ときはな白椎くすいは置き畳の上で向かい合った。

 いつもそばに松島を置く時華にしては珍しく、腹心を榛紀しんきのもとへ置いてきたため、寝殿にはふたりしかいなかった。

 時華は、かつて風雅の君と呼ばれた第1皇子を目の前にして、幻を見ているような現実味のない状況に内心は困惑していた。

 目の前にいるのは本当に風雅の君なのだろうか、と思うほどである。

 しかしやはり血を分けた兄弟——雰囲気はどこか榛紀に似ている。

 かつて彼が幼い頃には榛紀と同じように世話をしたこともあったがそれもいつのことだっただろうか。

 『橄欖園遊録かんらんえんゆうろく』に記録されている春の園遊会ぶりに会った風雅の君は、昔の面影を少し残す立派な大人になっていた。

 榛紀がこそこそと調べていた禁書に改めて目を通した時には、風雅の君を守ることができなかった無力な過去の自分を思い出したものだ。

 できることなら宮中に残し成長を見守りたかったが、先帝がそれを許さなかった。

 今春にみやこで起こった連続毒殺事件に風雅の君が関与しているという話を耳に挟んだが、結局、証拠もなく不問にされた風雅の君は文字どおり風のように消え、消息を絶ったという。

 兄を不憫に思ったのか榛紀は何とかして彼を宮中に取り戻そうとしていたようだが、もう彼の居場所は京にはない。

 それは聡い風雅の君自身が1番よくわかっているはずなのに、今頃京に現れて何をしようとしているのだろう。

 時華はそれが気がかりだった。

「白椎様、これはどういうことなのか説明していただけるのでしょうか」

 先に口火を切ったのは時華の方だった。

「——邸の中をお騒がせしたことは謝ります。私たちはここへ来るべきではなかった」

「私たち、とは?」

「私と榛紀のことです。ですが、榛紀は発熱しているようなのでしばらく九条邸ここで面倒を看ていただけませんか」

「もちろんそのつもりですが……榛紀様はまた倒れられたのですか。本当にお疲れが溜まっているだけなのだろうか。もしやどこかお悪いのでは」

 視線を逸らした時華は顎に手を当てて、首を傾げた。

 親代わりを務めている身としては心労が絶えない。

「また、とはどういうことですか」

「一昨日の夜、雨に打たれていたところをお助けしたのです。翌日には良くなられましたが、昨日清涼殿に戻られたばかりなのに再びここへ舞い戻られるとは思いもよらなかった」

「…………」

 発熱したのは今夜だけのことではないと知った風雅の君は思いの外、不安そうな表情を見せた。

 榛紀にもしものことがあれば、宮中に戻れる可能性があるのはわかっているはずなのに、白椎はそれを望んでいないのだろうか。

 時華は探るような眼差しで白椎を見た。

 長旅をしてきたのか着物もくたびれ、どこか疲れたように見える。

「ところで、なぜあなたは弟君と一緒に京にいらっしゃるのですか」

「一緒にいたわけではないのです。私が京に到着した時に、偶然近くへ榛紀の方からやって来たのです」

「榛紀様が近くへやって来た、とは?」

「何があったのかよくはわかりませんが、市中で何かの催しをしていたようですね。店の前にいくつもの提灯が下げられ、市井の人々が集まり賑わっていました。その中に鷹司たかつかさ家の嫡子がいました。榛紀は彼を探していたようなのです」

