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第83話 失いたくないから

 日が沈み満天の星空へ変わってしまったことを、紅葉くれははがっかりしながら眺めていた。

 境内の向こうへ広がる星空は美しい天の川を浮かべているものの、満月の明るさには遠く及ばない。

 朔月の夜はこんなにも心細いものだっただろうか。

 紅葉はそう思った。

 長年、妹尾せのお家に暮らしてきた紅葉の周りにはいつも誰かがいた。

 兄の山吹やまぶき白檀びゃくだんだけでなく、からかってくる敦盛あつもりや家族のように扱ってくれるあずさなど、誰とも会わないことの方が珍しい大所帯のような邸だった。

 白檀の使いで旅に出ることもあったがそれは目的があってのことであり、帰る場所があると思って出かけていたからひとりでも寂しさを感じることはなかった。

 だが備中国びっちゅうのくにを出て紅蓮寺ぐれんじへ来た紅葉にとって、ここは仮住まいであって帰る家ではない。

 寺の住職である雪柊せっしゅうは白檀からの頼みだから預かってくれているのであり、家族として迎えてくれているわけではないだろう。

 そう思うと、果たしてここにいていいのだろうかと紅葉は考えてしまうのだった。

 嵐の中、どこかへ出かけていった棗芽なつめに待っていると伝えた刻限は、雨が上がるまでである。

 それまでは棗芽に待っていると約束したから、というここにいる理由があった。

 が、それはとっくに過ぎているのに彼はまだ戻っていない。

 もう戻ってくるつもりがないのか、それとも戻ることができない何かがあったのか。

 紅葉は夜空を見上げてため息をついた。

「どうしたんだい、ため息なんてついて」

 声に驚き、振り返るとそこには気配なく現れた雪柊が立っていた。

 雪柊は紅葉の隣に腰を下ろす。

「脅かさないでください、雪柊」

「すまないね。どうも私は無意識に気配を消してしまうくせがあるようだ」

「……正直に言えば、お寺の住職とは思えません」

 訝しげに上目遣いをする紅葉を雪柊は笑い飛ばした。

「これでもだいぶ僧侶らしくなったと思ってるんだけどね」

 年は齢40を超えているように見える雪柊だが身のこなしはとてもそうは思えない。

 まるで忍びのような身軽さで、紅葉にとってはその存在自体が不思議でならなかった。

「ひとつお聞きしてもいいですか」

「何だい?」

「以前、僧侶になる前は朝廷で官吏をされていたから白檀様のことをご存じだったっておっしゃっていましたよね?」

「ああ、言ったね」

「どうして官吏を辞めて仏門に入られたのですか」

 紅葉の問いに雪柊は一瞬、瞳を曇らせたがやがて遠くを眺めながら答えた。

「……話せば長くなるけど、端的に言えば自分の命よりも大切にしていたものを奪われて傷心していた時に出会ったのがここの前の住職だったからかな。私を闇から救い出してくれて、新しい人生を与えてくださったんだ」

「新しい人生?」

「死にたいくらいどん底まで落ちたけど、その方の救いによってもう1度だけ生きてみようと思った。それに1度失った命だと思えば、新しく与えられた命は誰かのために使いたいと思ったんだよ」

