第84話 隻眼の男
鷹司家は5摂家の中でもいつも近衛家、九条家に次いで3番目に甘んじている——。
それは現鷹司家当主である鷹司棕梠の口癖であった。
杏弥は子どもの頃からずっと耳にたこができるほど聞かされて育ってきたのである。
だから昨秋、近衛家が征伐された時には邸中が歓喜で沸いた。
これでやっと近衛家を退け、我が鷹司家が左右大臣のどちらかに成り上がることができる——そう棕梠が言ったのはいつのことだったか。
結局、左大臣の座は半年以上もの間、空席のままだった。
徐々に邸の中が殺伐とした空気に包まれ始めた頃、近衛家に関係した者の裁きを後始末していた折、土御門皐英の文を発見した杏弥は、絶好の機会が訪れたと思って疑わなかった。
発見した当時、内容は半分も理解できない暗号のようなものだったがそれは風雅の君に向けた文であったために、これを足掛かりに帝と血を分ける貴人と接点を持てないかと考えた。
わざわざ備中国まで足を運び、風雅の君とは知らずに白檀と名乗る茶人に媚びへつらったのは、すべて鷹司家の繁栄のためだった。
だが今夜、すべては無駄に終わった。
杏弥は呆然と立ち尽くしていた。
周りの喧騒すら耳に入らなかった。
——目の前にいる榛紀陛下にもしものことがあったら、あなたはそれに関わった罪を問われるかもしれないことを覚悟しておきなさい。
風雅の君に耳打ちされた言葉が頭から離れない。
何を言っているのかまったく理解できなかったが、風雅の君が杏弥に対し好意的でないことだけはわかった。
むしろ敵と認識されたような気さえしている。
目の前にいる榛紀陛下とはどういう意味だろう。
そこにいたのは誰も名や家柄を知らない弾正尹だけだった。
まさか弾正尹が帝だとでも言いたいのだろうか。
いや……そんなことはあり得ない。
帝がこんな夜分にひとりで市井にいるなど、あり得るはずがない。
それに帝ともあろう高貴な人物が官吏のまねごとなどして、日頃うろうろとしているなどあろうはずもない。
……罪を問われる、とはどういうことだろう。
風雅の君に接触しようとしたことだろうか、それとも輪廻の華を利用しようとしたことか。
「——……少輔」
何かが聞こえた気がしたが杏弥は答えが出ないことを考え続け、どっと疲れを感じてとうとう考えることを拒絶してしまった。
もう何も考えることができない。
「——……殿」
ああ、疲れた。
なぜここにいるのかも思い出せない。
「刑部少輔、鷹司杏弥殿! いかがした!?」
肩を大きく揺すられ、杏弥は我に返った。
相手に視線を向けると、そこには中務省でよく見かける今出川楓がいた。
杏弥は驚いてその場にひっくり返り、尻もちをついた。
それまで拒絶していた思考が、一瞬にして回り始める。
「……き、急に声をかけるなっ」
「急ではなく、何度も声をかけたがそなたが上の空だったのだ」
「…………」
杏弥はこれまでのことを必死で思い出す。
風雅の君に取り入るために輪廻の華を捕らえようとして遠巻きに様子を見ていたところ、突然、弾正尹がやって来て、気がついた時には九条月華や久我紫苑、風雅の君までもがこの場にいた。
辺りを見回すと楓以外には誰もいなくなっていた。
まるで幻でも見たかのような気分だった。
楓は訝しげに杏弥を見ている。
「そなたらしくないな。一体何があったのか知らぬが、とにかく私と一緒に来てもらおう」
突然、腕を掴まれ無理やり立たされそうになったため杏弥は思いっきり腕を引き、楓の拘束を逃れた。
「い、行くってどこへ行くというのだ」
「それは…………考えていなかった」
楓は素直にそう答えた。
「……は?」
「月華殿からそなたを捕まえてほしいと頼まれたが、考えてみれば罪を追求するにも捕らえるのは兵部省の管轄だし、裁くのは刑部省の管轄だ。刑部少輔のそなたを牢に入れるには、どうすればよいのだろうな」
「ろ、牢に入れるだと?」
「そなた、月華殿の奥方をかどわかそうとしていたのだろう? 十分重罪に値すると思うが、まさか何の咎も受けないとでも思っているのではなかろうな」
「…………!」
「とにかく私では判断がつかぬゆえ、弾正尹様と風雅の君を九条邸へ届けに行った紫苑殿を追いかけるとするか」
楓がそう言った時、杏弥は思考が停止する前までに考えていたことを思い出した。
風雅の君の脅しに震えあがっていたことを。