 時華は眉根を寄せた。

 なぜ榛紀が鷹司家の者を追っていたのか、全く心当たりがなかった。

 腕を組み思案していると、ふと北条鬼灯ほうじょうきとうが鷹司家のことを探っていたことを思い出した。

 やはり近衛このえ家に続き鷹司家も何かを企んでいるのだろうか。

 顔を歪める時華をよそに白椎は続けた。

鷹司杏弥たかつかさきょうやを追っていた榛紀と、榛紀を追って来た月華つきはなが現れ、それを久我くが家の嫡子がさらに追いかけてきました。そこへ私が鉢合わせたのです」

「うちの愚息もそこにおったのですか」

「ええ、まあ。榛紀の身を案じていたようですけどね。ですが榛紀は私がその場にいたことに気づいていないと思います」

「気づいていない?」

「私が榛紀の存在に気がついた時にはすでにあの子はほとんど意識がない状態でしたから」

「そうですか。何があったのかはだいたいわかりました。それで、なぜあなたは京に? てっきり今も備中国びちゅうのくににいらっしゃるものと思っておりましたが」

「それは…………」

 白椎はふと視線を逸らした。

 時華にはそれが後ろめたい何かを隠しているように見えた。



 九条家の寝殿から東対ひがしのたいへ戻ると、白檀びゃくだん御帳台みちょうだいで眠る榛紀の手を握った。

 発熱する弟の頭を撫で、深いため息をつく。

 まさかこの年になって、子どもの頃に世話になった時華と再会するとは思ってもみなかった。

 榛紀がこのようなことになっていなければ、会うことは一生なかったことだろう。

 風雅の君と呼ばれる存在は、いない方がみなにとって平和なはずである。

 榛紀を支える者たちにとっては彼の地位を揺るがすような存在は疎ましい者以外の何ものでもない。

 親幕派と囁かれる今の朝廷は、争いもなく穏やかだ。

 多くの者が現帝の治世が永く続くことを望んでいることだろう。

 倒幕派と言われる一部の者たちによって、その治世が乱されることは民にとっても不幸なことに違いない。

 倒幕派はかつての平家が栄華を誇った治世を望み、絶対的な身分による上下関係と贅の限りを尽くせる環境を望んでいる。

 榛紀の治世を快く思わない者たちに帝の代わりとして担ぎ上げられるのは癪に障る。

 自分が帝になることなど、1度も望んだことはない。

 どうせ疎まれる存在なら、いっそのこと誰かの役に立ってその生をまっとうしたいと思ったからこそ、輪廻の華に解の術について教えようと思ったのだ。

 だが、時華になぜ京にいるのかと問われ、輪廻の華に会うためだとはどうしても言えなかった。

 だから口を閉ざしてしまったが、彼はすべてお見通しだったのかもしれない。

 白檀は、榛紀を見つめながら寝殿での時華とのやり取りを思い返した——。



「この着物、ずっとここに飾ってもう何年になることやら……ですが不思議と色褪せることがないのですよ。まるで蘭子らんこの魂が宿っているかのように」

 時華は突然、寝殿に飾ってある打掛を指して言った。

 白檀は何を言い出したのか、まったく意味がわからなかったがとりあえず耳を傾けることにした。

「蘭子は少し極端な性格をした女子でしてね。先帝の妹という立場に生まれたことを誰よりも嫌っておりました。そんな彼女を受け止めてくれていたのがあなたの母君——芙蓉ふよう様でした」

「母上が?」

「それは親しかったと後に蘭子自身が言っておりました」

「それは、初耳です」

「そうでしょう。蘭子が芙蓉様のもとをよく訪れていたのは白椎様がお生まれになる前のことですから」

「……叔母上には、結局最期までお会いする機会に恵まれませんでしたね」

 白檀は目を細め、飾られた打掛を見た。

 月華や悠蘭の母であった蘭子姫は、父である先帝の妹だった。

 叔母であるはずの彼女は、宮中を飛び出し自ら九条家の嫁になることを望んだと亡き母から聞かされたことがあるのを思い出す。

 九条家に勝手に嫁いでしまった蘭子はその後、先帝が行方不明になったと触れを出したことで、宮中に姿を現すことはなくなったと言う。

 他者の目から隠れるように暮らさざるを得なかった白檀にとって、宮中を出てしまった叔母に会う機会はなかったのである。

「蘭子は会えなくてもいつもあなたのことを気にかけておりましたよ。まるで自分の息子のようにね」

「嘘はやめてください。そんなこと、あるはずがありません。会ったことのない私のことなど——」

「嘘ではありませぬ。芙蓉様は例の異能を持っていたがために先帝と出逢い、見初められてあなたをお産みになったが、そのせいで軟禁状態にあったのです。異能があなたに受け継がれることはなかったが、あの異能を持っていなければもっと違う人生だったと芙蓉様は蘭子に打ち明けられたそうです。生前、蘭子はいつも芙蓉様と白椎様のことを不憫だと申しておりました」

 白檀は時華の話に目を見開いた。

 母が持っていた異能について知っている、と語る時華はまさかそれが嫁の百合に受け継がれていることを知っているのだろうか。

 あの異能を持ってしまったがために百合は今も狙われている。

 今夜、百合が山吹によって攫われ、それを月華が追っていることを伝えるべきなのだろうか。

「……まさか、あの異能のことをご存じなのですか」

 恐る恐る窺うように白檀は時華に訊ねた。

 すると不敵に微笑んだ時華は言った。

「そうだと言ったら、あなたはどうされますか」

 


 ——白檀は寝込む弟の手を握りながら再び深いため息をつく。

 無駄に心労を課すだけだと思い、百合が連れ去られたことを話すつもりはなかった。

 百合が連れ去られたことを話すには、彼女が持つ異能が原因であることを告げなければならない。

 だが、意外なことに時華は百合の異能のことを知っていた。

 しかもそれは巡り巡って芙蓉から受け継がれたものであることに当たりをつけていたのである。

 突然、亡くなった妻の話をし始めた時は何を言い出すのかと思ったが、異能のことを話すきっかけに使ったのだと後になってわかった。

 相手から振られてしまったからには、答えないわけにはいかなかった。

 さすがは九条家当主にして右大臣である。

 隠しごとをすることなどできなかった。

 百合が持つ異能を求める備中国の輩に放たれた刺客によって彼女が連れ去られたこと、それを今、月華が追っていることを打ち明けざるを得なかったのだった。

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