 紅葉は少し雪柊の気持ちがわかるような気がした。

 幼い頃、白檀に拾われなければおそらくその辺でのたれ死んでいたに違いない。

 だから新しい道を与えてくれた白檀にこの先の人生を捧げようと思った。

 ふと雪柊を見て、紅葉は彼がいつも鈍色にびいろの着物を着ていることに気がついた。

 鈍色は喪の色である。

 初めて会った日も、その次の日も、その次の日も——考えてみれば彼が鈍色以外の色を纏ったのを見たことがない。

「雪柊様、ご自分の命よりも大切なものを失われたからいつも鈍色を纏われているのですか」

「……そうだね。私は今も失ったものの大きさを痛感してるよ。失ったのはずいぶん前の話になるけどね」

 と、雪柊は相好を崩した。

 死にたいと思うほど大切なものを奪われた、とは家族を失ったという意味だろうか。

 もしそうだとすれば、雪柊は長い間、喪に服していることになる。

 紅葉は自分に置き換えて考えてみた。

 山吹や白檀ともう2度と会えない状況になると思うと不安で鼓動が速まった。

 最期に言葉を交わすこともできず、看取ることもできずに会えなくなったとしたらそれは耐え難い苦痛に違いない。

 そしてそれは棗芽に対しても同じように思う。

 棗芽は何か話したいことがあるから、戻ってくるまで待っていてほしいと言って出かけたのだ。

 彼が何を言わんとしているのかはわからないが、このまま別れも告げずに会えなくなるなど想像もできない。

 その別れとは、単に何年も会えないといった状況的な問題ではなく、現世において2度と会うことができないことを指している。

 それは今の紅葉には受け入れることができない。

「その失ったものを窺ってもいいですか……?」

 踏み込んでいいのか悩みながらも訊いた紅葉をまっすぐに見つめて雪柊は言った。

「愛する妻と子だった」

「…………」

「子はまだ生まれてもいなかったよ。本当にかわいそうなことをした」

「……ご病気、だったのですか」

「いや、私の家の者に殺されてしまったんだ」

「え……っ」

 昔の話だけどね、と続けた雪柊はどこか寂しそうだった。

 それを見て紅葉は彼にとって月日は関係ない、何年経っても忘れることができないほどの深い傷なのだと理解した。

 そして紅葉はひとつの不安に駆られた。

 ——もう雨は止んだのにまだ戻ってこないってことは、何かあったのかな。

 雨が止んだ時に雪柊が呟いた言葉がふと蘇る。

 何か、とはまさか彼の身に良からぬことが起こったと言っているように聞こえる。

 不安に支配された紅葉は、急に立ち上がった。

「雪柊様、あたし、とにかく今すぐ寺を出ます」

「どうしたんだい、急に」

「だって棗芽が戻ってこないからっ……!」

「だからってこんな夜に出かけなくても——」

「雪柊様だって言ってたじゃないないですか、約束しておきながら断りもなく姿を消すようなことはないって。それなのにまだここに戻ってこないってことは何かあったってことでしょ? あたし、これ以上ここで待ってるだけなんてできませんっ」

「でも行く当てはあるのかい」

「当ては……ありませんけど、棗芽は白檀様のことを気にしていたみたいでした。あたしに白檀様に逢いたいかと訊いてきたから。無事でいてほしいと思うって言ったら急に出かけると言い出したんです。だから棗芽は備中国に行ったのかも」

「えぇ!? 君はその備中国から逃れてきたのに、その火中に飛び込むつもりなのかい」

「——あたしも大切なものを失いたくないから」

 そう言って紅葉は境内へ出た。

 1度様子を見に来た山吹のことも気になるが、彼は自分の意志で動いているようだった。

 白檀の安全も気になるが、妹尾家の中にいる限り三公が彼を閉じ込めることはあっても傷つけることはない。

 だから今は棗芽が最も心配なのだ。

 自分の意思で動いていた彼が約束した刻限に戻ってこなかったのは、意思に反して戻って来られない事情ができたということなのだろう。

 1歩踏み出した腕を雪柊に掴まれ、紅葉は振り向いた。

「まったく……棗芽の言うとおりだよ」

「え? 何がですか?」

「じゃじゃ馬」

「は?」

「思い立ったらすぐ行動するのを悪いとは言わないけど、もう少し考えて行動しなさい、紅葉。こんな夜更けに女子ひとりでふらふらするなんて危ないじゃないか」

「……あたし、こう見えてもこれまで何度も夜中に長距離を移動してますから、特別なことじゃありませんけど」

「それじゃあ私の気が済まないんだよ。こんな時分にひとりで行かせたと知れたら後で棗芽に何て言われるわかったものじゃないしね」

 雪柊も腰掛けていた縁側から立ち上がると、歩き出した。

 状況が呑み込めない紅葉がひとり困惑していると、

「何してるんだい? 棗芽を探しに行くんだろう?」

 と、雪柊の方が先を促した。

「せ、雪柊様も行くんですか」

「当り前じゃないか。紅葉ひとりを行かせられないよ」

「で、でも寺を空けていいのですか」

「こんなこともあろうかと鉄線てっせんには寺を空けるかも、と言ってあるさ」

 先を行く雪柊を追いかけるように紅葉も後に続いた。

 麓へ続く石段を下りながら紅葉はふと思い返して言った。

「雪柊様、先刻さっき、じゃじゃ馬とか言ってましたよね?」

「……ああ、そういえば言ったね」

 何となく気まずそうにする彼は紅葉から視線を逸らした。

「あれ、どういう意味ですか」

「どういうって、私が言ったわけじゃないからなあ……でも言葉のとおりなんじゃないかな」

「それってまさか——」

「棗芽が言ったんだよ。君があの子の手に噛みついたりするから」

「…………!」

 紅葉は陰口を叩かれていたことに驚き、石段を踏み外しそうになった。

「大丈夫かい、紅葉」

 転びそうなところを雪柊に支えられ、体制を整えた紅葉の中には徐々に怒りがこみ上げてきた。

 だが、すぐに冷静さを取り戻す。

 怒りをぶつけられるのは相手が無事であってこそ。

 棗芽の無事な姿を確認できた暁には、この怒りを精一杯ぶつけよう、紅葉はそう心に誓った。

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