ただの官吏が放った言葉とは重みがまるで違う。
何を勘違いしているのかはわからないが風雅の君自身が杏弥の罪を問うと言っているような気がした。
すると杏弥はみるみる表情を青ざめ、仕舞いには口をぱくつかせた。
自分のせいで鷹司家が近衛家のようになってしまうのではないかと思い、恐怖で震えあがってしまったのだ。
「だ、大丈夫か、刑部少輔!?」
「——お、俺は」
やっと声を発することができるようになった杏弥は勢いよくまくし立てた。
「俺はあいつらのところへは行かぬからなっ。そんなところへ行ったらいくら命があっても足りぬ!」
「はっ? 何をそんなに怯えているのだ……? そなたの事情は知らぬが私が請け負ったのはそなたの身を捕獲しておくことだ。何でもよいがついて来てもらうからな」
強引に連れていこうとする楓を杏弥は全力で拒否した。
「やめろっ!」
「いいから、こちらへ来るのだ」
いつになく強引な楓とそれに抗う杏弥とのやり取りはしばらく続いた。
「刑部少輔。いい加減、腹を括ったらどうなのだ。そもそもそなたの行き過ぎた野心のせいではないか」
「野心を持って何が悪い! お前のような清華家の者にはわかるまいっ。俺は常に父から摂家の誇りを叩き込まれてきた。その摂家の中でもいつも越えられない2つの壁を超えるためならばどんな手でも打つのが鷹司家の本懐だ」
「だがその行き過ぎた野心が今、危機を招いていると理解された方がよい。そなたひとりの処分ですめばよいがな」
「……どういう意味だ」
「そなた、まだわかっていないのか。そなたが手を出そうとしたのはその越えられない壁のひとつ、九条家嫡子が自らの命よりも大事にしているという嫁だ。このままただで済まされるとは思えぬ」
「…………っ」
すると1度は唇を噛みしめた杏弥だったが、急に開き直ったかと思うと余裕を見せて雄弁に語り出した。
「く、企てたことは認めるが俺は何も手を下していない。それにもし誰かが輪廻の華を捕えたとするならそれは俺とは関りのない者だ。俺はあいつが何者かも知らぬのだからな」
「私は隻眼の男が彼女を連れ去るところをこの目で見た。月華殿の話に寄ればそなたはあの隻眼の男と結託していたと認めたそうだな? あの男と手を組んだのが運の尽きだと諦めた方が賢明だ」
「あのような、どこの馬の骨ともわからぬ男と俺が関わったことが何だと言うのだ」
「あの男のことを知らぬのか」
「知らぬっ! 妙に公家の事情について詳しいようだったが問い詰めようとしても決して口を割らなかった。さらに踏み込もうとすると刀をちらつかせて、一切自分のことをさらさなかったのだ。まさか、あいつ、やはりどこぞの家に仕える間者だったのか!?」
本当に何も知らずに手を組んだのかと楓は呆れかえった。
利用するだけ利用して切り捨てようと考えていたのだろうが、人捕る亀は人に捕られるとはよく言ったものだ。
「……本当に知らぬのだな。その隻眼の男というのは馬の骨ではなく風雅の君の懐刀だ。月華殿の奥方を狙っているのは風雅の君の意思ではないようだがな。だが隻眼の男を追った月華殿は男の素性を知っている。そなた自身が結託していたことを認めた以上、男が捕まれば直接手を下していなくともそなたの罪を問うだろう。鷹司家全体へ波及しなければよいが」
楓のひと言は杏弥を黙らせるには十分だった。
杏弥は思った。
利用しているつもりだったが、むしろこちらが利用されていたのではないか、と。
山吹は初めから杏弥を利用するつもりで近づいてきたのではないだろうか。
輪廻の華を風雅の君への手土産にする話をした時、確かに山吹はおかしなことを言っていた。
——目の付けどころは悪くなかったかもしれないが、あんたはひとつ間違えている。
あの時は意味がわからなかったし、気にも留めなかった。
目的遂行の妨げにはならないと彼は言ったからだ。
楓の話が本当だとすれば、風雅の君の懐刀である山吹が輪廻の華を狙っているのは主の指示ではないと言う。
ならば山吹が言った間違えているとは、輪廻の華を捕らえることには賛同するが風雅の君へ献上することには賛成できない、という意味なのではないだろうか。
だが、今気がついたところですでに後の祭りである。
杏弥は真意を何も知らずに山吹と手を組んでしまったことを深く後悔したのだった。