第85話 とらわれて
白檀に頼まれ月華を追った棗芽はすぐにその背中を捕らえた。
星祭り会場からだいぶ離れると、提灯の明かりがなくなり空からは瞬く星の明かりが降り注ぐ。
満月の明かりほどは明るくないが、朔月とはいえ雲ひとつない星空の明かりは人影を捕らえるには十分だった。
「月華」
棗芽が声をかけても、月華は足を止めることはなかった。
冷静さを欠き、我を忘れて一心不乱になっているようには見えない。
わざと聞こえないふりをしているのだろう。
「待ちなさい、月華」
身に迫る危機を与えた方が、効果がある。
そう考えた棗芽は再び声をかけても足を止めなかった月華に対し、走りながら拾った拳ほどの大きさの石を放り投げた。
軽く投げた程度だったが石そのものの質量に加え、投げた速度が加わり勢いよく伸びた石は月華の後頭部目がけて飛んでいった。
気配を感じた月華が振り返るとそれはすぐ目の前に迫っていた。
月華が足を止め間一髪のところでよけると棗芽によって投げられた石は月華の行く3歩先あたりの地面にめり込んだ。
後頭部に直撃していたら大怪我では済まなかっただろうが、月華が避けるであろうことは棗芽も計算に入れていた。
足を止めた月華は地面にめり込んだ石を拾い、棗芽に向かって投げた。
「棗芽様、危ないではありませんかっ! どういうつもりですか」
月華が投げ返してきた石を受け取った棗芽は右手へ左手へと交互に転がし、石を弄びながら答えた。
「声をかけても君が止まらないから、強制的に足を止めるしかないと思いまして」
「当たったら死ぬところですよ!? もっと他の方法を考えてください」
「君の足を止めることはできましたから、目的は達しました」
両手の中で転がしていた石を棗芽は再び月華へ軽く投げたが、彼がそれを受け取ることはなかった。
投げられた石は地面にむなしく転がる。
「——俺は今、自分の命よりも大事な妻を取り戻しに行くところなんです。邪魔しないでいただけますか。あなたの悪ふざけに付き合っている暇はないんですよ」
月華は皮肉たっぷりに言ったが棗芽にとってはどこ吹く風だった。
「君は輪廻の華を連れ去った男を殺すかもしれない。それは私にとって都合が悪いのですよ」
白檀が言うとおり、隻眼の男が紅葉の兄だというのなら確かに殺させるわけにはいかない。
隻眼の男——棗芽はふと思った。
どこかでそんな男を見たような気がする。
だがどこで会ったのか思い出すことはできなかった。
「そういえばあなたはあの白檀と一緒にいましたよね? その都合が悪いというのはあいつと関係があるのですか」
「あの人とは関係ありません。これは私の問題です」
「……何だかよくわかりませんが俺はあの隻眼の男と浅からぬ縁があるので、殺さないという約束はできませんね」
眉根を寄せて答えた月華が再び駆け出そうとしたため、棗芽は彼を呼び止めた。
「待ちなさい、月華」
「まだ何か!?」
「溺愛する妻が連れ去られたというのに、君はずいぶん冷静ですね」
「は……!? これが冷静に見えますか」
「もっと我を失っているかと思いました」
「それは——今のところ百合が命を奪われるようなことはないだろうと思うからです。輪廻の華として必要としているのなら、彼女の持つ異能を欲しているのでしょうから、生かしておかなければ意味がない。だからと言ってのんびり構えるつもりはありませんけどね。早くこの手に取り戻さなければ、生きた心地さえしない」
それだけ言うと月華は再び隻眼の男を追った。
月華の後を追いながら棗芽の脳裏には連れ去られた紅葉の姿が浮かぶ。
連れ去ったのが紅葉の兄ではなく別の男で、抵抗する彼女を目の前で攫っていったとしたら……?
頭の奥に紅葉の悲鳴がこだまして、棗芽は急に胸が苦しくなった。
鼓動が速まり、全身の血が逆流するような不快感に襲われる。
これは現実ではなく、単なる妄想に過ぎない。
そう自分に言い聞かせて、全身の異常を沈めたが棗芽は月華が同じような感覚を抱えていながらも冷静を装っていることが信じられなかった。
殺されることはないとわかっていたとしても感情的にならないことの方が難しい。
輪廻の華という特別な女子を妻に迎え、月華はこれまでどれだけの想いをしてきたのだろう。
以前の棗芽であれば、そんなことは想像すらしなかったが紅葉に出逢ってからは少しずつ考え方が変わってきたように思う。
それほど影響力を持つようになった紅葉の存在はもはやただの知り合いではない。
紅葉はいつの間にか自分の心を大きく占領するようになってしまった。
——心惹かれる相手には出逢ったが最後、その存在を自分の中から消すのは容易なことではないはずですよ。
そんな白檀の言葉が深く心に刻まれている。
もう、紅葉の存在を自分の中から消すことはできないだろう。
だから紅葉が悲しむ顔は見たくない。
そのために月華が隻眼の男を傷つけるのは阻止しなければならない。
できれば輪廻の華は月華の手に戻してやりたい。
そして、二度と同じことが繰り返されないようにするためには、輪廻の華と白檀を引き合わせるしかない。
異能を消す術を伝授させるために。
後をついて行く棗芽のことをうんざりした様子で見てきた月華に構うことなく、棗芽は棗芽の目的のために隻眼の男を追った。
「は、離してくださいっ」
嫌がる百合の手を強く引き、山吹は星祭りの会場を後にした。
鷹司杏弥の作戦とは違った形にはなったが、輪廻の華を手に入れたことには違いない。
九条月華が妻の元を自らの意思で離れることは想定していなかった。
代わりに弟の九条悠蘭が立ちはだかったが、所詮は朝廷の官吏。
相手にはならなかった。
夜も更けてきたところだが、足を止めることはできない。
いつ月華が追って来るかわからないのだ。
一刻も早く備中国へ向かうに越したことはないだろう。
「どこへ行く気ですかっ。あなたは一体誰なのです?」
必死に抵抗する百合を連れて行こうとすると思うように前に進むことができなかったため、山吹は仕方なく彼女を抱きかかえて走ることにした。
「失礼。あんたには悪いがこのまま俺と京を出てもらう。あんたに危害を加えるつもりはない。だから頼むから暴れるなよ」
嫌がる百合を横向きに抱き上げると、そのまま山吹は備中国へ向かうことにした。
京から近江へ向かう道、東へ向かう東海道、西へ向かう山陽道がちょうど交わる中継地点にある小さな町に入ると辺りは静寂に包まれていた。
備中国へ徒歩で行くには遠すぎる。
ましてや百合を抱え、追手に追いつかれずに行くには馬の調達が必須である。
山吹は辺りを見回したが、馬を手配できそうなところはどこにもない。
星祭りを行っている京とは違い、深夜ともなればどの家も戸を固く閉ざしていた。
緊急事態だったとはいえ、もともと使っていた馬を京に残してその場を離れざるを得なかったことを山吹は悔やんだ。
さて、どうしたものか。
足を止めて深くため息をつくと、腕の中の百合は怯えているどころか訝しげに山吹を見ていた。
「あ、あの、なぜ私を連れていこうとなさるのですか」
どんな質問にも一切答えなかった山吹だったが、ふと百合の表情を見て気が変わった。
質問に答えなかったのは、変に情報を与えて暴れられれば厄介だと思ったからである。
非力な女子とはいえ、錯乱すると手が付けられなくなることがある。
やっと手に入れた輪廻の華なのだ。
三公に引き渡すまで、手放すことはできない。
だが山吹の予想に反して、百合は意外と冷静だった。
その瞳はしっかりと山吹を見据えている。
輪廻の華と呼ばれ、これまで幾度となく狙われ、危険な目に会ってきたせいなのか彼女は山吹が考える以上に肝が据わっていた。
山吹はその場に百合を降ろした。
京から離れてしまい、こんなところに来てまで逃げようとするとは思えなかったからだ。
「——輪廻の華を必要としている方たちのところへあんたを連れていく」
「……また、戦でもしようと言うのですか」
「目的は聞いていない。だがあんたの持つ異能に関わることは確かだろうな」
「…………」
百合は視線を逸らした。
その表情は苦渋に満ちており、自らの運命を呪っているようにさえ見えた。
抵抗しないのは、夫である月華が助けに来てくれると信じているからだろうか。
それともすべての運命を受け入れているからなのだろうか。
暴れるなと言いながらも山吹は内心、罵詈雑言を吐いて暴れられた方が、幾分気が楽だと思っていた。
今、山吹がしようとしていることは人道に反することだと十分理解している。
異能を持つ存在として輪廻の華を欲する三公に差し出すだけでなく、紅葉を息子の妾にしようとしている妹尾菱盛に紅葉の代わりとして人妻である彼女を差し出そうと考えているのだ。
常軌を逸していることは自分でもよくわかっている。
だから山吹は深く考えないことにしている。
ただ淡々としなければならないことをしているだけ。
そう思っていないと気が持たない。
どこかに繋がれている馬はいないか辺りを窺いながら、百合の手を引いて歩いていると市中を徘徊する野良犬の遠吠えが聞こえた。
あちこちから呼応するように遠吠えが聞こえてくる。
異変を感じた山吹は間もなく山陽道へ入ろうかというところで、足を止めた。
「……あの」
「静かに」
百合を後ろから抱き込み、何も言わせないように口元を押さえた山吹は耳を澄ませた——。